ネカフェ難民してたら鬼上司に拾われました

瀬崎由美

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第三十五話・弥生からの嘆願

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 マンションに着くと、穂香は夕ご飯の支度をするつもりでキッチンへと向かおうとし、川岸から呼び止められる。リビングのソファーに座った彼は自分のスマホを手に少し厳しい表情になっていた。

「迎えに行く前にスーパーで総菜を買って来たから、今日の夕飯はそれでいいよ。でもその前に、ちょっと話をしようか」

 怒っている感じではなかったが、少し不機嫌そうな川岸の声に、穂香は不安を隠せない。どう考えても再会を喜んで甘い雰囲気になるという感じではない。車の中でも何か言いたげで、久しぶりの再会にしては何だか空気がピリついていた。穂香が明るく話し掛ければ話し掛けるほど、彼の表情が明らかに曇っていったように感じたのは気のせいだろうか。

「とりあえず、ここに来て」

 ソファーの隣の席をポンポンと叩いて、穂香のことを呼び寄せる。総菜があると聞いたら意固地に家事へ戻る理由もないし、穂香はおとなしく言われるまま腰を下ろした。いつもならぴったりと身体を寄せ合うところだけれど、今日の彼にはあまり穏やかではない雰囲気を感じたから少し離れ気味に座る。隣に来た穂香のことを川岸はしばらく黙って見つめていたが、一度だけ大きな溜め息を吐いてから口を開く。

「北村さんから何となくの事情は聞いてる。で、一体、何があった?」
「え、弥生さんが……?」

 川岸からスマホに表示された弥生からのメッセージを見せられると、穂香はさーっと頭から血の気が無くなっていくのを感じた。心優しい先輩からの、後輩の身にこれ以上何かある前に対応して欲しいというオーナー社長へ向けた嘆願文。昨日、野中との間で何かがあって、今日も穂香がそれについて思い悩んでいるようだったという相談だった。文面から弥生が本気で穂香のことを心配してくれているのがよく伝わってきた。送信されたのは弥生の昼休憩の時刻。穂香には何も言って来なかったけれど、休憩に出てすぐに川岸宛にメッセージを送ってくれたらしい。

 でもこれは一方では、まだ試用期間中である野中にとっては大きな懸念材料になってしまう文言でもある。彼はルーチェの山崎オーナーからの推薦を受けて入って来た優秀な人材。それを手放す原因を自分が作ってしまったことに穂香は焦りを感じ始める。もしやオーナー同士の信用問題も絡んでくるんじゃないかと、穂香はオロオロする。

「あ、あの……えっと、その……これからは私が注意すれば、大丈夫だと思うから……その」
「で、何があった?」

 しどろもどろになる穂香へ、川岸は同じ言葉を繰り返して聞いてくる。彼の声色から曖昧に誤魔化すのは無理だと察し、穂香は昨日のストックルームでの出来事について隠さずに説明する。黙って話に耳を傾けている川岸の眼が何だか怖くて、穂香は顔を背けながら続けた。川岸の表情から、野中に対してかなり怒りを抱いているのがヒシヒシと伝わってくる。

「でも、私が張り切り過ぎたせいでもあるし、野中さんも一応は謝ってくれたから――」
「だけど、トラウマになってしまうくらい、怖い思いをさせられたんだろう? 傍から見ても今日は様子がおかしかったんだから、あまり軽視はできないな」

 他のスタッフのことを上司へ告げ口するのはとても勇気が要るはずだ。それをやってくれた弥生のことを考えると、申し訳ない気持ちが沸き上がってくる。弥生には穂香が誰にも相談せずに一人で抱え込むだけなのを見抜かれていたのだろう。
 それでも「きっと大丈夫だから」をまた口にしようとする穂香のことを、川岸は少し声を低くして𠮟責する。

「大丈夫なもんか。穂香は自分のこととなると一気に危機管理能力が低くなる。もっと、心配する周りのことも考えて行動してくれないと」

 その周りの人間の中にはもちろん彼自身も含まれている。それを分かって欲しいと川岸は穂香の身体へ腕を伸ばしてくる。両腕で強く抱き締められながら、一週間ぶりに感じる彼の体温に穂香はこの上ない安心感を抱いていた。野中から同じように腕を回されてもこんな風に安らぎは覚えなかった。何がどう違うかなんて上手く説明できないけれど、自分にとって必要なのは川岸であって野中ではないってことだけは十分過ぎるくらいに実感した。
 穂香は自分も彼の背に腕を回して、ギュッとしがみつく。昨日感じさせられた不快感を全部川岸のもので上書きするつもりで。

「今度から気を付けます。でも、野中さんは仕事はしっかりできる人だから――」
「それはちゃんと考えてる。穂香は安心して、今まで通りにしていればいい。俺の店にいるのに嫌な思いなんてする必要はない」

 腕を緩めて川岸が穂香の顔を真正面から黙って見つめてくる。その唇が徐々に近付いてこようとするのを、穂香は待ちきれずに首を伸ばして自分から重ねに行く。そして、彼の柔らかな唇が穂香の頬やこめかみ、首筋などへ優しく何度も触れていくのを静かに受け入れる。

 耳元で囁かれる自分の名前に、身体中が過敏に反応して彼のことを求めているようだった。穂香は甘い吐息を吐き出しながら、彼の名前を呼び返した。

「隼人、さん……」
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