地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした。

雪うさこ

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無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ 第一番

第5話 取り返しのつかないものなんてない

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「水野谷さん」 

「なんだ。どうしたの。蒼は休みですよ」 

 彼は帰り支度だ。もう辺りは暗い。暗闇の空から舞い落ちる白い雪の中、自分はどれくらいそこに立ちつくしていたのだろうか。水野谷が帰り支度ということは、そういう時間だということだ。 

「すみません。いや。蒼じゃないんです。ただ——」 

 彼は関口の目の前に立つ。 

「コンクールまでもう少しですね。どう? 調子は——ああ、いまいちそうだ」 

「やっぱりコンクールは鬼門ですね。手が震えますよ」 

 水野谷に差し出した左手は指先まで震えている。彼はそれをじっと眺めてから、視線を戻した。 

「震えないほうがおかしいでしょう? キミにとって、今度のコンクールは人生最大の難関だと僕は思っていますよ。僕はね。音楽のことはよくわかりません。ですが、キミには無限大の力があると思っているんです。関口先生の息子さんだということを抜きにしてね」 

「水野谷さん」 

「キミは変わりましたよ。高校時代のキミと今のキミとでは雲泥の差です。そうさせているのか——。自分が一番わかっているとは思いますけどね」 

「しかし、それがなくなってしまって——」 

 関口の絞り出すような声に水野谷はにこっと笑った。まるで世界の終わりのような気持ちが一蹴されてしまったかの如く、軽い笑みだった。 

「ありますよ。失われてはいない。取返しのつかないことなんて、そうそうないんですよ。命がある限りね」 

 彼は「熊谷医院」と言った。 

「蒼は入院しています。喘息をこじらせて肺炎を起こしたようです。そう重くはないようだから数日で退院すると連絡が入りました。——じゃあ、僕は帰りますよ。寒いのは苦手なんです」 

 水野谷はそれだけ言い残して職員駐車場に向かって姿を消した。 

 ——取返しのつかないことなんて、そうそうない……か。 

 関口は傘の柄を握りなおしてから、路上に停めておいた車に戻った。 

 
***


「蒼、調子はどう?」 

 寒い日が続いている。病院内は暖かいとは言え、乾燥も手伝って呼吸は苦しい。枕を抱かせられて体を預ける。こうして上体を起こしていると少しは楽に息ができた。
 
 父親の柔らかい声色に顔を上げると、彼は白衣姿でそこにいた。 

「いいです」 

「ごめん、ごめん。聞くんじゃなかったね」 

 彼は苦笑して、側にある点滴台にぶら下がっている薬液の滴下速度の調整をしてから、側の丸椅子に腰を下ろした。 

 熊谷医院は診療所のカテゴリーに含まれるため、入院のベッド数は十九床以下だ。昔は病院というカテゴリーであったため、もう少し病床数は多かったのだが、蒼の母親であるうみが心中未遂事件を起こして以来、栄一郎は家族に時間をかけたいという思いがあり、親族の反対を押し切って規模を縮小したのだった。 

 今となっては、それはそれでよかったのかも知れない。現在、十九床ある病室も稼働率は五十%程度。満床になるということは、ほとんどない。複数人で使用する予定の病室は、どこも個室みたいなものだった。 

 蒼にとっては遊び場みたいな場所だ。小さい頃から、兄の陽介や弟の啓介に連れられて、かくれんぼをした場所でもある。その都度、看護師の藤田に見つかっては怒られて、説教をされる毎日だったが。あれはあれで楽しい思い出の一つでもある。 

「そう言えば、アパートに送った荷物が戻ってきたって海が言っていたけど……」 

「そうよ。蒼」 

 遅れて母親の海が顔を出した。病院と自宅は棟繋がり。彼女は蒼が入院してから足しげく顔を出していた。 

「母さん」 

「アパートに帰っていないなんて不良みたいなことしてないんでしょう?」 

 彼女は栄一郎の隣の椅子に腰を下ろした。二人部屋の病室だが、もちろん相方はいない。外は雪が降っており静かな夜だった。 

「あ、あの。言ってなかったけど。引っ越した——」 

「え? もう? 一年も住んでいないじゃない。保証人になった時の契約は二年だったような気がするんだけど……」 

「そうよ。どういう理由で?」 

 体調が思わしくない。嘘を言うほど頭の回転が速くはないのだ。蒼は口ごもった後、理由を説明した。 

「友達が。どうしてもお金ないって。それでルームシェアすることになって」 

「お金がないお友達って……」 

「大丈夫なのか? まさかギャンブルとか、借金とか?」 

 栄一郎と海は不安げに顔を見合わせた。 

「ち、違うよ。そうじゃなくて。あの——夢を追いかけているんだ。もう少しなんだよ。もう少し。だから、おれはできることは手伝ってあげたいって思っていた……」 

「夢って……」 

 栄一郎は困惑した顔をしていたが、海はそっと蒼の手を握る。 

「前に言っていた関口くんのこと?」 

 ——なんでわかった? 

 蒼は不意に指摘されて、余計に困惑した。 

「あ、あの……」 

「関口くんって?」 

 栄一郎は海を見た。 

「蒼をあの病院に行くように背中を押してくれた人みたい。蒼のお友達なんですって」 

「ああ。——あの時の……」 

「まあ、栄一郎さんは関口くんに会っているの?」 

「まあね」 

「ずるいわ。私はまだ会っていないのに。蒼の親友なんでしょう? ルームシェアまでしているだなんて。よっぽど蒼は好きなのね」 

 海のストレートな物言いに、反論しようと声を上げかけてむせた。 

「あらあら。大丈夫?」 

「ほらほら。興奮しないで」 

 ——興奮なんてしていないし! 

 「関口さんって、栄一郎さんのお友達にもいなかったかしら?」 

「ああ。あいつね。もう世界中を飛び回っているからねえ。もう十年以上は会っていないんだよね。結婚式に来てくれたのが最後だったかも知れないな……」 

「世界中をって……」 

「高校時代の同級生でね。すごく変わった奴だよ。二人とも名前に『一郎』がついてきてね。そのおかげで仲良くなったんだ」 

「父さん、それって……まさか。関口圭一郎?」 

「そうだよ。そう。世界的なマエストロになっちゃってね。僕なんてしがない田舎医者だ」 

 ——まさかの? 

「その関口くんはなにを追いかけているのかな?」 

「……」 

「蒼?」 

「……関口は、関口圭一郎先生の息子で——」 

「おお、なんと、そうか。え? じゃあ。蒼が住んでいるのって圭一郎の実家?」 

「そ、そうです」 

 栄一郎は「わあ」と嬉しそうに笑顔を見せた。 



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