三毛猫が紡ぐ ~渡り猫の見た景色~

瀬崎由美

文字の大きさ
22 / 31
第五章・黒柴と猫

第二話・引っ越し

しおりを挟む
 末娘の沙月が嫁いで行った後に、二人きりでは寂しくなるだろうからと、亡き夫が突然連れて帰って来たのが柴犬のリツだった。知り合いのブリーダーのところで安く譲って貰ったと言ってはいたが、実際のところ幾らを払って来たのかは分からない。

「黒柴はな、この眉毛の模様があるのがいいんだ。それにほら、この子は全部の脚に白足袋を履いてるんだぞ。足袋の長さもちゃんと揃っているのがいいんだ」

 柴犬といえば茶毛のイメージしかなかった秋江には、黒犬の額にある楕円形の茶色い眉毛模様が百人一首などで見る平安貴族の麿眉にしか見えなかった。そのとぼけた眉毛を持つ雌犬は、一緒に生まれた五匹の兄弟では唯一の黒毛だったのだという。

 夫自慢の毛色を持った黒犬は、生まれつき右目に少しばかりの濁りがあった。それがリツが兄弟犬の中でただ一匹だけ売れ残っていた理由なのだろう。「犬は耳と鼻が利くから、片目が見えなくても平気だ」夫はそういって笑っていたが、もし彼が引き取って来なければ、リツは殺処分されていたかもしれない。

 秋江とリツが長い散歩から帰宅して、のんびりと昼食を食べ、テレビのワイドショーを流し見している時、自宅前の市道に引っ越し業者のトラックが横付けされた。

「あら、もう来たみたいねぇ」

 座卓の横に置かれた専用の座布団の上で寝ころびながら、黒柴は耳だけを動かして様子を伺っている。急に賑やかになった玄関前を気にしつつ、それでも吠えたりはしない。大人しいと言えば聞こえはいいが、子犬の頃からリツに番犬は向いていなかった。片目が不自由なせいか、少し気弱な性格だった。

 沙月の指示で次々と二階へと運ばれてくる荷物。一人と一匹だけの生活では使うことが無かった二階は、離婚を決めた後に何度かやって来た沙月によって掃除も片付けも済んでいる。空いている三部屋のうち二室を母子それぞれの私室として使い、もう一室はとりあえずの荷物置き場にするのだという。

「持って来られる物、全部持って来た。売れそうな物は後でリサイクルショップに持って行くわ」

 余裕のない家計を長く強いられていたせいだろうか、末子だからと甘やかして育てたことを案じていた娘は、別人のように逞しくなっている。母は強しとはよく言ったものだ。

 母親の沙月とは反対に、来て早々、自分に宛がわれた部屋に上がったまま降りて来ない孫の和樹。引っ越したことで中学は転校してくるのかと思っていたが、越境という形で今まで通りに同じ学校へ通い続けるのだという。確かに中三の一学期途中で学校が変わるのも嫌だろう。

「こっちはもう修学旅行は終わったらしいのよ。今転校したら、中学の修学旅行はどっちも行けないのは可哀そうじゃない?」
「それもそうねぇ」

 引っ越しトラックを玄関前で見送って戻って来た沙月は、以前よりも少しやつれたように見えた。離婚の手続きと引っ越し作業を全て一人でこなしたらしく、ようやく全部終わったと疲れたように笑っている。

「しばらくはゆっくりするといいわ。仕事もこっちで探し直すんでしょう?」
「うん、家から遠くなるし、今までのパートは辞めてきちゃったしね。駅前の商店街でどっか無いかなぁ」
「最近入ってたチラシは一応取ってあるのよ。いいのがあるかは分からないけど」

 新聞に折り込んであった求人チラシの束を壁面の引き出しから取り出して来ると、ダイニングで緑茶を啜っていた沙月へと渡す。秋江がしてあげられるのは、これくらいしか思いつかなかった。

「家賃は無理だけど、食費と光熱費はちゃんと入れるつもりだから。家事も出来るだけするし、母さんこそゆっくりしてよ。今までずっと一人でやって来たんだから」
「あら、嬉しい。でも家のことは任せてくれていいのよ。りっちゃんのお散歩だけ代わって貰えれば、随分と楽になるんだから」
「犬の散歩くらい、和樹にさせるわよ」

 家にいてもどうせロクに勉強もしないんだから、と天井に視線を向ける。二階から一度も降りて来ない一人息子は、放っておけば一日中スマホで動画を観ているか寝ているだけだ。受験勉強をする気は全く無い。

 夜中まで起きているかと思うと、学校から帰ってきたらすぐに寝てしまう。夕飯の時刻にのっそりと起きてきて、その後はまたひたすら動画三昧だ。朝起こしに行くと、イヤフォンを着けたまま寝ていることが何度もあったから、夜中は部屋の電気も点けずに暗がりの中でスマホを観ているのだろう。
 受験生としての自覚を説く前に、まともな生活リズムへ戻すことの方が先かもしれない。

 ――あの子、散歩の時間に起きられるのかしら……

 沙月が心配していた通り、翌朝に普段よりもかなり早い時間に叩き起こされた和樹は、朝から若干キレ気味だった。「リツの散歩に行ってきなさい」と言われても、不貞腐れながら「今日は日曜だろ……」と布団をかぶり直す始末。

 学校が遠くなっただけでも迷惑なのに、犬の世話まで押し付けられるなんてと、反抗期真っただ中の和樹には納得できないことばかりだ。必死で布団の中で抵抗を試みるが、最初が肝心とばかりになかなか引き下がろうとしない母親。

「ほら、リツも早く連れてって鳴いてるわよ」

 一階からは、くーんくーんと散歩をねだる犬の声が聞こえてくる。その鳴き声があまりにも寂し気に思え、和樹は渋々とベッドから起き上がる。あんな声で鳴かれたら、意地も張りにくかったみたいだ。

「……ほら、行くぞ」

 玄関で黒柴にリードを付け直し、祖母から手渡された散歩グッズの入ったリュックを渋々と背負う。中に何が入っているのか知らないが、意外と重いと顔を顰めている。そんなことはお構いなしに、老犬は黒いフサフサの尻尾を全力で振って歩き出した。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

清楚な執事長、常駐位置が“お嬢様の隣”に確定しました

星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話・後日談12話⭐︎ 清楚で完璧、屋敷の秩序そのもの——そんな執事長ユリウスの“常駐位置”が、なぜか私の隣に確定しました。 膝掛けは標準装備、角砂糖は二つ、そして「隣にいます」が口癖に。 さらに恐ろしいことに、私が小声で“要求”すると、清楚な笑顔で「承知しました」と甘く返事をしてくるのです。 社交は上品に、恋心は必死に隠したい。 なのに執事長は、恋を“業務改善”みたいに制度化して逃がしてくれない——! むっつり令嬢の乙女心臓が限界を迎える、甘々コメディ恋愛譚。 清楚な顔の執事長が、あなたの心臓まで囲い込みにきます。

彼女が望むなら

mios
恋愛
公爵令嬢と王太子殿下の婚約は円満に解消された。揉めるかと思っていた男爵令嬢リリスは、拍子抜けした。男爵令嬢という身分でも、王妃になれるなんて、予定とは違うが高位貴族は皆好意的だし、王太子殿下の元婚約者も応援してくれている。 リリスは王太子妃教育を受ける為、王妃と会い、そこで常に身につけるようにと、ある首飾りを渡される。

初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結保証】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。 だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。 しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。 王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。 そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。 地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。 ⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。

側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!

花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」 婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。 追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。 しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。 夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。 けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。 「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」 フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。 しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!? 「離縁する気か?  許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」 凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。 孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス! ※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。 【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】

大好きなおねえさまが死んだ

Ruhuna
ファンタジー
大好きなエステルおねえさまが死んでしまった まだ18歳という若さで

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

処理中です...