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第三十六話・瑪瑙の櫛2
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満月まではあと一歩足りない月夜。手を伸ばしても簡単には届きそうもない天窓は換気の為か少しばかり開いていた。
大小様々な大きさの木箱や布で包まれた何かが所狭しと棚に並べられ、中には安易に触れるだけでも崩れてしまいそうな古びた物も目立つ。
けれど室内は埃一つなく管理されていて、どの箱にも中身を説明する札が貼られ、ここがただの物置でないことは一目瞭然だった。
木蘭は手近な箱の一つを覗き込み、その札の文字に目をやる。
掠れた筆痕は薄暗い中でははっきり読み取ることはできないが、その中身の持ち主だった者の名とその生誕から没年らしき数字が記されているようだ。
おそらくここは、歴代の皇族の遺品や宝飾品を保管している宝物庫なのだろう。確か内宮の一角にあり、本来なら許可なく立ち入ることができない場所だ。
よく見れば属国などから献上されたらしき希少な品々も並んでいる。
――こんなところに、孝公様がお探しの櫛が……?
彼は子供の頃に誰かから譲り受けたと言っていたのに、なぜそんな物がこの場にあるのだろうか?
もし保管されるとするなら、彼が亡くなった後ではないのだろうか?
木蘭は自分のことをここへ呼び寄せた物へと近付いていく。
壁際の棚に置かれた手の平に乗るくらいの小箱。何の装飾も施されてはいないが、保管する物の寸法に合わせて特注されたのは歴然。それだけで、これが他の宝飾品に劣らない扱いを受けているのが見て取れた。
蓋に貼られた札紙は周りの物と比較するとまだ新しく、墨で記された文字もはっきりと読み取れる。
『公主・劉麗花』
名の横に書かれている没年は十四年前。亡くなったのはまだ先帝の時代だ。
生誕の年からすると先帝の姉妹になる女性の物と推測できる。どこへも嫁ぐことなく公主という立場のまま、二十台でこの世を去ったということか。
皇族の名に詳しくはないから、木蘭に分かるのはそのくらいだ。
――でも、どうして? これは孝公様の物じゃないの?
若くして亡くなった公主の名が記された箱に、孝公が探していた瑪瑙の櫛は絹の布に包まれて収められていた。
橙と赤褐色が縞になった鉱石を磨いて作られた光沢のある見事な櫛。宝物庫に収められていて当然の高価な品だ。それは公主の遺品として保管されていた。
翌日もまた早く結果が知りたいと朝から訪ねて来るのかと思っていたが、皇弟が木蘭の殿舎に顔を見せたのは日が暮れる少し手前の時刻。
後宮内の雑多なことを任されている彼は思っているほど暇でもないらしい。これまであまりに気軽に訪ねてくることが多いから、勘違いしてしまいそうになる。
代わりに文で報告しようかと筆と硯を机の上に並べたばかりだった木蘭は、香鈴が慌てて出迎えている声が外から聞こえて少しホッとしていた。
不可思議なことが多いから、直接に話を聞いてみたかった。
昼間、噂好きの侍女に何とはなしに公主麗花について話題を振ってみたが、何の情報も得られなかった。
長く後宮に勤めている周啓でさえ「私もお名前くらいしか……」と首を捻っていたから、ほとんど表に出てくることのない女性だったようだ。
唯一分かったのは、先帝の一回り以上も下の妹で腹違いだったということくらいか。
木蘭が櫛を見つけた場所について話すと、孝公はかなり驚いて言葉を失ったように黙り込んでいた。
自分の持ち物だと思っていた物が別の皇族の遺品として管理させていたなんて思ってもみなかったのだろう。
「公主の麗花ですか……」
「聞いたところによると、孝公様の叔母様にあたる方だそうですね」
櫛の持ち主の名を聞いても、孝公は何か腑に落ちない表情を浮かべていた。
先帝は兄弟姉妹が多かったようだし、彼が幼い頃に亡くなっているようだから、名を聞いてもピンと来ないのかもしれない。
「正直、ほとんど耳覚えのない名です。後宮から出ずに亡くなったのなら、顔を合わせたことくらいはあるのかもしれませんが……」
公主の名を繰り返し口にして記憶を呼び起こそうとしていたが、何の糸口も見つからないようだ。少なくとも十四年前まで後宮で生活していたはずで、接点がなかったことが逆に不思議なくらいに思える。
孝公はお付きの宦官の一人に命じて、宝物庫からその箱を取り寄せることにしたらしい。
「できるなら姜妃様も一緒に、確認していただきたいのですが……」
春麗に頼んで紙と墨を用意させると、孝公はそれを使って宝物庫を管理する内務府の担当者へ文を綴り始める。宝物庫の中の物を取り寄せる為だ。
それと同時に、まだ木蘭へと不信感露わな側近達に、夢見の力が信用に値するものであると示す意味もあるのだろうか。
宝物庫内のことなど、妃である木蘭には本来は知るはずのないことなのだから。
「ところで、姜妃様のこの力はいつ頃から自覚されたのですか?」
「五つか六つの時だと記憶しております。とは言っても、周りからは偶然だと相手にもしてもらえませんでしたが……」
「でしたら、ご自身の探し物をするくらいで?」
ほんの雑談の中の孝公からの問いに、木蘭は苦笑いを浮かべてみせる。
「自身の失せ物が夢に現れてくれたことは、一度もございません。そういった意味でも、やはりこれは占術の一種なのかもしれませんね。占術師は自分のことは見れないと申しますから」
「ああ、なるほど……」
かなり急ぎで向かったのだろうか、広い後宮を出て内宮まで行ったはずの宦官は、木蘭達が何とはなしに雑談している内に殿舎へと戻ってきた。手には大事そうに布で包まれた物を抱えて。
孝公は臣下が持ち帰ってきた物を机の上に置いて、恐る恐るとそれを包む布を広げていく。
「これは姜妃様が夢で見られたもので間違いはないですか?」
「はい。確かにこちらの小箱です」
目の前に現れた小箱は、昨夜に見たそのままだ。
蓋に貼られた札の文字を真剣な表情で目で追っている青年の顔には少し緊張の色が見えた。ゆっくりと蓋に手をかけ、中から出てきた絹布を指先で捲っていく。
孝公の目が驚きと懐かしさで大きく見開かれる様子を、木蘭は黙って眺めていた。
彼はこれがもうこの世に存在しないことも覚悟していたようだったから、再び目の前に現れて動揺しているのかもしれない。
それがどういった感情でなのかは木蘭には分かるわけもないけれど。
「ええ、これです。この櫛で間違いないです」
久方ぶりに感じる櫛の滑らかな手触りを子供の頃の記憶と照らし合わせるかのように、慎重に指先でなぞっていく。
大小様々な大きさの木箱や布で包まれた何かが所狭しと棚に並べられ、中には安易に触れるだけでも崩れてしまいそうな古びた物も目立つ。
けれど室内は埃一つなく管理されていて、どの箱にも中身を説明する札が貼られ、ここがただの物置でないことは一目瞭然だった。
木蘭は手近な箱の一つを覗き込み、その札の文字に目をやる。
掠れた筆痕は薄暗い中でははっきり読み取ることはできないが、その中身の持ち主だった者の名とその生誕から没年らしき数字が記されているようだ。
おそらくここは、歴代の皇族の遺品や宝飾品を保管している宝物庫なのだろう。確か内宮の一角にあり、本来なら許可なく立ち入ることができない場所だ。
よく見れば属国などから献上されたらしき希少な品々も並んでいる。
――こんなところに、孝公様がお探しの櫛が……?
彼は子供の頃に誰かから譲り受けたと言っていたのに、なぜそんな物がこの場にあるのだろうか?
もし保管されるとするなら、彼が亡くなった後ではないのだろうか?
木蘭は自分のことをここへ呼び寄せた物へと近付いていく。
壁際の棚に置かれた手の平に乗るくらいの小箱。何の装飾も施されてはいないが、保管する物の寸法に合わせて特注されたのは歴然。それだけで、これが他の宝飾品に劣らない扱いを受けているのが見て取れた。
蓋に貼られた札紙は周りの物と比較するとまだ新しく、墨で記された文字もはっきりと読み取れる。
『公主・劉麗花』
名の横に書かれている没年は十四年前。亡くなったのはまだ先帝の時代だ。
生誕の年からすると先帝の姉妹になる女性の物と推測できる。どこへも嫁ぐことなく公主という立場のまま、二十台でこの世を去ったということか。
皇族の名に詳しくはないから、木蘭に分かるのはそのくらいだ。
――でも、どうして? これは孝公様の物じゃないの?
若くして亡くなった公主の名が記された箱に、孝公が探していた瑪瑙の櫛は絹の布に包まれて収められていた。
橙と赤褐色が縞になった鉱石を磨いて作られた光沢のある見事な櫛。宝物庫に収められていて当然の高価な品だ。それは公主の遺品として保管されていた。
翌日もまた早く結果が知りたいと朝から訪ねて来るのかと思っていたが、皇弟が木蘭の殿舎に顔を見せたのは日が暮れる少し手前の時刻。
後宮内の雑多なことを任されている彼は思っているほど暇でもないらしい。これまであまりに気軽に訪ねてくることが多いから、勘違いしてしまいそうになる。
代わりに文で報告しようかと筆と硯を机の上に並べたばかりだった木蘭は、香鈴が慌てて出迎えている声が外から聞こえて少しホッとしていた。
不可思議なことが多いから、直接に話を聞いてみたかった。
昼間、噂好きの侍女に何とはなしに公主麗花について話題を振ってみたが、何の情報も得られなかった。
長く後宮に勤めている周啓でさえ「私もお名前くらいしか……」と首を捻っていたから、ほとんど表に出てくることのない女性だったようだ。
唯一分かったのは、先帝の一回り以上も下の妹で腹違いだったということくらいか。
木蘭が櫛を見つけた場所について話すと、孝公はかなり驚いて言葉を失ったように黙り込んでいた。
自分の持ち物だと思っていた物が別の皇族の遺品として管理させていたなんて思ってもみなかったのだろう。
「公主の麗花ですか……」
「聞いたところによると、孝公様の叔母様にあたる方だそうですね」
櫛の持ち主の名を聞いても、孝公は何か腑に落ちない表情を浮かべていた。
先帝は兄弟姉妹が多かったようだし、彼が幼い頃に亡くなっているようだから、名を聞いてもピンと来ないのかもしれない。
「正直、ほとんど耳覚えのない名です。後宮から出ずに亡くなったのなら、顔を合わせたことくらいはあるのかもしれませんが……」
公主の名を繰り返し口にして記憶を呼び起こそうとしていたが、何の糸口も見つからないようだ。少なくとも十四年前まで後宮で生活していたはずで、接点がなかったことが逆に不思議なくらいに思える。
孝公はお付きの宦官の一人に命じて、宝物庫からその箱を取り寄せることにしたらしい。
「できるなら姜妃様も一緒に、確認していただきたいのですが……」
春麗に頼んで紙と墨を用意させると、孝公はそれを使って宝物庫を管理する内務府の担当者へ文を綴り始める。宝物庫の中の物を取り寄せる為だ。
それと同時に、まだ木蘭へと不信感露わな側近達に、夢見の力が信用に値するものであると示す意味もあるのだろうか。
宝物庫内のことなど、妃である木蘭には本来は知るはずのないことなのだから。
「ところで、姜妃様のこの力はいつ頃から自覚されたのですか?」
「五つか六つの時だと記憶しております。とは言っても、周りからは偶然だと相手にもしてもらえませんでしたが……」
「でしたら、ご自身の探し物をするくらいで?」
ほんの雑談の中の孝公からの問いに、木蘭は苦笑いを浮かべてみせる。
「自身の失せ物が夢に現れてくれたことは、一度もございません。そういった意味でも、やはりこれは占術の一種なのかもしれませんね。占術師は自分のことは見れないと申しますから」
「ああ、なるほど……」
かなり急ぎで向かったのだろうか、広い後宮を出て内宮まで行ったはずの宦官は、木蘭達が何とはなしに雑談している内に殿舎へと戻ってきた。手には大事そうに布で包まれた物を抱えて。
孝公は臣下が持ち帰ってきた物を机の上に置いて、恐る恐るとそれを包む布を広げていく。
「これは姜妃様が夢で見られたもので間違いはないですか?」
「はい。確かにこちらの小箱です」
目の前に現れた小箱は、昨夜に見たそのままだ。
蓋に貼られた札の文字を真剣な表情で目で追っている青年の顔には少し緊張の色が見えた。ゆっくりと蓋に手をかけ、中から出てきた絹布を指先で捲っていく。
孝公の目が驚きと懐かしさで大きく見開かれる様子を、木蘭は黙って眺めていた。
彼はこれがもうこの世に存在しないことも覚悟していたようだったから、再び目の前に現れて動揺しているのかもしれない。
それがどういった感情でなのかは木蘭には分かるわけもないけれど。
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