刃先に触れる恋 —君が短くなるたび、僕は惹かれていく—

S.H.L

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第1部

第4章:朝のオフィスと、ざわめく視線

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第4章:朝のオフィスと、ざわめく視線

1|月曜の朝、スキンヘッドで通勤する女

 翌朝。
 地下鉄の窓は、朝の湿気でうっすらと曇っていた。

 澪は、その窓に映る“つるりとした自分”を見つめる。

 昨日、巴理髪店で仕上がったばかりの頭皮は、
 まだ剃刀負けの赤みもなく、
 滑らかで、光を柔らかく反射していた。

 (今日、会社で……みんな、どんな顔をするだろう)

 胸の奥が少しざわつく。
 だが後悔は、不思議なくらいなかった。

 むしろ、
 “反応してくれていいよ”
 という微かな楽しさすら胸の底にあった。

 頭に風が当たるたび、
 小さな電流のように皮膚が震える。

 澪は、自然と口元に微笑みを浮かべた。



2|オフィスの自動ドアが開く瞬間

 午前8時58分。
 北都産業株式会社 本社ビル。

 澪は深く息を吸い、
 スキンヘッドのまま自動ドアをくぐった。

 途端に、
 受付周辺の空気が、わずかに揺れた。

 ざ……ざわ……

 ほんの一瞬。
 その揺れはすぐに平常へ戻る。

 だが澪にはわかる。
 ──自分が、誰かの視界を確実に奪った。

 社員証を首から下げ、エレベーターへ向かう。

 同じ方向へ歩いていた総務の女性が、
 目を見開いて、

 「あ……あの、澪さん……?」

 「おはようございます」

 自然に会釈すると、
 相手は信じられないものを見るように視線を動かしながら、

 「え、えっ、髪……どうしたんですか……?」

 「切ったんです。気分転換に」

 にこりと微笑むと、
 相手は困惑と驚愕と好奇心が混じった表情のまま固まった。

 (うん、まあそうなるよね)

 エレベーター内の鏡に映る自分は、どこから見てもスキンヘッドの女。
 スーツとのコントラストが強く、
 弱々しさよりむしろ凛とした印象が際立っていた。



3|フロアが一瞬“止まる”

 9階、営業三課。

 エレベーターの扉が開いたとき、
 フロアにいた数名の社員が一斉にこちらを振り向き……

 時が止まった。

 「……え?」
 「……澪さん……?」
 「まさか……え、これ……本物……?」

 ざわ……ざわ……

 その場の空気が、みるみる変化していく。

 噂が、まだ言葉にならない状態で波紋のように広がる。

 コピー機の前にいた後輩の女の子が、
 手に持っていた紙束を落としそうになりながら駆け寄ってきた。

 「み、澪さんっ! 髪!!」

 「うん、切ったよ」

 「切った、ってレベルじゃ……ないですよね!? 坊主……え、スキン……えっ……えっ……?」

 語彙が迷子になっている。

 「まあ、いろいろあって」

 「いろいろ……!? ど、どんな……?」

 その“いろいろ”のうちの大部分は、
 昨日床に落ちていった黒髪の中に置いてきた。



4|上司の登場──沈黙の対峙

 そのとき。

 パーティションの奥から、
 あの上司――部長の 市村 が現れた。

 身長が高く、冷静で、常に眉間に皺を寄せている男。
 澪がミスをした日の、あの辛辣な言葉の主だ。

 市村は、澪を見ると一瞬目を細めた。

 フロアが静まる。
 社員たちが“次の言葉”を待つように身じろぎする。

 「……三枝」

 「はい」

 「髪……どうした?」

 「切りました」

 「見ればわかる。……理由を聞いている」

 澪は一瞬だけ目を閉じ、
 ゆっくりと顔を上げた。

 「ちょっと、環境を変えたくて。
  気持ちを切り替えたかったんです」

 市村は腕を組んだまま数秒見つめ、
 重い口を開いた。

 「……そうか。好きにすればいい。
  ただし──」

 (来る)

 「仕事の質まで“切り替わって”いないことを祈る」

 ――言葉は辛辣だが、
 その声音には、昨日まであった“失望”の色が薄れていた。

 (あ……)

 澪は気づく。

 スキンヘッドの自分に向けられているのは、
 呆れでも嘲笑でもなく……

 “期待の再評価”に近い視線だった。



5|席に着くと、空気が変わる

 自席に座ると、
 隣の席の先輩が笑いながら囁いてきた。

 「おまえ……すげぇ覚悟決めたな」

 「そんなつもりじゃ……いえ、まあ……ちょっと」

 「いや、口では“ちょっと”って言ってもさ。
  これは“ちょっと”でできる髪型じゃないからな?」

 「……確かに」

 「でも、なんか……似合ってる。
  お前、顔立ち整ってるから出てくるな。
  ずっと髪で隠してたの、もったいねぇわ」

 思わぬ褒め言葉に、頬が熱くなる。

 (……なんだろう。昨日より、みんなの声が聞こえる)

 周りの視線は多い。
 けれど、嫌な視線ではなかった。

 むしろ、不思議な安心感があった。

 自分が自分として、その場に立っている実感があった。



6|ふと机に落ちた影に気づく

 澪はパソコンを立ち上げながら、
 机の端に小さな“影”が動いているのに気づいた。

 それは──

 自分の頭の形が、はっきりと照明に映り込んだ影。

 髪があった頃は、こんな影は落ちなかった。

 丸い、なだらかな、スキンヘッドの影。

 (……私、本当に変わったんだ)

 胸の奥で、じん、と何かが響く。



7|昼休み、女性社員たちの包囲網

 昼休み。

 給湯室に入った途端、
 女性社員4人に囲まれた。

 「ちょ、ちょっと! 本当に剃ったの!?」
 「触っていい? ねえ触っていい?」
 「どういう心境!? 何があった!?」
 「彼氏、なんて言ってるの!?!?」

 質問の嵐。

 澪は思わず笑ってしまう。

 「落ち着いてください。ひとつずつ……!」

 女性社員のうちの一人が、
 遠慮なく澪の頭を撫でた。

 「わぁ……すべすべ……!
  え、赤くなってないじゃん。剃刀負けしなかったの?
  めっちゃ綺麗じゃん……!」

 別の子も遠慮なく触ってくる。

 「えっ……本当に綺麗……!
  私、彼氏にここ剃ってって言われても断ってるのに……澪さんすご……」

 澪は、少し照れながら答えた。

 「昨日、上手な理容師さんに剃ってもらったから」

 「え、どこ? どこの店? え、紹介して!!」

 女性たちは驚くだけでなく、
 好奇心と尊敬も入り混じった目を向けてくる。

 (……会社の女の子って、案外こういうの肯定してくれるんだ)

 それは意外な発見だった。



8|午後の仕事が“やけに捗った理由”

 午後の業務に戻ると、
 澪は驚くほど集中できた。

 髪が視界に落ちないし、
 耳にかかることもないし、
 首元が涼しくて不快感もない。

 そして――

 (余計なことを考えなくなってる……)

 昨日まで胸を占めていた、
 職場の空気、恋人の機嫌、周囲の評価……

 そういうノイズが、
 剃刀と一緒に削ぎ落とされていた。



9|退勤時、思わぬ人物が声をかける

 19時過ぎ。
 澪が帰ろうとした時、
 オフィスの出口で、市村部長が立っていた。

 「……三枝」

 「はい」

 「今日の資料、よくまとまっていた。
  最近で一番良かった」

 「……ありがとうございます」

 市村は続けた。

 「髪型どうこうではないが……
  今日のお前は、いつもよりずっと“まっすぐ”だった」

 (……まっすぐ)

 胸の奥が、軽く震える。

 市村はふっと目をそらし、
 背を向けながら呟いた。

 「……似合ってるぞ。その髪型」

 澪は、驚きで言葉を失った。

 部長が褒めるなんて、滅多にない。

 「……ありがとうございます」

 深く頭を下げる。

 ――剃った頭を、はっきりと見せながら。



10|帰り道、彼氏からのメッセージが届く

 電車を降りて地上へ出ると、
 スマホが震えた。

 「今日、会える?」
 「なんで髪切ったの?」

 恋人・亮介 からだった。

 (……来たな)

 胸の奥で、
 昨日よりずっと静かな感情が広がる。

 嫌な予感でも、
 縋る気持ちでもない。

 ただ、
 “話す時が来た”という静かな確信だった。
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