刃先に触れる恋 —君が短くなるたび、僕は惹かれていく—

S.H.L

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第1部

第5章:好きな髪と、好きな人と、好きな自分

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第5章:好きな髪と、好きな人と、好きな自分

1|「駅前のカフェでいい?」というメッセージ

 駅の改札を抜けたところで、
 澪はスマホの画面を見つめて立ち止まった。

 亮介からのメッセージは、短いものが二つ。

 「今日、会える?」
 「なんで髪切ったの?」

 その文字列からは、
 心配よりも「怒り」と「支配」の匂いがした。

 (前だったら……きっと、怖がってた)

 すぐに機嫌をうかがって、
 「ごめんね、びっくりさせちゃって」
 と、先に謝っていたに違いない。

 しかし今、頭のてっぺんに当たる風は冷たく、
 その冷たさが、逆に思考を澄ませてくれる。

 澪は親指を動かした。

 「駅前のカフェ、19時半でどう?」

 すぐに既読がつき、
 「いいよ。そこで話そう」
 と返ってきた。

 (“話そう”ね……)

 胸の奥に、静かな火が灯る。



2|ガラス越しに見えた“いつも通りの”彼

 駅前ロータリーから見える、
 チェーン系カフェの白いロゴ。

 その店内の窓際席に、
 亮介はいつものように座っていた。

 ジャケットの袖を少し折り返し、
 腕時計をちらりと見てから、
 スマホをテーブルに伏せている。

 澪がガラス越しに近づくと、
 彼はふと顔を上げ――
 固まった。

 大きく見開かれた目。
 口元がわずかに開く。

 澪は、外から軽く会釈をしてドアを開けた。

 「ごめん、待たせた?」

 「……いや。今来たとこ」

 亮介の声は、
 なんとか平静を装おうとしているのが、逆にわかりやすかった。

 椅子に向かい合って座ると、
 店内の柔らかい照明が、
 澪のスキンヘッドをほんのりと照らした。

 「……マジで剃ったの?」

 開口一番、それだった。

 「うん。昨日」

 「美容院じゃなくて?」

 「床屋さん。巴理髪店っていうところ」

 「床屋ぁ……?」

 亮介は、信じられないものを見るような目をした。

 「なんで……? なんでそんなことしたの」



3|「俺、ずっと言ってたよな?」

 澪は、テーブルの上に置いた手をぎゅっと組んだ。

 (来る)

 亮介は前のめりになって続けた。

 「俺、ずっと言ってたよな?
  “その長い髪が好きだ”って。
  “そのままでいてほしい”って」

 「うん、言ってたね」

 「それをさ、なんで相談もなく、いきなり……。
  ショートにするとかならまだわかるよ? でもこれ、坊主どころじゃないだろ。ツルツルじゃん」

 言葉に、ほんの少し嘲りが混じる。

 澪は、ほんの一瞬だけ胸が痛んだが、
 それでも冷静に口を開いた。

 「変わりたかったんだよ、私自身が」

 「そんな、髪を犠牲にしなくてもいいだろ」

 「犠牲、か……」

 澪は、窓の外に視線を向ける。

 雨上がりのアスファルトが、街灯を反射している。

 「亮介、覚えてる? 初めて会った時のこと」

 「あ? 合コンの時?」

 「うん。あの時も、私の髪のことばっかり褒めてたよね」

 『この長さ、絶対切っちゃダメだからね』
 『こういう女の子、大好きなんだよね』

 三杯目のグラスを手に、
 笑ってそう言った亮介の顔を、澪は今も鮮明に覚えている。



4|“好み”と“命令”の境界線

 「俺、別に変なこと言ってないよな?
  好きなところ褒めて、何が悪いんだよ」

 亮介は少し苛立ったように言う。

 「褒めてくれてたのは、嬉しかったよ。最初は」

 「“最初は”って何だよ」

 「でもね、だんだん変わっていったんだよ。
  『切らないで』『そのままでいて』が、
  “お願い”じゃなくて、“命令”みたいに聞こえるようになってきた」

 亮介の眉がぴくりと動く。

 「命令なんてしてない。
  ただ、俺の好みを言ってただけだろ」

 「『髪切るなら別れるからな』って、言ったよね?」

 澪は静かに問い返した。

 亮介は一瞬言葉に詰まり、
 すぐに言い訳を探すように視線を泳がせた。

 「あれは……冗談半分で……」

 「“半分”じゃなかったよね。
  あの時、本気の顔してた」

 彼の目の端が、わずかに揺れた。



5|「誰のものだと思ってたの?」

 澪は、自分の頭にそっと手をやった。
 指先が、店の照明を柔らかく跳ね返す地肌をなでる。

 「亮介は、私の髪を“自分のもの”だと思ってた?」

 「は?」

 「私のこと、“俺の女”ってよく言うよね。
  髪もその一部だと思ってた?」

 彼は苛立ちを隠せなくなってきた。

 「何だよ、その言い方。
  彼氏が彼女の髪型に好み持ってちゃ悪いのかよ。
  みんなそうだろ? ロングが好きとか、ショートが好きとか」

 「好みを持っていることは、悪くないよ」

 澪は首を横に振った。

 「でも、“彼氏の好みに合わせないと愛されないかもしれない”って
  女の子に思わせてる時点で、それはもう“好み”じゃなくて“拘束”だよ」

 亮介は、ぐっと言葉に詰まる。

 周りの席の人間が、ちらりとこちらを見たが、
 誰も口を挟まない。



6|「じゃあ、俺は必要ないってこと?」

 しばらく沈黙が続いた後、
 亮介は、少し声を落として言った。

 「……じゃあ、お前にとって、俺は必要ないってこと?」

 被害者のようなその言い方に、
 かつての澪ならすぐに謝っていただろう。

 けれど今は、頭頂部に触れるたび、
 自分の中の“芯”がはっきりと感じられる。

 「そういう話じゃないよ。
  “誰かに必要とされるために、自分を変えること”もある。
  それは、それで悪いことだとは思わない」

 澪は、きちんと言葉を選びながら続けた。

 「でもね、私は、この十年間ずっと、
  “誰かのために”髪を伸ばしてきたの。
  親のために。職場の空気のために。
  そして、亮介のために」

 「悪かったって言えばいいのかよ」

 「そういう謝り方を求めてるんじゃない」

 澪は、右手を強く握りしめた。

 「“誰かのために”伸ばし続けた髪を、
  “私のために”終わらせたかったの。
  それをまず、わかってほしかった」



7|「そんなに自分勝手になるなら、知らない」

 亮介の顔つきが、少しずつ変わっていく。
 理解しようとする表情から、
 不機嫌さと防衛反応が前面に出てきた。

 「……わかんねぇよ。
  そんな極端なことしなくてもいいだろ」

 「極端、か」

 「そうだよ。
  普通さ、“気分転換”って言って、
  せいぜいボブにするとか、肩まで切るとかだろ?
  なんでいきなりスキンヘッドなんだよ。
  女で、ここまでやるなんておかしい」

 「“普通”って、誰が決めるの?」

 「世の中、そういうもんだろ」

 「“世の中”のために、私の頭皮があるわけじゃない」

 即座に返すと、
 亮介は苦々しい顔をした。

 「……そんなに自分勝手になるなら、知らないからな」

 その一言に、澪は静かに息を吸った。



8|かつてなら飲み込んでいた言葉を、今は

 (ああ、そうか。
  今まで私は、この“知らないからな”が怖くて、黙ってたんだ)

 彼が機嫌を損ねることが、
 すべての人間関係の終わりだと、
 どこかで思い込んでいた。

 でも今は、違う。

 巴理髪店の椅子に座ってから、
 剃刀が頭を滑った瞬間から、
 何かが変わってしまった。

 澪は、テーブルの上に置いていた手を、
 ぎゅっと握ったまま言った。

 「亮介」

 「……なんだよ」

 「私、自分勝手になりたい」

 彼の目が、大きく揺れた。

 「今まで、自分勝手になるのが怖くて、
  いつも“誰かの気持ち”を先に考えてきた。
  職場でも、家族の中でも。
  亮介の前でも」

 「それの何が悪いんだよ。
  思いやりってそういうもんだろ」

 「うん。思いやりは大事だよ。
  でも、“自分をすり減らすこと”と“思いやり”は、違う」

 澪は、自分の声が震えていないことに気づいた。

 「私、自分の頭に風が当たってる感覚、好きなんだ。
  雨が直接当たるのも、けっこう気持ちいいってわかった。
  鏡の中で、自分の輪郭がちゃんと見えるのも、嫌じゃなかった」

 亮介は、信じられないという顔をしていた。

 「……俺の好きな“お前”じゃなくなっていくな」

 「ああ、多分ね」

 澪は素直に頷いた。

 「でも、私、自分のことは前より好きになったよ」



9|「髪を伸ばしたら、また会おう」は、違う

 しばし沈黙が流れたあと、
 亮介は、どこか諦めたように息を吐いた。

 「……わかったよ。
  今の俺には、お前のその感じ、受け止められないわ」

 「……うん」

 「髪、伸ばしたらさ。
  また、会おう」

 それは、彼なりの「譲歩」なのかもしれない。
 もしくは、「条件付きの継続」。

 でも、その言葉が発せられた瞬間、
 澪の中で、何かがはっきりと切り替わった。

 「ごめん」

 「……え?」

 「髪を伸ばしたら会おうって言われるの、
  すごく嫌だ」

 亮介の顔に、露骨な驚きが浮かぶ。

 「嫌、って……」

 「それって、“私”と会いたいんじゃなくて、
  “自分の好みの髪型をした女”と会いたいってことだから」

 声は静かだが、言葉は鋭く、まっすぐだった。

 「私、そういう条件付きで愛されるのは、もう嫌」

 亮介はしばらく口を開きかけては閉じ、
 やがて、ふっと笑った。

 その笑いは、どこか空虚だった。

 「……お前、変わったな」

 「うん。たぶんね」

 「じゃあ、もう無理だな」

 「うん。そうだね」

 言ってみて、自分でも驚くほどスッとした。



10|別れのあと、頭に触れて確かめたもの

 会計を済ませ、それぞれ別々に店を出た。

 駅とは反対側の歩道に出て、
 澪は一人で歩きながら、
 つるりとした頭にそっと触れた。

 指先が、やわらかい反射を伝えてくる。

 (泣いてもいいはずなんだけどな)

 胸のどこかがきゅっとなるような感覚はある。
 それでも、涙は出なかった。

 代わりに浮かんでくるのは、
 巴理髪店の椅子に座っていた時の感覚。

 バリカンの振動。
 髪が床に積もっていく重さ。
 剃刀の冷たい刃。
 白い泡。
 そして、鏡の中で目を合わせてくれた圭介の静かな視線。

 (あの椅子に座った時点で、
  きっと、今日のことも決まってたんだろうな)

 “誰かのための髪”を、
 “自分のために”終わらせた。

 その選択の先に、
 亮介との別れがあるのは、
 ある意味、必然だったのかもしれない。

 交差点の信号が青に変わる。

 澪は、ヘッドライトを反射する自分のシルエットを、
 ショーウィンドウのガラス越しに見つめた。

 スーツ姿の女。
 スキンヘッド。
 まっすぐ前を向いて歩いている。

 (……悪くない)

 心の底から、そう思った。
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