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 猛さん……。


 名前を呼びたいのに口を塞がれていてできない。


「綾チャンならちゃんと生きてるぜ?味見はさせてもらったけどな」


 和馬は綾の足元に踏ん反り返って座り、挑発的に笑みを浮かべた。和馬の言葉を聞いた猛は険しい表情でそれを確認するように綾の頭から足のつま先まで視線を走らせた。

 綾は動けないように腕をベッドに拘束され、白い肌は全て露わになっている。瞳は潤み頬は上気してほんのり色づいて、首筋にはくっきりとマーキングがされていた。綾と和馬の下半身はローションで濡れ、事後を証明するかのようにベッドのシーツは乱れている。

 誰がどう見ても情事が終わった後だ。

 もう一度猛と目が合った綾は、自分のあられもない姿を猛に見られたのが情けなくて視線を泳がせた。綾の態度で和馬の話を肯定ととった猛は目を吊り上げた。


「和馬あぁ、テメェいい度胸してんな!!」


 猛のドスの効いた声が響き、鈍い音がした。綾の視界からは確認できなかったが、和馬の呻き声が聞こえることから、猛が和馬を殴ったと思われた。部屋の入り口で控えていた孝太郎が綾の猿ぐつわと手の拘束を外してくれたので綾はやっと身体が楽になった。和馬に殴られた腹の痛みを無理をして起き上がると、孝太郎がサッとジャケットを脱いで綾の肩に掛けた。身体を起こした綾は目の前の惨状に気がつき青ざめた。ベッド脇で和馬が猛にこれでもかと足蹴りされている。猛が蹴るたびに、横たわった和馬は鼻や口から血を流し、グレーの絨毯に赤色の模様が増えていく。このままではヤバイ。


「こ、孝太郎さん。猛さんを止めないと……!」

「綾さんにこんな事した奴ですよ?」


 こんなの当然だろうと孝太郎は冷めた目で二人の成り行きを見ている。他に誰が止めてくれる人はいないかと、綾は助けを求めるように部屋の入り口を見たが、二人いるスーツは知らん顔で部屋の外を向いている。


「……かはっ、…綾チャンの感じてる声可愛かったぜ。ハハ……」

「黙れ!!」

「ウエッ……がはっ……」


 見た事ないくらい猛が怒りを露わにしている。普段でも怖いが、今の猛は野生のライオンが爪を剥き出しにして襲いかかっているように危険で近寄りがたい。


 こんなに怒るなんて……。


 どう収めようかとオロオロした綾は、ふと和馬の言った言葉を思い出した。


『普通自分の大切な人が他のヤツに盗られそうなら、もっと激しく相手に敵意を見せるんだよ』


 激しい敵意。目の前で怒り狂ってる猛がまさにそれだ。


 猛さんにとって、僕は大切な存在……?
 ここに来たのも僕を探してくれたから?
 それとも、いずれ風俗店に出して金にしようとしていた人材を連れ戻しに来ただけ?


 その答えが知りたい。

 綾はふらつく身体をなんとか動かしてベッドから降りた。


「猛さん……」


 やっと名前が呼べた。そう思った瞬間、目の前が暗くなり足元から崩れ落ちた。


「綾!」


 暗い沼地に落ちるような感覚の中、遠くから猛が自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。



 ***



「綾!」

「……っは、…ハッハッ……」


 猛に激しく揺り起こされ目を開けた。深刻そうな顔の猛と見覚えのある天井が目に入り、綾はあれ? と瞬いた。


「酷く魘されていたから無理矢理起こしたぞ。気分は?」

「……平気…です」


 反射的に答えたが、お腹はまだ少し鈍い感じが残っている。ここは猛の寝室だ。猛がいつも寝ているであろうダブルベッドの真ん中に綾が陣取って横になっていた。猛は寄り添うように真横で寝っ転がっている。部屋の照明は点いているが窓がないため朝なのか夜なのかわからない。


「今何時……?」


 身体を起こそうとしたが、すぐに猛に押し戻された。


「真夜中だからまだ寝てろ。ああ、でも寝汗が酷いから着替えた方がいいな」


 自分で胸元に触れると確かに浴衣は湿っている。首の辺りや額も汗が伝うくらい寝汗で濡れていた。猛はベッドを離れると「大人しく待ってろ」と部屋を出て行った。


 僕、屋敷に戻ってきたんだ……。


 あれからどうなったんだろうと最後の記憶を辿り、血まみれの和馬を思い出した綾はブルっと身を震わした。


 い、生きてるよね……?


 和馬は猛の実の弟だから命にまで奪うことはないだろうと思うが、あの様子では少なからず病院でお世話になっているはず。


「寝てろと言ったろ」

「ひっ!」


 綾は色々考えていたせいで猛が寝室に戻ったのに気づかなかった。声をかけられ驚いて変な声を上げてしまった。猛の言いつけを守らず身体を起こして座っていた綾は「すみません」と小さく謝った。猛は持ってきた綾の着替えの浴衣と身体を拭くお湯とタオルをベッド横のテーブルに置いた。


「起き上がれるくらい回復したんなら結構だ。自分で脱げるか? 身体は俺が拭いてやる」

「……はい」


 腰紐を解き、浴衣を脱ぐと、猛が濡れタオルをそっと額にあてた。驚くぐらい優しい手つきで汗をぬぐわれ妙に緊張する。

 綾が屋敷からいなくなった事など、猛からは何も話を切りだしてくる様子がないのが余計に緊張させた。自分から全て話して謝った方がいいだろうと心の準備をしていると、首筋に移動した猛の手が止まって眉間の皺が深くなった。そこには和馬がつけた跡がある。綾はハッとして手で首を隠すと猛から少し離れた。


「何をされたか細かく言え」

「……い、言いたくありません」


 強い口調で言われ、怖くなって逃げるように視線を外した。


「あんな奴にでも感じて喘いだのか」

「……っ」


 それ以上聞いて欲しくないと目を閉じると勢いよく押し倒された。猛は苦々しい表情でさらに綾に詰め寄った。


「言え! どんな風にアイツに抱かれた!」

「……キ、キスされて…身体舐められて……っく、下も触られてっ、…うっ、後ろに少し挿れられ……っ」


 思い出しただけでも虫唾が走る。あのタイミングで猛が来てくれなかったら、綾は確実に和馬に突っ込まれていた。


「少し? 全部じゃないんだな? 最後までシてないのか?」


 泣きじゃくりながらコクコクと頷くと、猛は綾の肩に頭を乗せてふーっと深いため息をついた。


「ご、ごめん…なさい……」

「誰のものかわかるようにもう一度躾直してやる」


 強くあてがわれた唇は、綾が泣いてしゃくりあげていてもお構いなしに激しく貪った。いつも綾は猛の動きに合わせて控え目に受けるだけだが、今夜は針が振り切る勢いで積極的に猛を求めた。


 この手のひら、この肌、この唇が欲しかった。


 猛のこの熱を自分だけに向けて欲しいと願ってしまう。

 自分の中に貪欲が生まれてしまい、猛に抱かれながらも胸が苦しくなった。泣き止んだはずなのに、再び涙を流す綾に猛は動きを一旦止めた。


「どうした?」

「……奏多は? 奏多は僕の後釜ですか?」

「はぁ? ンなわけねぇだろ。アイツ和馬の手下だせ?」

「え? 手下?」


 キョトンとしている綾を抱き起こして膝に乗せた猛は呆れたように話した。


「アイツは最初っから怪しかったから拘束して拷問した」

「え? 気に入ってこの部屋に泊めたんじゃなくて……?」

「寝室《ここ》には入れてねぇよ。隣のリビングだ。意外と口が固くて目的聞き出すのに時間かかったけどな。俺の弱点探りに来たんだとよ」

「そうですか……」


 てっきり猛が奏多を気に入ってると思っていた綾は自分の心配が杞憂だとわかり、あからさまにホッとしてしまった。


「なんだ、気にしてたのか? 今まで俺が誰を指名しても平然としてたのに?」

「平然としてたわけでは……」


 確かに、最初の頃は猛を何とも思っていなかったので無関心だったかもしれない。しかし猛への気持ちに気付いてからは顔や態度に出さないように必死に隠してきた。

 ゴニョゴニョと尻すぼみになりながら下を向く綾に、猛はフッと表情を和らげた。


「時々つまみ食いはしたが全部リビングでだ。ここには入れてねぇよ」

「……え?」


 猛の言った意味がすぐに理解できず、綾はしばらく考え込んだ。


「おまえ鈍いな」

「う……」


 同じ事を和馬にも言われた綾は返す言葉もなかった。気が利くタイプではないとわかってはいたが、まさか立て続けに鈍いと指摘されるとは思ってもいなかった。


「毎晩のように男を部屋に呼んだがほとんど手をつけてねぇし、相手をさせたとしても最近は口でさせてただけだ。ベッドに入れたのはおまえだけだ。この意味、わかるな?」


 はっきりとした言葉はなかったが、欲しかった答えを見つけた綾は首を縦に振った。その拍子に涙がまた頬を伝った。


「ふ、おまえ最初も泣いてたよな」


 懐かしむように猛が涙を指で拭った。



 ***



 ーー寝顔が子供みたいなヤツだな。


 最初に綾を気にかけるようになったのは、気絶した綾をソファーに転がした時だ。純粋無垢で隙だらけの寝顔。

 綺麗な顔立ちは、意識がある時は怯えて青ざめ下を向いていた。ポロポロと大粒の涙を流して顔がぐちゃぐちゃになっても、その姿は儚げで綺麗だった。

 いつもはマンションのリビングで2、3回ヤってから自分の経営する風俗店に放り込むのに、なんとなく綾はもう少しヤりたくてベッドに連れて行った。仕事の打ち合わせで呼びつけた孝太郎が寝室で綾が寝ているのを知って変な顔をした。


「珍しいですね」

「何がだ」

「ベッドなんてよほどじゃないと使わないじゃないですか。確かに綺麗な子でしたけど気に入ったんですか?」

「別になんとなくだ」

「なんとなくで2日も続けて相手をさせるんですか」

「文句あんのか」

「いいえ、ご自分の仕事だけキチンとこなしてくだされば私は構いませんよ」


 孝太郎が澄ました顔でさり気なく責めてくるのは、猛が経営している数件の風俗店の他に持っている不動産会社の仕事があって多忙だからだ。猛が少しでも仕事の手を抜くと、そのしわ寄せは側近の孝太郎が負担することになる。何年も猛の下で働いている孝太郎は、段々と猛の扱いが上手くなってきている。


「アイツは屋敷で仕事させるから、男のケツ洗うの教え込んどけ。今度からアイツにやらせる」

「連れて帰るんですか?」

「悪いか」

「いいえ、私の仕事が一つ減って楽になると思っただけです」


 意味深に笑った孝太郎はその後、綾の面倒を見ることになって楽になるどころか苦労が増える事になる。


 深く考えて作った仕組みではなかった。
 綾に男の準備をさせ、その男を性欲処理に使って楽しんでから店に回した。時々無性に綾とシたくなって綾も時々指名するようになった。でもある頃、いくら男に突っ込んでも満足しない自分がいるのに気づいた。セックスして身体も心も満たされるのは、不思議と綾だけだった。


 猛が綾への気持ちをはっきりと自覚したのは、綾が屋敷に来てから半年経ってからだった。


「孝太郎、アイツ男どもにどんな感じで調教してるんだ?」

「さぁ、私は調教部屋にいないので知りません。調教の仕上がり具合に不都合でも?」

「いや、それは十分すぎるくらい出来てる。ただなんとなく気になっただけだ」

「そうですか。本人に確認してみたらどうです?」

「…………ビデオ仕掛けとけ」

「猛さん、趣味が増えましたか?」

「うっせーよ。黙ってやっとけ!」

「わかりました。では早速手配するので失礼します」

「……孝太郎」

「はい?」

「逃げ出さないか見張る為に同室にしたが……触ったか?」


 地響きがしそうな声といつもの3倍増しの眼光を向けられた孝太郎は、全身凍るような冷たさを感じだがすぐにやれやれと息をついた。


「私は猛さんと違って最初からこうなるとわかっていたので、そんな危ない真似してません。そんなに牙を見せて牽制するならご自分の部屋に置けばいいじゃないですか」

「んな事したら和馬に目ぇつけられるだろ」


 猛の実弟、和馬は組の跡継ぎを狙って隙あらば猛の邪魔をしてくる。猛からすれば和馬は小バエがたかるくらいのレベルで全く相手にしてなかったが、綾に関しては厳重にガードするようになった。


 綾を屋敷から出さなかったのが幸いして、和馬に直接狙われる事はなかったが、和馬の指示で入り込んだ奏多に気を取られている間に綾を掻っ攫われてしまった。奏多の素性を探るために孝太郎を外へ出したのをとても悔やんだ。


 居処を掴むのに時間がかかり、和馬のマンションに乗り込んだ時には綾はベッドの上で淫らな状態にされていた。その姿を見た途端頭に血が上って和馬を瀕死にさせた。


「綾チャン、自分の意思でついて来たんだぜ……」


 意識を飛ばす前に和馬が言った一言は、ただ猛を動揺させるためのデタラメだと思った。

 しかし、よく考えたら綾が屋敷にいるのは猛が借金の代わりに連れてきただけだ。泣いたり逆らったりせず淡々と生活していたのでそこにいるのが当たり前に感じ、綾の本心を確認しようと思った事など一度もなかった。

 和馬の話が事実ならば、綾はずっと屋敷を離れたいと考えていたという事だ。

 今まで相手がどう思おうが関係なく好き勝手にしてきたし、言いたい事を言ってきた。しかし和馬の元から帰ってきた綾には、一番聞きたい事をすんなり聞けなかった。

 首筋に見えた和馬との名残に怒りが込み上げ、感情のままに綾を責めた。和馬に抱かれていないのがわかると、今度は全身が脱力するほど気が抜けた。この一日で様々な感情を味わい、それを思い起こしながら綾を抱いた。全て綾に教えられた新しい自分だ。

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