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第五十話・トルサスの商人2

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 トルサスの領土の六分の一を占めるルナ湖はこの国の淡水湖の中で最大だ。湖畔の美しい景色と、特産品を無数に生み出す母なる湖は、トルサスの領民にとって誇りでもある。
 王都との行き来の途中で立ち寄ったことのあるマリスは、水辺の塩気の無い風に心地よさを感じ、長い時間を湖を眺めて過ごしたのは良い思い出だった。海に面したシードでは長く風に当たっていれば、髪が潮風ですぐにゴワゴワになってしまう。

 その大きな湖の畔を拠点とするというマフォックス商会。商取引に関しては本邸に任せてあるので、マリス自身にはその商会名に聞き覚えは無い。しかも、今回の用件は商いではなくマローネにまつわることだというではないか。判断しかねて、向かいに佇むリンダを伺う。

「なりません。どんな理由であれ、正規の手続きを踏まずに初見の者を屋敷に入れることは」
「でも、あの子の生まれに関わることを知れるかもしれないわよ」

 別邸とは言っても、ここは正真正銘にシード領主の屋敷である。身元の確認が取れていない者が容易に出入りして良い訳がない。侍女長はマリスを諭すよう静かに首を横に振る。

「それでも、安易に面会などいけませんわ。必要ならばちゃんと手筈を踏んでいただいて、改めて出直していただかなくては」

 先だっての馬車への襲撃のこともある、しばらくは特に警戒を怠るべきではない。マローネの名を出されて気になっている気持ちも分かるが、ここは冷静に対応すべきだ。特に一族皆が婚礼の為に領外に居る今は尚更。

「……言われてみれば、そうね。用件はとても気になるけど、本邸を通すように伝えて貰える?」
「かしこまりました。では、そのように」

 マリスから指示を得ると、門番は入口で待たせたままの客人の元へ足早に戻って行く。身元が確かならば、本邸での確認の後に正式な対面が叶うはずだろう。
 訝し気に眉を寄せると、マリスは何かを確認するように小さく呟く。

「……トルサス、ね」

 脳裏に浮かんだのは、以前に夢で見たマローネの母らしき面影。ローブを目深に羽織って顔を隠していた女は、湖の街から赤子を連れて来たのかもしれない。ふと思いつき、顔を上げる。

「リンダ。マローネの篭に入っていた布って、まだ残してあるかしら?」
「ええ、洗ってから仕舞ってございますわ。あれが何か――」

 言い掛け、元乳母も察したように頷いてから立ち上がる。そして、そそくさと収納庫に向かって歩き出す。
 赤子が猫と共に入っていた篭の中、敷き詰められていた古びた布。何度も洗って使い込まれて擦り切れてはいたが、あれは紛れもなくトルサスの染物だった。清らかな水だからこそ出せる鮮やかな色彩。それほど高価という訳でも無いが、他領ではそこまで手に入り易い物でも無い。


 本邸経由でマフォックス商会の名による正式な面会の伺いが届いたのは、それから二日後のことだった。日数からして、あの後すぐに手続きを行ったのだろう。トルサス領主の発行した身分証を携えて、マフォックスは悠然と別邸の門を潜り抜けた。

「先日は手順を踏まずに押しかけてしまい、申し訳ございません。トルサスで商会を営んでおります、ザイル・マフォックスと申します。本日はお目通りいただけ、大変光栄でございます」

 限りなく黒に近い濃紺のスーツは余計な皺一つなく、彼の為に誂えたオーダーメイド品だと分かる。深く畏まって頭を下げる男は五十手前といったところで、後ろに撫でつけた髪には白い物がちらちらと混じっていた。
 その左隣にはザイルとは比べ物にならない安っぽいスーツを身にした、背の高い男。よく見なくとも、サイズが全く合っていないのが分かる。借り物か、誰かからのお古を着ているのだろう。若い男は落ち着きなく周辺をキョロキョロと見回している。

 そして、その二人から後ろ一歩下がったところに、膝下まである長いローブを羽織った護衛の魔導師が控えていた。門番からの通達では、彼らはこの三人だけで屋敷へとやって来たらしい。
 マフォックス商会長からの型通りの挨拶が済むと、侍女長に促された三人はホールのソファーへと並んで腰を下ろした。

 三人の男に向かい合う形でマリスも腰を下ろせば、リンダが手早くティーカップにお茶を注いでテーブルの上に並べていく。その手際良い作業を若い男は物珍し気にじっと見つめていた。

「で、どうして、オルガ先生がいらっしゃるのかしら?」

 中央に座るマフォックスの右隣、黒のローブを脱いで侍女に預けている魔導師へ、マリスはわざとらしく首を傾げて問いかけた。
 先程までは商会長の影に隠れて顔を確かめることはできなかったが、屋敷に入って来た瞬間から気付いていた。幼い頃の魔法の師の魔力の気配が分からない訳がない。

「ご無沙汰しております、マリス様。すっかりご立派になられまして」
「魔法指導を辞められた後、トルサスに行かれたのですか?」
「ええ。元々、私はトルサス領の生まれでしたからね。以降はずっと故郷におります」

 マリスの魔法指導を終えた後、一度は王都に向かったと聞いてはいたが、その後の行方知れずだったオルガ。彼の胸ポケットからは灰色の鼠がちょこんと顔を覗かせていた。鼠付きであるオルガの守護獣だ。

「まあ、チェルシーも元気そうね」

 鼠の守護獣がいるオルガは、兎付きの魔導師と共に、マリスが生まれてから十三歳になるまでシード家で魔法教師をしていた。兎付きの師の方は今も他領で子供に魔法を教えているらしく、たまに文のやり取りをすることもある。けれど、オルガに関しては噂すら聞いたことがなかった。
 今はマフォックス商会で護衛として働いているということなのだろうか。
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