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肌寒い日が続いている。
彼女のあくびが多くなった。
マフラーの色は去年と違う。白い色が彼女によく似合っている。
衝立男はマフラーも手袋もしていない。夏服から冬服になったのに、印象の変わらない男だ。
最近の僕は、衝立男に感謝してもいいかもしれないと思うようになった。衝立のようなコイツが居るから、彼女の眉間の皺を見ずにすむ。
何度目かのあくびを噛み殺した彼女に、衝立男が眉を顰めた。
「榎本さん、睡眠はちゃんと取った方がアタマにいいらしいよ」
何を言っているんだ。そんなことタクシーだって知っている。
「……そうみたいね」
「うん、そうらしい」
「そう、だよねぇ」
「そうそう。そうなんだよ! 榎本さん、驚きだね!」
「うん、びっくりした!」
彼女と衝立男は顔を見合わせて噴き出した。
仲の良い人間の間でだけ交わされる、他愛のないやりとりってやつなんだろう。たいして面白くないのに、二人はしばらく笑っていた。
こんな時、僕が感じるのは疎外感。
そしてバス停でしかない自分の空しさ。
仕方のないことだけど。それでもどうしようもなく切ない。
「いや、本当にさ、無理しても本番で実力がでなかったら困るでしょ? 榎本さん真面目なタイプだしさ、ちゃんと寝ないとどっかで無理がくるよ?」
心の中で僕は頷いた。全くもってその通りだ。
大学受験とやらがどれだけ大事かは知らないが、体を壊しては元も子もない。バスだって定期的に整備されている。ガソリンが切れたら車は動けない。
「うち弟が三人いるんだよねぇ……」
「あー。なるほど……」
何を勝手に納得しているんだ、衝立め。僕には全然わからないが、衝立男はうんうんと頷いている。
「浪人は絶対無理だし。本当は国公立に行くのが親孝行ってわかってるんだけど。どうしても第一志望は変えたくなくて……」
「私立が第一希望なんだ?」
「……うん」
頼りない返事。
受験とやらはそんなに厳しいものなんだろうか。受験戦争という物言いを聞いたことがあるが、人間たちは一体何と戦っているんだろう。
彼女の苦悩が僕にはわからない。
「駄目だったら諦めて滑り止めにいくから、受けさせてって。もう、すごい喧嘩したんだあ……。滑り止めの方は、とにかく現実的なトータル費用で選んだから、正直受かっても喜べないし……」
「受かれば行ってもいいって、言ってくれたんでしょ? 親もさ。だったらやっぱ無理して体壊したら元も子もないんじゃない」
「でも、わたし、成績優秀者の授業料免除狙ってて……」
「ああ、そういうの狙うと大変かぁ。俺は入れれば、下から数えてでも別にいいやと思ってるから余裕あるけど」
衝立の陰から見える彼女の顔が歪んだ。
「……小暮君がどこ狙ってるか知らないけど、ちょっと、無神経だと思わない?」
いつになく彼女の声が鋭い。
「……」
乾いた沈黙が二人の間に流れる。まるでなんとなく会話を始めたものの、続かなくなってしまった見知らぬ客同士のようだ。
どうしたというのだろう。衝立男は何かを言おうとしたが、結局何も言わずに大きな息だけを吐いた。
彼女がぴくりと肩を震わせる。
そこにバスが来た。
あからさまにほっとした彼女に目を向けずに、
「深刻になれば受かるってもんでもないと思うけど」
衝立男は言葉を投げた。
僕の前で停車したバスのドアが開く。
なんだ、この空気は。通夜に向かう客のようだ。
バスのステップを上る衝立男の足取りが、僅かに重い。否応にもコイツを見てきた僕だからわかる程度だが。おそらく、その顔に浮かぶのは不本意の三文字。
彼女も、やけにゆっくりとバスに乗り込んだ。
衝立男は一番後ろに、彼女はあまり座ったことのない一番前の席に座った。
走り去るバスの窓に移る横顔は沈んでいる。
何か声をかけたかったけれど、バスは彼女を乗せて走り去っていく。
見送ることしか僕にはできない。
だって僕はバス停だから。
明日も彼女が僕の元に来ることだけが、幸いだ。
今日は朝から空が暗い。
今にも雨が降りだしそうだ。
寒いのだろう、彼女は白いマフラーをきつく捲きなおした。
彼女の他に客は居ない。そう、衝立男がいないのだ。邪魔者がいないというのに、僕は落ち着かない。
彼女と衝立男のあれは言い争いだったのだろうか。結局、僕にはよくわからない。
ただ、あの日から三日、衝立男は姿を現さなかった。
四日目の今日も。
あの日の翌日、彼女はいつも通り僕の元へ来たが、誰も居ないのを見てほっとしたような、がっかりしたような顔でバスを待った。さらにその翌日は、ほっとした表情は浮かべなかった。
そして今日は、目に見えて肩を落とした。
明日は泣くのではないかと、なんとなく僕はそう思った。
車が何台か通り過ぎる。
バスはまだ来ない。今日も遅れている。
呆れていると、軽いエンジン音をさせて、一台の軽自動車が僕の前で停車した。
なんだ? こいつは。バスになりたいのだろうか。生まれ変わって出直した方がいいんじゃなかろうか。僕のいぶかしい眼差しに軽自動車は苦笑した。
彼女も何事かと首を傾げている。
助手席が開くと、緩慢な動作で衝立男が降りてきた。マスクを着けやたら厚着をしている。
「小暮君……」
困惑顔で、彼女は一歩下がった。
その様子に衝立男は眉根を寄せる。運転席の人間に何事かを言って、車のドアを閉めた。
それから、小脇に抱えた紙袋を彼女に突き出す。
「借りてた参考書返すって名目で、出てきたから……受け取って」
酷い鼻声に、いつも以上にぼんやりとした間抜け顔。
僕にもわかる、コイツ風邪をひいたな。
「参考書って……」
そんな物を貸し借りした事実はなかった筈だ。頭は大丈夫だろうか。
「いーから。受け取って。風邪ひいて、大人しく寝てろって、のを無理に車出してもらったから、言いわけ。中身は俺のおススメ漫画だけど」
衝立男が彼女から顔を背けて、げほげほと咳き込む。
逡巡しながらも彼女は紙袋を受け取った。
「ありがと……?」
緊張が解けたのか、衝立男の端に笑みが浮かんだ。
ちらりと背後の車に目をやってから、頭を下げる。
「この、あいだは、ごめん。俺は、弱音吐くと、駄目になりそうだから……強がりたいっていうのが、本音。榎本さん程じゃないけど、神経質になってた。ごめん」
「ちょ、ちょっと待って! そっちばっかり謝らないで」
「いや、俺は別に大丈夫。多分、言われた俺より、言った榎本さんの方が気にしてたでしょ? そんで、どんどん芋づる式に嫌な事を思い出したりして、落ち込んでいくタイプでしょ、榎本さん」
聞き取りにくい鼻声で言って、衝立男は苦笑した。
確かに、彼女は衝立男のように能天気ではない。
「もっと早く謝ろうとおもったんだけど、風邪で寝込んでたから、さ」
「……ごめんなさい」
俯いて顔に影がかかる。ああ、僕の好きじゃない表情の彼女だ。
「あのさ、榎本さん」
そこで衝立男が遮るように咳込んだから、彼女はのろのろと顔を上げた。
彼女が衝立男を心配しているのがわかる。だから僕は苛立たしい。
「榎本さんはさ、まだ学校に行く?」
その内、自由登校とやらで、学校に行かなくても構わなくなるらしい。彼女がいつ学校に行くのかは僕も気になるところだ。
「……うん? 私立じゃないから、まだ行くよ。自由登校になっても入試対策の講義あるし、別の予備校に行ってる子と話したいし、割と行くつもり」
「わかった。俺は、月曜からは学校に行くつもりだから――そん時に、会おう」
彼女が小さく息を飲んだ。
これまで、二人が約束をしたことなど一度もなかった。約束せずとも同じバスに乗るのだから。そんなものは必要ないはずだ。
けれど、あえて衝立男は約束を口にした。それがどういうことなのか。
深く頷いたせいでマフラーに埋もれた彼女の返事は、僕には聴こえなかった。
今、悲しいのですか? 嬉しいのですか?
どちらですか?
声をかけることができない。
なんだか彼女が泣き出しそうだから。
衝立男が母親の車で病院に向かうのを、彼女と僕で見送った。
彼女のあくびが多くなった。
マフラーの色は去年と違う。白い色が彼女によく似合っている。
衝立男はマフラーも手袋もしていない。夏服から冬服になったのに、印象の変わらない男だ。
最近の僕は、衝立男に感謝してもいいかもしれないと思うようになった。衝立のようなコイツが居るから、彼女の眉間の皺を見ずにすむ。
何度目かのあくびを噛み殺した彼女に、衝立男が眉を顰めた。
「榎本さん、睡眠はちゃんと取った方がアタマにいいらしいよ」
何を言っているんだ。そんなことタクシーだって知っている。
「……そうみたいね」
「うん、そうらしい」
「そう、だよねぇ」
「そうそう。そうなんだよ! 榎本さん、驚きだね!」
「うん、びっくりした!」
彼女と衝立男は顔を見合わせて噴き出した。
仲の良い人間の間でだけ交わされる、他愛のないやりとりってやつなんだろう。たいして面白くないのに、二人はしばらく笑っていた。
こんな時、僕が感じるのは疎外感。
そしてバス停でしかない自分の空しさ。
仕方のないことだけど。それでもどうしようもなく切ない。
「いや、本当にさ、無理しても本番で実力がでなかったら困るでしょ? 榎本さん真面目なタイプだしさ、ちゃんと寝ないとどっかで無理がくるよ?」
心の中で僕は頷いた。全くもってその通りだ。
大学受験とやらがどれだけ大事かは知らないが、体を壊しては元も子もない。バスだって定期的に整備されている。ガソリンが切れたら車は動けない。
「うち弟が三人いるんだよねぇ……」
「あー。なるほど……」
何を勝手に納得しているんだ、衝立め。僕には全然わからないが、衝立男はうんうんと頷いている。
「浪人は絶対無理だし。本当は国公立に行くのが親孝行ってわかってるんだけど。どうしても第一志望は変えたくなくて……」
「私立が第一希望なんだ?」
「……うん」
頼りない返事。
受験とやらはそんなに厳しいものなんだろうか。受験戦争という物言いを聞いたことがあるが、人間たちは一体何と戦っているんだろう。
彼女の苦悩が僕にはわからない。
「駄目だったら諦めて滑り止めにいくから、受けさせてって。もう、すごい喧嘩したんだあ……。滑り止めの方は、とにかく現実的なトータル費用で選んだから、正直受かっても喜べないし……」
「受かれば行ってもいいって、言ってくれたんでしょ? 親もさ。だったらやっぱ無理して体壊したら元も子もないんじゃない」
「でも、わたし、成績優秀者の授業料免除狙ってて……」
「ああ、そういうの狙うと大変かぁ。俺は入れれば、下から数えてでも別にいいやと思ってるから余裕あるけど」
衝立の陰から見える彼女の顔が歪んだ。
「……小暮君がどこ狙ってるか知らないけど、ちょっと、無神経だと思わない?」
いつになく彼女の声が鋭い。
「……」
乾いた沈黙が二人の間に流れる。まるでなんとなく会話を始めたものの、続かなくなってしまった見知らぬ客同士のようだ。
どうしたというのだろう。衝立男は何かを言おうとしたが、結局何も言わずに大きな息だけを吐いた。
彼女がぴくりと肩を震わせる。
そこにバスが来た。
あからさまにほっとした彼女に目を向けずに、
「深刻になれば受かるってもんでもないと思うけど」
衝立男は言葉を投げた。
僕の前で停車したバスのドアが開く。
なんだ、この空気は。通夜に向かう客のようだ。
バスのステップを上る衝立男の足取りが、僅かに重い。否応にもコイツを見てきた僕だからわかる程度だが。おそらく、その顔に浮かぶのは不本意の三文字。
彼女も、やけにゆっくりとバスに乗り込んだ。
衝立男は一番後ろに、彼女はあまり座ったことのない一番前の席に座った。
走り去るバスの窓に移る横顔は沈んでいる。
何か声をかけたかったけれど、バスは彼女を乗せて走り去っていく。
見送ることしか僕にはできない。
だって僕はバス停だから。
明日も彼女が僕の元に来ることだけが、幸いだ。
今日は朝から空が暗い。
今にも雨が降りだしそうだ。
寒いのだろう、彼女は白いマフラーをきつく捲きなおした。
彼女の他に客は居ない。そう、衝立男がいないのだ。邪魔者がいないというのに、僕は落ち着かない。
彼女と衝立男のあれは言い争いだったのだろうか。結局、僕にはよくわからない。
ただ、あの日から三日、衝立男は姿を現さなかった。
四日目の今日も。
あの日の翌日、彼女はいつも通り僕の元へ来たが、誰も居ないのを見てほっとしたような、がっかりしたような顔でバスを待った。さらにその翌日は、ほっとした表情は浮かべなかった。
そして今日は、目に見えて肩を落とした。
明日は泣くのではないかと、なんとなく僕はそう思った。
車が何台か通り過ぎる。
バスはまだ来ない。今日も遅れている。
呆れていると、軽いエンジン音をさせて、一台の軽自動車が僕の前で停車した。
なんだ? こいつは。バスになりたいのだろうか。生まれ変わって出直した方がいいんじゃなかろうか。僕のいぶかしい眼差しに軽自動車は苦笑した。
彼女も何事かと首を傾げている。
助手席が開くと、緩慢な動作で衝立男が降りてきた。マスクを着けやたら厚着をしている。
「小暮君……」
困惑顔で、彼女は一歩下がった。
その様子に衝立男は眉根を寄せる。運転席の人間に何事かを言って、車のドアを閉めた。
それから、小脇に抱えた紙袋を彼女に突き出す。
「借りてた参考書返すって名目で、出てきたから……受け取って」
酷い鼻声に、いつも以上にぼんやりとした間抜け顔。
僕にもわかる、コイツ風邪をひいたな。
「参考書って……」
そんな物を貸し借りした事実はなかった筈だ。頭は大丈夫だろうか。
「いーから。受け取って。風邪ひいて、大人しく寝てろって、のを無理に車出してもらったから、言いわけ。中身は俺のおススメ漫画だけど」
衝立男が彼女から顔を背けて、げほげほと咳き込む。
逡巡しながらも彼女は紙袋を受け取った。
「ありがと……?」
緊張が解けたのか、衝立男の端に笑みが浮かんだ。
ちらりと背後の車に目をやってから、頭を下げる。
「この、あいだは、ごめん。俺は、弱音吐くと、駄目になりそうだから……強がりたいっていうのが、本音。榎本さん程じゃないけど、神経質になってた。ごめん」
「ちょ、ちょっと待って! そっちばっかり謝らないで」
「いや、俺は別に大丈夫。多分、言われた俺より、言った榎本さんの方が気にしてたでしょ? そんで、どんどん芋づる式に嫌な事を思い出したりして、落ち込んでいくタイプでしょ、榎本さん」
聞き取りにくい鼻声で言って、衝立男は苦笑した。
確かに、彼女は衝立男のように能天気ではない。
「もっと早く謝ろうとおもったんだけど、風邪で寝込んでたから、さ」
「……ごめんなさい」
俯いて顔に影がかかる。ああ、僕の好きじゃない表情の彼女だ。
「あのさ、榎本さん」
そこで衝立男が遮るように咳込んだから、彼女はのろのろと顔を上げた。
彼女が衝立男を心配しているのがわかる。だから僕は苛立たしい。
「榎本さんはさ、まだ学校に行く?」
その内、自由登校とやらで、学校に行かなくても構わなくなるらしい。彼女がいつ学校に行くのかは僕も気になるところだ。
「……うん? 私立じゃないから、まだ行くよ。自由登校になっても入試対策の講義あるし、別の予備校に行ってる子と話したいし、割と行くつもり」
「わかった。俺は、月曜からは学校に行くつもりだから――そん時に、会おう」
彼女が小さく息を飲んだ。
これまで、二人が約束をしたことなど一度もなかった。約束せずとも同じバスに乗るのだから。そんなものは必要ないはずだ。
けれど、あえて衝立男は約束を口にした。それがどういうことなのか。
深く頷いたせいでマフラーに埋もれた彼女の返事は、僕には聴こえなかった。
今、悲しいのですか? 嬉しいのですか?
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声をかけることができない。
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