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無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ 第一番
第8話 夢の時間
しおりを挟む第一部が終了し、誰もいなくなったステージを見つめながら蒼は拍動を早める心臓を持て余していた。休憩時間になると客席が明るくなるので圭一郎は、有田に引っ張られて会場から退席させられた。
星野と二人きりで座っていると、彼は愉快そうに声をかけてきた。
「感動冷めやらないか。蒼」
蒼は目元を上気させて興奮気味に星野を見た。
「す、す——すごいです!」
未だに耳の奥で響く音の洪水に頭の処理が追いつかない。引き受けたその刺激を言葉に変換するのは時間がかかるのだ。言葉を詰まらせている蒼は星野からしたら面白いのだろうか。彼はにやにやとしてただ蒼の横顔を見ていた。
「まだまだこれからだ。おい、ちゃんと見てやれよ。あいつのステージだ」
第二部はメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲一番。関口がソリストとして登壇するのだ。もう蒼のドキドキは治まる様子はない。
昨晩。圭一郎との邂逅を思い出す。
『近づきたくても近づけないのがもどかしいのだ』
圭一郎はそう言っていた。
『親バカなのだ。私はねえ、あの子が可愛くて仕方がないんだ。本当だったら私の名前を使ってでも日の目をみさせてやりたいと思うのだ。だが、そんなことはもちろんよくないことだし、あの子も喜ぶわけがないのだ。なんとかしてやりたい。こんなにもどかしいことはない』
彼は関口のことを本当に大事しているのだということが理解できた。ただ関口にそれがうまく伝わっていないのだ。自分の時と一緒だ。お互いがお互いを理解していないのだ。
——理解しあって欲しい。お父さんと関口と……。なんとか。
『キミは蛍にとったら、とても素晴らしい存在だ。あの子はね。友達がいたことがないんだ。キミは初めての友達だ。どうか蛍を導いて欲しいのだ。キミに蛍を託したい。なんとか支えてやって欲しい』
圭一郎はそう言ってテーブルに両手をついて頭を下げた。
休憩時間が終わり、第一部同様にメンバーたちがステージに戻って来た。
メンバーたちが着座を終えた後、柴田と共に登場した関口は衣装を替えていた。
関口は、柴田同様の燕尾服を纏っていたのだ。いつも関口ではないみたいだと蒼は思った。トレーナーのようなラフな格好をしているいつもの彼ではないのだ。
すらっとした立ち姿。非日常のその出立ち。橙色のスポットライトに照らされている関口は堂々たる風格で、こんな田舎でくすぶっている男だとは思えないくらいだ。彼はステージに立つべくして生まれてきた人間なのだと実感した。
彼が生きていくべき場所はステージの上だと一瞬で理解したのだった。
心臓が更に高鳴る。隣に座っている女性に「この人、友達なんです」って言って回りたいくらい誇らしく思えた。
——関口。お父さんは関口のことを本当に大事に思っているよ。どうか、心を開いて。
蒼は両手を握りしめてからステージに視線を向けた。
***
関口蛍にとって星音堂は特別な場所だ。音楽に挫折して、もう止めてしまおうかと思ったあの時でも、この場所は彼を優しく受け入れてくれたのだ。
星野をはじめとする職員にもいろいろなことを教えてもらった。学校にもなじめず、家族とも上手くいかない自分が唯一、得た居場所はここだった。
だから中途半端な気持ちで音楽も知らないくせに、みんなとすっかり馴染んでいる蒼に突っかかったのだ。
まるで自分の居場所を盗られたと思った。いや違う。自分が星音堂で働きたいとは思ってなどいない。音楽の道で辛いことばかりだから、どこか逃げの口実を星音堂に見出していたことを突き付けられただけだった。
演奏の合間に寄越される柴田の視線に応えるように演奏をこなす。彼の気持ちは手に取るようにわかる。
——ここで静かに。ああ、ここで気持ち落とすんだ。練習とは全く違うけど、いい。気分がいい。先生の創り上げる音楽は面白いから好きだ。練習通り行ったことなんて一つもない。いつも同じではない先生の音楽は、僕を違った世界に連れ出してくれる。
口元が緩む彼の横顔は、柴田も気分よく演奏してくれている証拠だ。オーケストラと自分の音がうまく絡み合って、このホールの全てが自分のものであると思ってしまうほど錯覚。いや、現実そうだ。今この時間。このホールにいる全ての人間が自分たちを注視していて、自分たちの作り出す音楽の世界に身を投じているのだ。
そう自覚しただけで身震いがする。
——ああ、やっぱり好きだ。僕は音楽が好き。
第一楽章の哀愁漂うメロディから第三楽章の軽快な華々しさへの昇華。ソロヴァイオリンとオーケストラの融合は、あっという間に観客を魅了した。
最後の華々しいフィナーレを終え、会場からは割れんばかりの拍手が巻き起こった。あちらこちらから「ブラボー」という歓声と、立ち上がって拍手を送ってくれている人たちが見受けられた。
残響時間の長いこのホールでは拍手も相乗的に響き渡るものだな、と変なことを考えて笑ってしまった。
そう。ここにいる全ての人たちが、夢の時間を過ごしたということは言うまでもない。 自分を含めてだ。
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