地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした。

雪うさこ

文字の大きさ
45 / 94
オルガンのための10の小品 "Dix Pieces"  第四曲 トッカータ hmoll

第5話 金魚のフンは気分屋

しおりを挟む





「はあ? 幽霊だと?」 

 遅番で一緒だった星野に先ほどの邂逅の場面を説明する。 

「だ、だって。帰るって言って、玄関の方じゃなくて、奥に歩いて行ったんですよ? しかも水飲み場の角を曲がった途端、いなくなっちゃったんですから!」 

 プロ野球中継を小さくかけながら、ソファに寝そべってうちわえ仰いでいた星野は大声で笑い出す。 

「お前、疲れてんだって。そんなん、いるわけないじゃん~」 

「え? えっと。幻覚、なのでしょうか……」 

 目を擦ってみる。 

 ——疲れているというのか? 

 残業をしていて、トイレから戻ってきた吉田も事のしだいに笑い出した。 

あお~……。お前、本当に面白いな」 

「吉田さんまで……。本当のことなのに」 

「ほらほら。そんなこと言ってねーで。戸締りの時間ですよ」 

 星野に促されて、時計に視線を向けると針は午後九時を指すところだった。 

「わかりました」 

「怖いなら一緒に行ってあげよっか?」 

 星野の揶揄からかうような言葉に「いいですよ」と頬を膨らませて、蒼は懐中電灯を手に廊下に出た。 

 帰宅準備をしている団体に声をかけて歩く。もしかして、彼女が奥から出てくるのではないかとドキドキして見回りをしたが、結局は彼女の姿は見つけることができなかった。 

「蒼」 

 ラウンドを終えて事務所に帰ろうと歩いていると、ヴァイオリンケースを肩にかけた関口と鉢合わせた。 

「大丈夫? なんか顔色悪いみたいだけど」 

 彼は眉間に皺を寄せて、少し心配気に蒼を見ていた。 

「う、ううん。大丈夫だよ。——練習、お疲れ様」 

「もう終わりだろう? 夕飯食べていく?」 

「うん。そうだね」 

 先日の母親との邂逅を思い出し、なんだか気恥ずかしい。確かに、蒼の中で関口という男は親しい人間のカテゴリーに入っている。 

 元々、人との距離感が難しく、近くなりすぎると怖くなるタイプだ。今まで友達にいじめられたり、嫌われたりするようなことはそうなかったが、逆を言えば、あっさりした付き合いばかり好んでしていたのだ。 

 だから、こうして社会人になってみると親友と呼べるような相手は皆無だ。地元に戻ってきたというのに、友達と連絡を取る気にもなれない。四月から星音堂せいおんどうに勤務しているが、ほぼ毎日は職場と自宅との行き来のみだったのだ。 

 そこに登場したのがこの関口という男。母親に指摘されて気が付いてみると、なんだか気恥ずかしい気持ちになった。 

「片付けてくるね」 

 関口は蒼にくっついて事務所に顔を出す。案の定、星野に笑われた。 

「お前さあ。金魚のフンかよ」 

「星野さん」 

「蒼のお尻ばっかり追っかけてないでさっさと練習しろよ~」 

「なんですか。それ。星野さん」 

 蒼は二人の会話を横目に帰宅の準備をした。 

 
***


 蒼の遅番と関口の練習日が重なった日は、よくこうして二人は夕飯を食べた。星音堂の目の前にある喫茶店だ。一階は花屋。二階がこの喫茶店「ソラマメ」。音楽ホール周囲には決まりパターンだ。 

 営業時間は十時半まで。比較的遅くまでやってくれているのはありがたい。夜間上演の催しは基本的に夜九時までが多い。演奏会を楽しんだ後の団らんの時間を持ってもらう目的でこの時間に設定されているのだろうかと蒼は思っていた。 

 隣には中華料理店があるが、関口は中華があまり好きではないと文句を言うので、ソラマメを利用することが多かった。 

 店舗は交差点の角に位置しているため、二方向全面が窓になっている。平日の夜の時間はそう客もいない。近くにある総合病院で勤務している若い女性たちがちらほら食事をしているくらいだ。そんな店内の雰囲気だから、最初は男二人で利用するのは妙に目立っている気がして居心地が悪かった。しかし、そんな居心地の悪さも数回経験するとなんともなくなるものだ。慣れとは恐ろしいものである。 

「この前ね。母さんに本置いてきた」 

「そう」 

「関口にお勧めされたやつ。面白かったから。同じの買って置いてきた」 

「なんだ。わざわざ買ったの? あの本、譲ってもよかったのに」 

「ううん。大事な本。大丈夫だよ」 

 エビのトマトクリームパスタをくるくるとしながら関口は笑う。 

「そういうところは真面目だよねえ。蒼って」 

「え? おれは至って真面目ですよ。どこからどう見たって真面目です」 

「ふうん」 

「なあに? その意味ありげな『ふうん』って返事」 

「別に~」 

「だから! あのさあ。本当にいちいち突っかかって来るんだから……」 

 ソラマメスペシャルのピザを頬張る蒼は文句を言い始める。それを見て、関口は笑っているばかりだ。 

「本当さ。蒼をからかうと面白いよね」 

「ねえ。おもちゃじゃないし。あのね、人をいじって愉快がるって性格悪いよ」 

「ああ、悪いね」 

「自分で認めたら目も当てられないでしょう」 

 こうしていつも他愛もない話になるのに、同年代の人間と時間を過ごすことが、蒼にとっては初体験みたいな感覚で新鮮なのだ。文句を言っていても嫌な気持ちにはならない。 

「それよりも、あのさあ——」 

 蒼は今日、出会った女性のことを彼に話した。話の間、関口は黙っていたが、ふと声を上げる。

「ってかね。蒼はその子のこと好きなわけ?」 

 突然、関口はむっとした顔をした。 

 ——怒られること言った? 

「怒ることないでしょう? なに? 関口って幽霊話とか嫌いだった? そういう人いるもんね。ごめん。最初に確認しないで話しちゃったし」 

「そうじゃないけど」 

「あ、そっか。星音堂愛が強いから、そいうの嫌なんだ」 

 蒼が話す度にどんどん機嫌が悪くなっていく様は、外から見ていても手に取るようにわかる。小さい頃から人の顔色を伺って暮らしてきたからだ。しかし、なぜ機嫌が悪くなっているのかは理解できない。 

「違うし」 

「——ねえ、ちゃんと話してくれないとわからないよ。なんで怒ってるの?」 

「怒ってないよ。別に。——ごちそうさま。明日早いんだった。少し早く帰ってもいい?」 

「え、うん。ごめん」 

 話に夢中になっていたおかげで蒼はピザが残っていることに気が付いて、慌ててくるくると丸めてから口に詰め込んだ。 

 なんだか後味の悪い会食になってしまった。 




 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム

ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。 けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。 学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!? 大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。 真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...