義兄様と庭の秘密

結城鹿島

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義兄様にいさま金柑きんかんを拾い、離れへ着いた頃には空は紫に変化していた。早く戻らなければ、父さまに怒られてしまう。
しかし、残り少ない機会なのだから大切にしたい。

「足元に気をつけて」

少しずつ義兄様が手直しをしたおかげで、昔よりは過ごしやすくなったものの、やはり離れは暗く陰鬱だ。
台所は随分と散らかっていた。元々は、曾祖母が薬を煎じたり簡単な煮炊きをしたりするためのものらしいから、広さが十分ではないのだろう。床には、庭の収穫物が乱雑に置かれている。

「相変らず植物のこと以外は、義兄様はずぼらですね」
千代ちよが片づけに来てくれないからね」
「まあ、人のせいにするんですか」

くすくすと笑いあう。拗ねるように言うのは甘えだ。義兄様がそんな顔を見せるのは私だけ。他愛もない言い合いが、堪らなく愛おしい。

「多分大丈夫だと思うけど千代に渡す前に、念の為、味をみたいから、食べさせておくれ。あまり味をみないで作ったものだから」

金柑の甘露煮はまだ鍋のまま、器に移されてはいなかった。

「わかりました。お箸と小皿を貸して下さいな」
鍋の周りにはどちらも見当たらない。
「手でいいよ。見ての通り洗いものをしてないんだ」
「そんな、お箸を洗いますから待ってて下さい」

義兄様は私の側に寄って、
「いいから、気にせず食べさせておくれ」
少ししゃがんだ。
義兄様は案外強情で、こうなっては言っても聞かない。
「わ、わかりました」
私は、汁けの多い金柑を指で摘まんだ。シャツを汚してしまわないように、注意して義兄様の口へと運ぶ。

「あっ!」

待てなかったように、義兄様は私の指ごと口に含んだ。

「に、義兄様!?」

慌てて、手を引こうとしても強く吸われて動けない。義兄様は半ば私の指を口にしたまま、器用に金柑を咀嚼そしゃくした。金柑が無くなっても、舌で指を執拗にねぶってくる。あまりのことに気が動転して、私はされるがままだ。手ずから物を食べさせることは今までにだってあった。でも、これは違う。今している行為はきっと、もっと別のことだ。体の底から妙な気分が湧きあがってくる。

「義兄様……」

ゆっくりと、私の指から口を離した義兄様は、
「うん、いい味だよ、ほら。千代も味わってごらん」
そう言うと私に口づけた。

「ん!?」

重なった義兄様の唇から、金柑の香りが伝わってくる。続いて口腔にねじ込まれた舌から、ほのかな甘さと苦さも。

(なに? なんなのこれ。何が起きているの?)
「んんっ……んぅ」

唇を離したのは束の間、再び唇を重ねられた。口の中で、別の生き物のように義兄様の舌がうごめいている。口蓋をまさぐられ、歯列をなぞられ、何も考えられなくなるほど口腔を蹂躙された。

「は……あっ……」

どれほど経ってからだろうか、やっと解放され、私は息を求めて喘いだ。離れた舌から唾液が糸を引く、その光景の淫靡さに体が熱を帯びる。

(私、義兄様に口づけられたの……?)

「千代は美味しいね」

「なにを、義兄様……」

首筋をぺろりと舐められ、体が震える。怖い。このままでは、踏み込んではいけない場所まで行ってしまう。
(急にどうしたというの。義兄様を何か怒らせるようなことをしたかしら)
拒まなければならないと頭に浮かぶのに、身体の奥から湧き上がる熱は義兄様に身を任せてしまいたいと思っている。

「千代、僕に一生傍にいて欲しいかい?」

義兄様の目が鋭さを帯びる。細面ほそおもての美貌の下からは獣性が滲む。いくら美しくとも義兄様も男性なのだ、改めて思い知る。
私は、まるで猟犬に追い詰められているような気分になった。

「だ、だめっ」

私は義兄様を押しのけ逃げ出した。

(わたし――)

自分の気持ちに気付いたのに……気づいたからこそ、答えられなかった。答えたら何が起こるのか、恐ろしかったから。
私はずっと義兄様が好きだった。だからずっと側に居て欲しい。
でも、そんなこと許されるだろうか。
許されない。即座に理性が反駁した。血が繋がっていなくても私達は兄妹だ。何より、父が絶対に許さないだろう。

(どうしたらいいの……?)

その晩、私は一睡もできなかった。

                 ◇

結婚式まで一週間だというのに、離れでの一件以来、義兄様と会えていない。
顔を合わせ辛くて、庭へあまり出ていないのだから当然といえば当然なのだが、不安で胸が押しつぶされそうになる。

(このまま会えなくなったりしたらどうしよう……)

母屋は人の出入りが多くて居場所がない。結婚相手や、向こうの家の人と顔を合わせたくなくて、私は人気のない場所を求めて歩いた。そんな場所はないと、思い知るのに時間はかからなかったけれど。

「千代子」

どこへ行こうかと思案する私を責める声。

「なんですかお父さま」
よりによって一番会いたくない人に見つかってしまった。
「まったくお前と来たら落ち着きがない。母さんがお前を呼んでいたぞ」

父だというのに、私はもう目の前に立つ男性に全く親しみを覚えていない。日に日に増す違和感と、どうしようもない不快感。父は私の結婚を決めてから、一度も義兄様のことを口にしてないのだ。ただの一度も。
喉に詰まっていた疑問をここにきて漸く形にする気になった。聞いておかねばいけないと思う。

「あの、私が結婚したら義兄様はどうなりますか……?」
家を追い出されるのですか? と言外に尋ねた返事は、予想よりもひどいものだった。

「兄だなんて呼ぶんじゃない。あれは汚らわしい男妾だんしょうの子供だ。いいな、千代子」

何か、胸の中で小さな器が割れた音が聴こえた。器に収められていたものは零れて二度と元に戻らない。
それでいい、構わないのだと心は告げる。
私は、去っていく父の背中を見ながら決心した。

(明日、義兄様のところへ行こう……)

                 ◇

かた、と小さな物音に身を起こす。
もろくに眠れず、布団の中で夜が明けるのを待っていたから、私はその音にすぐに気がついた。時計を見ればまだ五時前、空気は肌寒い。

(何か、人の気配がしたような……)

窓を開けると下に桔梗の花束があった。黒いリボンで纏められているのを見て、寒気が走る。義兄様だ。どこに植わっているのか知らないが、庭に群生地があると言っていた。
不吉なものを感じて、私は寝巻のまま、上に綿入れを羽織っただけで急いで庭へ出た。父に見つかればまた煩く言われるだろう。
けれど、構わない。早く、早く追わないと。義兄様がどこかへ行ってしまう。

(そんなのは嫌!)

義兄様は普段、屋敷の方へ近寄らない。だからこれは、よっぽどのことだ。
提灯を用意して、暗い庭へと降りていく。心は急くが、この時間に灯りもなしに野原のような庭を歩くことは出来ない。

「義兄様」

早朝だから大声で呼ぶわけにはいかない。

「義兄様、どこですか」

朝露に濡れる下草の茂をかき分けていく。桔梗が咲いているのはどこだろう。あてもなく、義兄様の姿を探してやってきたのは、ススキのそよぐ庭の端。初めて会ったのはこの辺りだ。この先は視界を塞ぐように山がそびえている。薄暗い草むらに一人立ち尽くして、私は涙を堪えた。
黒いリボンだなんて、まるで喪章のよう。どんなつもりで、用意したのだろう。
「義兄様、どこですか……」
私の喉からは、まるで迷子の子供のようなか細い声しか出てこない。私が義兄様を拒んだりしたから、家を出て行ってしまったのだろうか。
もうこの辺りまで来れば、大声を出したって聞き咎められることはない。

「にいさまっ……!」

私は声の限りに叫んだ。何度も何度も。
返事があったのは何度目のことだったろうか。

「千代」

それは草を踏む足音に紛れるような、小さな声だった。それでも、義兄様の私を呼ぶ声を聞き逃す筈がない。木の陰から姿を現した義兄様は、いつも通りの涼しい顔。旅支度をしている様子はない。私はほっとした。

「来てしまったんだね」
「いけませんか」
「諦めようかと思ったのに、な」

私は提灯を投げ捨て、義兄様へと駆け寄った。そして、自嘲するような笑みの義兄様の腕を掴んだ。何を諦めようとしたというのだ。問うことは怖くて、ただ子供のように叫ぶ。

「私はっ……私は、義兄様が好きでした。ずっと私の側に居て下さい……っ。お願いですから!」

義兄様は僅かに瞠目した。長い睫毛をそっと伏せ、囁く。
「……桔梗がね、綺麗に咲いたから千代に見せてあげようと思ったんだ」

そんな言葉でなく、もっと違う言葉が聞きたいのに。もう手遅れだとでも言うのだろうか。ゆっくりと持ち上げられた手が、するりと私の頬を撫でる。指が離れていくのが、歯痒い。

「――千代、僕はね、この家から一度逃げようとしたことがある。ここに来たばかりの頃かな……。産みの父の所に身を寄せて、一人立ちできるまで世話になろうとした」

「え……」

知らなかった。今まで義兄様の実の父親のことは聞いたことがなかった。本人からは勿論、義母からも父からも。聞いてはいけない事だと思っていたから、昨日の父の罵言が初めてだ。

「でも、連れ戻された。千代、僕の実の父はね、男妾だったんだよ」
何て言ったらいいか、わからなかったから、私は腕を掴む手に力を込めた。
「その反応…義父さんから聞いたのかな?」
私は頷いた。義母が芸者をしていたということは、以前に耳に挟んだことがあった。だから、きっとその頃の付き合いなのだろう。

「母の恋人で、綺麗な人だったよ。僕は父に似てるから、義父さんは僕の存在を許せなくて、人に見せたくないんだろう。放っておいてくれればいいのに、憎んでいるからこの庭で腐っていくことしか許してはくれないらしい」

まさかそんな、とは言えない。あれを兄なんて呼ぶな、と言ったあの時の父の歪んだ顔を思い出す。義兄様は、学力にはなんの不足もなかったのに高等学校へ行かせてもらえなかった。日頃は、学こそが大事だなんだと言っている父さまなのに。住む場所を自分達から離したことも、将来への関心の無さも、義兄様の言葉が真実だと示している。今まで目を逸らしてきたけれど、父が義兄様を憎んでいないとは、決して言えない。
父への嫌悪感で胸が詰まる。
それから、これまで義兄様への酷い態度を見過ごしてきた自分自身も、同様に許せない。
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