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第1章 赤白青の回転灯
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夕方の商店街は、冬の匂いがした。
焼き鳥の煙と、スーパーの惣菜コーナーの甘い油と、濡れたアスファルトの冷えが混ざり合って、息を吸うたびに胸の奥が少しだけ縮む。令和の街は明るい。LEDの看板が昼みたいに光って、店先のスピーカーが陽気な声でタイムセールを告げる。それなのに、私の中はずっと薄暗かった。
駅前の広い道路を渡って、一本裏へ入る。
チェーンの美容室が並ぶ通りを外れ、昔ながらの個人商店が残る細い路地へ。そこに、赤白青のサインポールが回っていた。
加藤理容店。
ガラス戸の内側には、白い文字で「予約優先」。その下に小さく「女性のお客様も歓迎」と貼ってある。貼り紙の端が少し反っていて、長い時間そこにあったのだと分かる。
私はその紙を見上げたまま、しばらく立ち尽くした。
——床屋に入る。
それだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう。
私は二十八歳。都内のメーカーで事務をしている。人の目を気にしすぎる癖がある。だから髪はずっと、褒められやすい長さで保ってきた。肩甲骨の下まである黒髪を、丁寧に乾かし、オイルをつけ、くるりとまとめる。私の“整っている”を支える道具のひとつが、この髪だった。
その髪が、今夜は重い。
コートの襟に触れるたび、背中で存在を主張してくる。まるで「やめなよ」と引き止める手みたいに。
スマホがポケットの中で震えた。通知。
画面を見なくても、誰からか分かった。指先だけでロック画面を上に滑らせ、通知を消した。
消した、というより、追い払った。
あの人の名前を視界に入れた瞬間、胸が勝手に痛む。痛みがある限り、私はまだ終わっていないのだと気づく。終わっていないものを抱えたまま、私は今日ここに来た。髪を切るために。髪を、置いていくために。
「……寒っ」
息が白い。
駅から吹き込む風が路地に溜まり、頬を刺した。私は肩をすくめ、もう一度だけサインポールを見る。回転灯の規則正しい動きが、妙に落ち着く。決まった速度で、同じ色が繰り返される。感情と違って、そこには迷いがない。
ガラス越しに店内を覗く。
蛍光灯の白い光。鏡が二面。椅子が二つ。雑誌が並んだ棚。待合の椅子には誰もいない。奥のほうで、タオルを畳む気配がする。
私は、息を吸って、吐く。
手袋を外し、戸に手を掛けた。
鈴が、軽く鳴った。
「いらっしゃいませ」
声は、柔らかいのに低く、店の空気に馴染んでいる。
カウンターの奥から出てきたのは三十代半ばくらいの男性だった。白いシャツに、濃い色のベスト。腕まくりをした手首のあたりに、薄いハサミの跡みたいな小さな傷がいくつか見える。仕事の手をしている。
「……あの、初めてなんですけど」
「どうぞ。初めてでも大丈夫ですよ。寒かったでしょう。コート、こちらに掛けられます」
言い方が、過剰に丁寧じゃない。
“女性客だから”みたいな扱いもしない。
それが、私にはありがたかった。
コートを預けて、鏡の前へ案内される。床はきれいに磨かれ、理容店特有の薬品っぽい清潔な匂いがする。美容院みたいに香水が混ざっていないぶん、逃げられない現実がある。でも、それがいい。現実を切りに来たのだから。
「今日は、カットで?」
「……はい」
返事が短くなる。声が喉に引っかかる。
私は椅子に座り、鏡に映った自分を見た。濃いブラウンのコートを脱いだ私。黒髪を肩の前に寄せて、不安そうな目をしている。
男性は名札を指で軽く触れた。
榊(さかき)。そう書いてある。
「榊です。担当しますね」
「……お願いします」
榊はケープを手に取り、広げた。
白い布がぱさりと音を立てる。その一瞬で、私は別の世界へ連れていかれる気がした。肩に布が落ちる。首元をタオルで巻かれる。あっさりした手つきなのに、逃げ道が塞がれていくのが分かる。
“切られる側”になる。
その事実が、胸をきゅっと掴んだ。
「どんな感じにします?」
榊が鏡越しに私を見る。
私は、準備してきた言葉が喉の奥で崩れるのを感じた。「肩くらい」「鎖骨くらい」そんな無難な台詞が、いくつも浮かぶ。でも、今日の私は、無難にしたくない。無難にしてしまったら、また同じところへ戻る。
「……短く、してください」
言った瞬間、店の空気が少しだけ変わった気がした。
榊の視線が、髪を見る。髪の“意味”を見る。
「短く、ですね。どのくらい……」
私は口を開けて、閉じた。
“どのくらい”が決まっていないのではない。決まっている。怖いだけだ。
怖いのは、髪がなくなることじゃない。
髪がなくなったあと、私がどう見えるか。
そして何より、髪がなくなったあと、私の中に何が残るか。
「……できるだけ」
言い切ると、心臓が一度だけ強く鳴った。
榊の眉が、ほんの少しだけ動いた。驚きではなく、慎重さの合図。
「かなり思い切りますね。途中で何度か止めて確認しましょうか」
「……はい」
「理由は、聞かない方がいいですか」
私は、一瞬だけ迷う。
本当は聞いてほしい。誰かに言ってほしい。私の中のぐちゃぐちゃを、言葉にして外へ出したい。だけど、同時に、知られたくない。髪を褒めてくれた人に捨てられたなんて、情けないから。
「……聞かないで、ください」
榊はすぐに頷いた。
「分かりました。じゃあ、今日ここで起きることだけ、ちゃんと進めますね」
“ちゃんと進める”。
その言葉が、妙に安心だった。
髪を切ることを、イベントや気分じゃなく、作業として扱ってくれる。私の決意を、決意として扱ってくれる。
榊は、私の髪をそっと持ち上げた。
指が髪の束の重さを量るみたいに、ゆっくりと。引っ張らない。痛くしない。私の身体から切り離される前の最後の“重さ”を、確かめているみたいだった。
「髪、きれいですね。手入れ、してきたでしょう」
褒められたのに、胸が痛い。
その褒め言葉が、過去の生活を丸ごと肯定してしまうようで、今の私には刺さった。
「……ありがとうございます」
榊は何も言い足さず、道具棚へ向かう。
ハサミの金属音が、かちり、と小さく鳴った。
その音が、私の中の何かのスイッチを入れる。
鏡の中の私は、目だけが大きい。
笑えない。けれど、逃げない。
榊が私の背後に立つ。
ハサミが開く気配。空気が少しだけ動く。
「最初は長さを落とします。音、しますよ」
私は小さく頷いた。
喉が乾く。
心臓が、やけにうるさい。
その瞬間、店の外で踏切が鳴った。
カン、カン、という音が路地の奥から聞こえ、時間が、確実に前へ進んでいくのが分かる。
私は目を閉じず、鏡を見たまま、息を吸った。
次の一息で、私はきっと、もう同じ私ではなくなる。
——そして、榊のハサミが、最初の一房に触れた。
焼き鳥の煙と、スーパーの惣菜コーナーの甘い油と、濡れたアスファルトの冷えが混ざり合って、息を吸うたびに胸の奥が少しだけ縮む。令和の街は明るい。LEDの看板が昼みたいに光って、店先のスピーカーが陽気な声でタイムセールを告げる。それなのに、私の中はずっと薄暗かった。
駅前の広い道路を渡って、一本裏へ入る。
チェーンの美容室が並ぶ通りを外れ、昔ながらの個人商店が残る細い路地へ。そこに、赤白青のサインポールが回っていた。
加藤理容店。
ガラス戸の内側には、白い文字で「予約優先」。その下に小さく「女性のお客様も歓迎」と貼ってある。貼り紙の端が少し反っていて、長い時間そこにあったのだと分かる。
私はその紙を見上げたまま、しばらく立ち尽くした。
——床屋に入る。
それだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう。
私は二十八歳。都内のメーカーで事務をしている。人の目を気にしすぎる癖がある。だから髪はずっと、褒められやすい長さで保ってきた。肩甲骨の下まである黒髪を、丁寧に乾かし、オイルをつけ、くるりとまとめる。私の“整っている”を支える道具のひとつが、この髪だった。
その髪が、今夜は重い。
コートの襟に触れるたび、背中で存在を主張してくる。まるで「やめなよ」と引き止める手みたいに。
スマホがポケットの中で震えた。通知。
画面を見なくても、誰からか分かった。指先だけでロック画面を上に滑らせ、通知を消した。
消した、というより、追い払った。
あの人の名前を視界に入れた瞬間、胸が勝手に痛む。痛みがある限り、私はまだ終わっていないのだと気づく。終わっていないものを抱えたまま、私は今日ここに来た。髪を切るために。髪を、置いていくために。
「……寒っ」
息が白い。
駅から吹き込む風が路地に溜まり、頬を刺した。私は肩をすくめ、もう一度だけサインポールを見る。回転灯の規則正しい動きが、妙に落ち着く。決まった速度で、同じ色が繰り返される。感情と違って、そこには迷いがない。
ガラス越しに店内を覗く。
蛍光灯の白い光。鏡が二面。椅子が二つ。雑誌が並んだ棚。待合の椅子には誰もいない。奥のほうで、タオルを畳む気配がする。
私は、息を吸って、吐く。
手袋を外し、戸に手を掛けた。
鈴が、軽く鳴った。
「いらっしゃいませ」
声は、柔らかいのに低く、店の空気に馴染んでいる。
カウンターの奥から出てきたのは三十代半ばくらいの男性だった。白いシャツに、濃い色のベスト。腕まくりをした手首のあたりに、薄いハサミの跡みたいな小さな傷がいくつか見える。仕事の手をしている。
「……あの、初めてなんですけど」
「どうぞ。初めてでも大丈夫ですよ。寒かったでしょう。コート、こちらに掛けられます」
言い方が、過剰に丁寧じゃない。
“女性客だから”みたいな扱いもしない。
それが、私にはありがたかった。
コートを預けて、鏡の前へ案内される。床はきれいに磨かれ、理容店特有の薬品っぽい清潔な匂いがする。美容院みたいに香水が混ざっていないぶん、逃げられない現実がある。でも、それがいい。現実を切りに来たのだから。
「今日は、カットで?」
「……はい」
返事が短くなる。声が喉に引っかかる。
私は椅子に座り、鏡に映った自分を見た。濃いブラウンのコートを脱いだ私。黒髪を肩の前に寄せて、不安そうな目をしている。
男性は名札を指で軽く触れた。
榊(さかき)。そう書いてある。
「榊です。担当しますね」
「……お願いします」
榊はケープを手に取り、広げた。
白い布がぱさりと音を立てる。その一瞬で、私は別の世界へ連れていかれる気がした。肩に布が落ちる。首元をタオルで巻かれる。あっさりした手つきなのに、逃げ道が塞がれていくのが分かる。
“切られる側”になる。
その事実が、胸をきゅっと掴んだ。
「どんな感じにします?」
榊が鏡越しに私を見る。
私は、準備してきた言葉が喉の奥で崩れるのを感じた。「肩くらい」「鎖骨くらい」そんな無難な台詞が、いくつも浮かぶ。でも、今日の私は、無難にしたくない。無難にしてしまったら、また同じところへ戻る。
「……短く、してください」
言った瞬間、店の空気が少しだけ変わった気がした。
榊の視線が、髪を見る。髪の“意味”を見る。
「短く、ですね。どのくらい……」
私は口を開けて、閉じた。
“どのくらい”が決まっていないのではない。決まっている。怖いだけだ。
怖いのは、髪がなくなることじゃない。
髪がなくなったあと、私がどう見えるか。
そして何より、髪がなくなったあと、私の中に何が残るか。
「……できるだけ」
言い切ると、心臓が一度だけ強く鳴った。
榊の眉が、ほんの少しだけ動いた。驚きではなく、慎重さの合図。
「かなり思い切りますね。途中で何度か止めて確認しましょうか」
「……はい」
「理由は、聞かない方がいいですか」
私は、一瞬だけ迷う。
本当は聞いてほしい。誰かに言ってほしい。私の中のぐちゃぐちゃを、言葉にして外へ出したい。だけど、同時に、知られたくない。髪を褒めてくれた人に捨てられたなんて、情けないから。
「……聞かないで、ください」
榊はすぐに頷いた。
「分かりました。じゃあ、今日ここで起きることだけ、ちゃんと進めますね」
“ちゃんと進める”。
その言葉が、妙に安心だった。
髪を切ることを、イベントや気分じゃなく、作業として扱ってくれる。私の決意を、決意として扱ってくれる。
榊は、私の髪をそっと持ち上げた。
指が髪の束の重さを量るみたいに、ゆっくりと。引っ張らない。痛くしない。私の身体から切り離される前の最後の“重さ”を、確かめているみたいだった。
「髪、きれいですね。手入れ、してきたでしょう」
褒められたのに、胸が痛い。
その褒め言葉が、過去の生活を丸ごと肯定してしまうようで、今の私には刺さった。
「……ありがとうございます」
榊は何も言い足さず、道具棚へ向かう。
ハサミの金属音が、かちり、と小さく鳴った。
その音が、私の中の何かのスイッチを入れる。
鏡の中の私は、目だけが大きい。
笑えない。けれど、逃げない。
榊が私の背後に立つ。
ハサミが開く気配。空気が少しだけ動く。
「最初は長さを落とします。音、しますよ」
私は小さく頷いた。
喉が乾く。
心臓が、やけにうるさい。
その瞬間、店の外で踏切が鳴った。
カン、カン、という音が路地の奥から聞こえ、時間が、確実に前へ進んでいくのが分かる。
私は目を閉じず、鏡を見たまま、息を吸った。
次の一息で、私はきっと、もう同じ私ではなくなる。
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