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第1部
第3章:白い泡と、剃刀の線
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第3章:白い泡と、剃刀の線
1|「ここからは、少し冷たいよ」
バリカンの音が止むと、巴圭介はコンセントからコードを外し、軽く刃先の毛を払った。
店内に、急に静けさが戻る。
時計の秒針の音。
外の雨がガラス戸を叩く、細かなリズム。
ケープに落ちた自分の髪が、ほんのわずかに擦れ合う音。
澪は、鏡の中の“坊主頭”の自分から目を離せずにいた。
「……本当に、全部、なくなっちゃいましたね」
そう呟くと、圭介は「いや」と首を振る。
「まだ“残ってる”。だから、ここから」
そう言って、棚から白いタオルを取り出す。
「少し、冷たいからね」
タオルを水に浸し、軽く絞る。
その手つきは、何千回と同じ動作を繰り返してきた職人のリズムだった。
澪は小さく頷く。
首元の金具を一度外し、ケープの中にタオルの端を差し入れる。
そして──
ひたり、と温かいものが頭皮を包んだ。
「……あったかい」
意外だった。
“冷たい”という言葉を聞いて構えていた分、その温もりが余計に沁みる。
「温めて、毛穴ひらいてからのほうが、剃刀がよく滑るんだ」
タオルごしに、頭を優しく押さえられる。
額から後頭部へ、側頭部から頭頂部へ。
ぐっと押し当てられた圧が、そのまま心の中のざわめきまで落ち着かせるようだった。
(剃刀……本当に、全部剃るんだ)
あらためてその事実が重くのしかかってきて、
胸の奥がきゅっと縮む。
「苦しくない?」
「だいじょうぶです」
声だけは、思ったよりも落ち着いて出た。
⸻
2|泡に覆われた頭――輪郭が消えていく
温タオルを外すと、頭皮に残ったぬるい水分が、空気に触れてひやりと冷える。
圭介は、丸いステンレスのカップと刷毛を手にした。
カップの中には、すでに白いシェービングクリームが入っている。
刷毛をくるくると回すたび、
しゅく、しゅく……
小さな泡が立っていく。
その音だけで、澪の背筋がまた伸びる。
「目、閉じててもいいよ。どっちでも」
「……開けたままで、見ていたいです」
自分でも意外な言葉だった。
だが、ここまで来て、もう“見ないふり”はしたくなかった。
圭介は「いい目だ」と小さく笑い、刷毛を澪の頭にそっと当てた。
ふわ……
柔らかな毛先が、うぶ毛と残った短い髪を撫でる。
同時に、ひんやりとした泡が皮膚に乗る感覚。
額の生え際から、ぐるりと円を描くように。
右のこめかみ、左のこめかみ。
頭頂部、後頭部、うなじ。
鏡の中で、
黒くざらついた坊主頭が、少しずつ白に塗りつぶされていく。
「……不思議」
「何が?」
「さっきまで“剃られてる”って感じだったのに、今は……こうやって塗られてると、自分がもう“素材”みたいで」
圭介は、泡を乗せる手を止めずに答える。
「髪がなくなるとね、頭って“キャンバス”みたいになるんだよ」
「キャンバス……」
「これからどう生きるかで、ここに見えるものが変わる。髪を伸ばすのも、剃り続けるのも、染めるのも。選ぶのは、あんた自身」
澪は、自分の白く塗られていく頭皮を見つめながら、その言葉を噛みしめた。
(いままでは、選べてなかったんだ)
仕事も。
恋人との関係も。
親からの期待も。
「女の子なんだから、髪くらい伸ばしなさいよ」
「その長い髪、俺の好みだからさ。ずっとそのままでいてよ」
そう言われるたび、「そうだよね」と笑ってきた。
自分の好みより、相手の好みを優先してきた十年。
その十年分が、
今、床の上で冷たく沈んでいる。
「……もう、誰かのための髪じゃない」
思わず口に出したその言葉に、圭介の手が一瞬だけ止まった。
「いいね、その台詞」
「え?」
「誰かのための髪じゃない。――じゃあ、これは?」
刷毛の先で、泡のついた頭を軽くつつく。
澪は、鏡の中の白い自分を見て、ゆっくりと答えた。
「これは……私が、私になるための……最後の一枚、です」
⸻
3|刃が落とす、最後の“ジョリッ”
頭全体が、白く厚い泡で覆われた。
生え際はあいまいになり、
額と頭皮の境目も泡に埋もれて見えない。
輪郭が少しぼやけた自分を見ていると、不思議な無重力感があった。
圭介は、引き出しから一本の剃刀を取り出す。
銀色の刃と黒い柄。
折りたたまれたそれを、
カチン
と音を立てて開く。
「ここからは、あまり動かないように。喋るときは、合図して」
「……はい」
刃先が、澪の右こめかみ近くの生え際にそっと当てられる。
ひやり、とした金属の冷たさ。
そこからゆっくりと、
す……っ
と下に滑り降りる。
「……っ」
思ったより痛くはない。
むしろ、やさしく撫でられているような感覚だ。
だが、音ははっきりと耳に届く。
ジョリ……ッ
バリカンの豪快な振動とは違う、
細く、鋭い、一本一本を断つ音。
白い泡の中から、黒い短毛がパラパラと顔を出し、
そのまま剃刀に乗せられて、
布へと拭い取られていく。
圭介は、一定のリズムで動く。
こめかみから耳の前。
耳の前から頬のすぐ上。
そこから側頭部の側面へ。
す……っ、ジョリ……
す……っ、ジョリ……
剃るたびに、泡が切り裂かれ、
その下から、より“なめらかな地肌”が現れる。
「怖くない?」
刃を離したタイミングで問われる。
「……少し、でも……」
「でも?」
「ちゃんと“終わっていってる”感じがします」
「うん、終わってる。さっきまでの“澪の髪の人生”がね」
その冷静な言い方に、澪は思わず笑ってしまう。
「変な言い方ですね」
「理容師っていうのは、ある意味“髪の墓守”だから」
「墓守……?」
「どこかで役目を終えた髪を送ってやる。次に生えてくるものに、席を空けてやる。今日のあんたの髪は、十年分溜まってた」
「……溜めすぎましたかね」
「そうかもね」
⸻
4|後頭部とうなじ――見えない部分ほど丁寧に
右側が終わると、鏡の中の澪は、片側だけがすでに“つるり”としていた。
泡が拭き取られた右の側頭部は、
光を柔らかく反射し始めている。
左側はまだ泡に覆われたまま、
そのコントラストが、途中経過であることを否応なく突きつけてくる。
「じゃ、後ろ行くよ」
圭介は椅子を少し回し、
澪の頭を前に傾けさせた。
「顎、軽く引いて」
「こう、ですか?」
「そう。それでいい」
見えない後頭部に刃が触れる。
うなじのあたりから、
す……っ、ジョリ……
今度はやや短いストロークで、何度も刃が往復する。
「後ろって、自分で見えないでしょう」
「はい。いつも、髪がどうなってるのか、人に言われるまで分からなくて」
「だから、見えないところほど、ちゃんと整えてやらないといけない」
圭介は、淡々と語りながら刃を進める。
「仕事でも、人付き合いでも、そういうところあるだろ。自分で気づかない“伸びっぱなし”」
「……ありますね。いっぱい」
怒りたくても怒れなかった場面。
無理だと思いながら引き受けてしまった仕事。
「女だから」という一言で片付けられた悔しさ。
そういうものが、後頭部の見えない髪のように、
自分でも放置してきた気がした。
剃刀がうなじのカーブをなぞる。
首筋の一番敏感なところを通過するとき、
澪は思わず息を止めた。
す……っ、ジョリ……ジョリ……
そのたび、細かな泡と一緒に、
短い毛が刃に集められていく。
圭介は一定のリズムで、何度も角度を変えながら撫で剃る。
「うなじ、すごく綺麗だよ」
「え……」
不意に言われて、頬が熱くなる。
「髪でずっと隠れてたからね。もったいないくらい」
「そんな……」
「坊主やスキンにすると、隠れてたところが全部出てくる。コンプレックスが出ることもあるけど、逆もある。――自分でも知らなかった“綺麗なところ”が、出てくる」
澪は、前に下げられた視線のまま、小さく笑った。
「……それなら、全部出してみたいです」
「もう、ほとんど出てるよ」
圭介の声は、静かだがどこか誇らしげだった。
⸻
5|頭頂部――最後の境界線を越える
後頭部とうなじが終わると、
再び椅子は正面に戻される。
鏡の中には、
後ろと右側がすでに“地肌の光”を取り戻し、
左がまだ泡だらけという、奇妙な途中段階の澪が映っている。
圭介は、残りの左側と頭頂部に視線を移した。
「ここからは、仕上げだ」
「……はい」
刷毛で少し泡を足し、
頭頂部にまんべんなく乗せていく。
そして、剃刀の刃先が
額のすぐ上、ど真ん中 に置かれた。
「動かないでね。ここが、一番目立つところだから」
「……わかりました」
額から頭頂部へ、
す……っ、す……っ
今度は少し長いストローク。
ジョリ……ジョリ……ジョリ……
音が、まっすぐ頭の中に響く。
(これで、本当に全部なくなる)
仕事で取り返しのつかないミスをした日のことが、ふと頭をよぎる。
あの日、部長に言われた冷たい言葉。
「君の代わりなんて、いくらでもいるからね」
その一言が、ずっと頭から離れなかった。
――だったら、私の人生ぐらい、私だけのものにしたい。
剃刀が通るたびに、
泡の下で、過去の言葉が削り取られていくような気がした。
右へ一本。
左へ一本。
今度は斜めに。
圭介は、同じ場所を角度を変えて何度もなぞる。
「剃り残しがあると、触った時に気になるからね」
「……触るの、楽しみです」
思わず漏れた本音に、自分で驚く。
(さっきまで怖がってたのに)
圭介は「うん」とだけ返し、
最後の細かい部分に刃を入れていった。
⸻
6|布で拭われる瞬間、別の輪郭になる
頭頂部と左側の剃りが終わると、
澪の頭は、まだところどころに泡をまとった状態で光っていた。
圭介は、清潔なタオルを取り上げる。
「じゃ、拭いていくね」
「……はい」
タオルが、頭皮にそっと触れる。
ふき、ふき……
額から後ろへ。
右から左へ。
さっきまで白く覆われていた場所から、
一枚の膜が剥がれていくように泡が取れていき、
下から現れた地肌は、驚くほど滑らかだった。
光が一点に当たり、
そこから柔らかな反射が広がる。
「……わぁ……」
思わず声が漏れた。
鏡の中の自分は、もう“坊主頭”ではなかった。
短い毛さえ、ほとんど見えない。
頭のラインが、そのまま形としてくっきり浮かび上がり、
首から肩への流れが、一本の曲線のようにつながっている。
「すっごい……つるつる……」
言いながら、澪は自分の手をゆっくりと持ち上げた。
圭介が「どうぞ」と頷く。
そっと、右側の側頭部に指先を当てる。
すべる。
さっきまでの“ジョリッ”という感触ではなく、
指が少し吸い付くような、しっとりとした滑らかさ。
「……!」
驚きに、目が見開かれる。
そのまま、頭頂部から後ろへなで下ろす。
丸みを帯びた頭蓋のかたちが、
指の腹にそのまま伝わってくる。
「これが……私の、頭の形……」
「そう。はじめまして、って感じだろ?」
圭介の冗談に、澪はふっと笑う。
「……はい。なんか、本当に……はじめまして、ですね」
タオルで残った泡と水分がすっかり拭われると、
ケープに張り付いていた細かな毛も、ある程度払われた。
足元の床には、
さっきまでの髪の束に加えて、
ところどころに白い泡の跡が残っている。
黒と白が交じりあったその光景は、
まるで「昔」と「今」の境界線のようだった。
⸻
7|「これで本当に、終わりですか?」
圭介は剃刀を片づけ、
もう一度指先で澪の頭全体を軽く撫でて、剃り残しがないか確かめる。
「痛いところ、しみるところはない?」
「だいじょうぶです。なんか……頭皮って、もっと弱いと思ってました」
「意外と強いよ、人の頭は。多少のことじゃ傷つかない」
ぽつりと言われたその言葉が、
どこか比喩のようにも聞こえた。
「これで……本当に、終わりですか?」
自分でも、その質問に多分の意味を乗せてしまっているのが分かる。
“髪を切ること”の終わりなのか。
“今までの自分”の終わりなのか。
“誰かのために生きてきた十年”の終わりなのか。
圭介は少し考えるように間を置き、答えた。
「ここまでが、今日の“断髪”の終わり」
「……今日の?」
「でも、“これからの生き方”は、ここが始まり。髪の終わりは、いつも何かの始まりなんだ」
澪は、鏡の中のスキンヘッドの自分をじっと見つめる。
額の広さ。
目の位置。
頬骨のライン。
首筋の細さ。
いままで髪でごまかしていたものが、全部そのまま出ている。
(こんなに、ちゃんと“私”って顔してたんだ)
そう思った瞬間、
今まで押し込めてきたものが急に溢れそうになって、
胸の奥がじんと熱くなった。
「……泣いてもいい?」
気がついたら、口が先に動いていた。
圭介は鏡越しに、柔らかな目をした。
「もちろん。ここは、泣く人、多いから」
その一言で、堰が切れる。
ぽたり、と涙が落ちた。
つるりとした頭皮を伝って、
ケープの上に小さなシミをつくる。
それは、雨粒とも、汗とも違う、
澪だけの“白雨”だった。
⸻
8|スキンヘッドの女として、扉の外へ
ひとしきり泣いて、呼吸が落ち着くと、
圭介は何も言わずに、そっと温かいおしぼりを差し出した。
「目の周り、押さえるように」
「……ありがとうございます」
目元を拭き、深く息を吸う。
ケープが外される。
細かな毛が少し肩に落ちたが、すぐに払われた。
椅子から立ち上がると、
体が今までより一回り軽くなったように感じる。
レジの横に置かれた姿見に、全身が映る。
ジャケット。
膝下丈のタイトスカート。
ビジネス用のパンプス。
そして、その上に載っているのは――
一片の髪もない、つるりとした頭。
「……似合って、ますか?」
振り返らずに問うと、
後ろのほうから圭介の声が返ってきた。
「似合ってるよ。覚悟した人間の顔してる」
澪は、姿見の前で小さく笑った。
「明日、会社行ったら、驚かれますよね」
「そうだろうね」
「彼氏にも、何か言われるだろうな……」
そこまで言って、ふと気づく。
“何か言われるだろうな”という言葉に、
前ほどの恐怖が乗っていないことに。
「でも、いいか」
思わず口からこぼれたその一言に、
自分でも驚いた。
「……もう、誰かの機嫌のために髪を伸ばすの、疲れました」
「いいねぇ」
圭介は、どこか楽しげに言った。
「ここを出た瞬間から、世間の目は急にうるさくなると思う。でも、その分、自分の声もよく聞こえるようになる」
「自分の、声……」
「そう。風が当たるたびに、雨に濡れるたびに、“あ、今こう感じてるんだ”って、自分のことが前よりわかるようになるよ」
澪は、ガラス戸の向こうの、まだ降り続く雨を見た。
つるりとした頭に、あの細かな雨粒がどんなふうに当たるのか。
考えただけで、少し胸が高鳴る。
会計を済ませ、店の前に立つ。
サインポールは相変わらず静かに回り、
赤・白・青のラインが雨に滲んで見える。
圭介がドアを少し押し開ける。
「じゃあ、“白雨”の初日、楽しんで」
「白雨……?」
「さっき、外見ながら、そんな顔してたからね。――髪を洗い流す雨だと思えばいい」
澪は思わず笑った。
「いい名前ですね」
「気に入ったなら、いつでもまた使いな」
「はい。また来ます」
その約束が、“スキンヘッドを続ける”という意味なのか、
“また髪型を変えに来る”という意味なのか、
今の澪にはまだ分からない。
それでも、
もう一度この店に来る自分 を、自然に想像できた。
ドアを一歩出る。
細かな霧雨が、
直接、頭皮に触れた。
ひやりとした感覚。
それなのに、どこかくすぐったくて、心地いい。
「……冷たい。でも、気持ちいい……」
小さく呟いて、澪は傘を開かなかった。
白い雨の中を、
スキンヘッドの女として、
ゆっくりと歩き出した。
1|「ここからは、少し冷たいよ」
バリカンの音が止むと、巴圭介はコンセントからコードを外し、軽く刃先の毛を払った。
店内に、急に静けさが戻る。
時計の秒針の音。
外の雨がガラス戸を叩く、細かなリズム。
ケープに落ちた自分の髪が、ほんのわずかに擦れ合う音。
澪は、鏡の中の“坊主頭”の自分から目を離せずにいた。
「……本当に、全部、なくなっちゃいましたね」
そう呟くと、圭介は「いや」と首を振る。
「まだ“残ってる”。だから、ここから」
そう言って、棚から白いタオルを取り出す。
「少し、冷たいからね」
タオルを水に浸し、軽く絞る。
その手つきは、何千回と同じ動作を繰り返してきた職人のリズムだった。
澪は小さく頷く。
首元の金具を一度外し、ケープの中にタオルの端を差し入れる。
そして──
ひたり、と温かいものが頭皮を包んだ。
「……あったかい」
意外だった。
“冷たい”という言葉を聞いて構えていた分、その温もりが余計に沁みる。
「温めて、毛穴ひらいてからのほうが、剃刀がよく滑るんだ」
タオルごしに、頭を優しく押さえられる。
額から後頭部へ、側頭部から頭頂部へ。
ぐっと押し当てられた圧が、そのまま心の中のざわめきまで落ち着かせるようだった。
(剃刀……本当に、全部剃るんだ)
あらためてその事実が重くのしかかってきて、
胸の奥がきゅっと縮む。
「苦しくない?」
「だいじょうぶです」
声だけは、思ったよりも落ち着いて出た。
⸻
2|泡に覆われた頭――輪郭が消えていく
温タオルを外すと、頭皮に残ったぬるい水分が、空気に触れてひやりと冷える。
圭介は、丸いステンレスのカップと刷毛を手にした。
カップの中には、すでに白いシェービングクリームが入っている。
刷毛をくるくると回すたび、
しゅく、しゅく……
小さな泡が立っていく。
その音だけで、澪の背筋がまた伸びる。
「目、閉じててもいいよ。どっちでも」
「……開けたままで、見ていたいです」
自分でも意外な言葉だった。
だが、ここまで来て、もう“見ないふり”はしたくなかった。
圭介は「いい目だ」と小さく笑い、刷毛を澪の頭にそっと当てた。
ふわ……
柔らかな毛先が、うぶ毛と残った短い髪を撫でる。
同時に、ひんやりとした泡が皮膚に乗る感覚。
額の生え際から、ぐるりと円を描くように。
右のこめかみ、左のこめかみ。
頭頂部、後頭部、うなじ。
鏡の中で、
黒くざらついた坊主頭が、少しずつ白に塗りつぶされていく。
「……不思議」
「何が?」
「さっきまで“剃られてる”って感じだったのに、今は……こうやって塗られてると、自分がもう“素材”みたいで」
圭介は、泡を乗せる手を止めずに答える。
「髪がなくなるとね、頭って“キャンバス”みたいになるんだよ」
「キャンバス……」
「これからどう生きるかで、ここに見えるものが変わる。髪を伸ばすのも、剃り続けるのも、染めるのも。選ぶのは、あんた自身」
澪は、自分の白く塗られていく頭皮を見つめながら、その言葉を噛みしめた。
(いままでは、選べてなかったんだ)
仕事も。
恋人との関係も。
親からの期待も。
「女の子なんだから、髪くらい伸ばしなさいよ」
「その長い髪、俺の好みだからさ。ずっとそのままでいてよ」
そう言われるたび、「そうだよね」と笑ってきた。
自分の好みより、相手の好みを優先してきた十年。
その十年分が、
今、床の上で冷たく沈んでいる。
「……もう、誰かのための髪じゃない」
思わず口に出したその言葉に、圭介の手が一瞬だけ止まった。
「いいね、その台詞」
「え?」
「誰かのための髪じゃない。――じゃあ、これは?」
刷毛の先で、泡のついた頭を軽くつつく。
澪は、鏡の中の白い自分を見て、ゆっくりと答えた。
「これは……私が、私になるための……最後の一枚、です」
⸻
3|刃が落とす、最後の“ジョリッ”
頭全体が、白く厚い泡で覆われた。
生え際はあいまいになり、
額と頭皮の境目も泡に埋もれて見えない。
輪郭が少しぼやけた自分を見ていると、不思議な無重力感があった。
圭介は、引き出しから一本の剃刀を取り出す。
銀色の刃と黒い柄。
折りたたまれたそれを、
カチン
と音を立てて開く。
「ここからは、あまり動かないように。喋るときは、合図して」
「……はい」
刃先が、澪の右こめかみ近くの生え際にそっと当てられる。
ひやり、とした金属の冷たさ。
そこからゆっくりと、
す……っ
と下に滑り降りる。
「……っ」
思ったより痛くはない。
むしろ、やさしく撫でられているような感覚だ。
だが、音ははっきりと耳に届く。
ジョリ……ッ
バリカンの豪快な振動とは違う、
細く、鋭い、一本一本を断つ音。
白い泡の中から、黒い短毛がパラパラと顔を出し、
そのまま剃刀に乗せられて、
布へと拭い取られていく。
圭介は、一定のリズムで動く。
こめかみから耳の前。
耳の前から頬のすぐ上。
そこから側頭部の側面へ。
す……っ、ジョリ……
す……っ、ジョリ……
剃るたびに、泡が切り裂かれ、
その下から、より“なめらかな地肌”が現れる。
「怖くない?」
刃を離したタイミングで問われる。
「……少し、でも……」
「でも?」
「ちゃんと“終わっていってる”感じがします」
「うん、終わってる。さっきまでの“澪の髪の人生”がね」
その冷静な言い方に、澪は思わず笑ってしまう。
「変な言い方ですね」
「理容師っていうのは、ある意味“髪の墓守”だから」
「墓守……?」
「どこかで役目を終えた髪を送ってやる。次に生えてくるものに、席を空けてやる。今日のあんたの髪は、十年分溜まってた」
「……溜めすぎましたかね」
「そうかもね」
⸻
4|後頭部とうなじ――見えない部分ほど丁寧に
右側が終わると、鏡の中の澪は、片側だけがすでに“つるり”としていた。
泡が拭き取られた右の側頭部は、
光を柔らかく反射し始めている。
左側はまだ泡に覆われたまま、
そのコントラストが、途中経過であることを否応なく突きつけてくる。
「じゃ、後ろ行くよ」
圭介は椅子を少し回し、
澪の頭を前に傾けさせた。
「顎、軽く引いて」
「こう、ですか?」
「そう。それでいい」
見えない後頭部に刃が触れる。
うなじのあたりから、
す……っ、ジョリ……
今度はやや短いストロークで、何度も刃が往復する。
「後ろって、自分で見えないでしょう」
「はい。いつも、髪がどうなってるのか、人に言われるまで分からなくて」
「だから、見えないところほど、ちゃんと整えてやらないといけない」
圭介は、淡々と語りながら刃を進める。
「仕事でも、人付き合いでも、そういうところあるだろ。自分で気づかない“伸びっぱなし”」
「……ありますね。いっぱい」
怒りたくても怒れなかった場面。
無理だと思いながら引き受けてしまった仕事。
「女だから」という一言で片付けられた悔しさ。
そういうものが、後頭部の見えない髪のように、
自分でも放置してきた気がした。
剃刀がうなじのカーブをなぞる。
首筋の一番敏感なところを通過するとき、
澪は思わず息を止めた。
す……っ、ジョリ……ジョリ……
そのたび、細かな泡と一緒に、
短い毛が刃に集められていく。
圭介は一定のリズムで、何度も角度を変えながら撫で剃る。
「うなじ、すごく綺麗だよ」
「え……」
不意に言われて、頬が熱くなる。
「髪でずっと隠れてたからね。もったいないくらい」
「そんな……」
「坊主やスキンにすると、隠れてたところが全部出てくる。コンプレックスが出ることもあるけど、逆もある。――自分でも知らなかった“綺麗なところ”が、出てくる」
澪は、前に下げられた視線のまま、小さく笑った。
「……それなら、全部出してみたいです」
「もう、ほとんど出てるよ」
圭介の声は、静かだがどこか誇らしげだった。
⸻
5|頭頂部――最後の境界線を越える
後頭部とうなじが終わると、
再び椅子は正面に戻される。
鏡の中には、
後ろと右側がすでに“地肌の光”を取り戻し、
左がまだ泡だらけという、奇妙な途中段階の澪が映っている。
圭介は、残りの左側と頭頂部に視線を移した。
「ここからは、仕上げだ」
「……はい」
刷毛で少し泡を足し、
頭頂部にまんべんなく乗せていく。
そして、剃刀の刃先が
額のすぐ上、ど真ん中 に置かれた。
「動かないでね。ここが、一番目立つところだから」
「……わかりました」
額から頭頂部へ、
す……っ、す……っ
今度は少し長いストローク。
ジョリ……ジョリ……ジョリ……
音が、まっすぐ頭の中に響く。
(これで、本当に全部なくなる)
仕事で取り返しのつかないミスをした日のことが、ふと頭をよぎる。
あの日、部長に言われた冷たい言葉。
「君の代わりなんて、いくらでもいるからね」
その一言が、ずっと頭から離れなかった。
――だったら、私の人生ぐらい、私だけのものにしたい。
剃刀が通るたびに、
泡の下で、過去の言葉が削り取られていくような気がした。
右へ一本。
左へ一本。
今度は斜めに。
圭介は、同じ場所を角度を変えて何度もなぞる。
「剃り残しがあると、触った時に気になるからね」
「……触るの、楽しみです」
思わず漏れた本音に、自分で驚く。
(さっきまで怖がってたのに)
圭介は「うん」とだけ返し、
最後の細かい部分に刃を入れていった。
⸻
6|布で拭われる瞬間、別の輪郭になる
頭頂部と左側の剃りが終わると、
澪の頭は、まだところどころに泡をまとった状態で光っていた。
圭介は、清潔なタオルを取り上げる。
「じゃ、拭いていくね」
「……はい」
タオルが、頭皮にそっと触れる。
ふき、ふき……
額から後ろへ。
右から左へ。
さっきまで白く覆われていた場所から、
一枚の膜が剥がれていくように泡が取れていき、
下から現れた地肌は、驚くほど滑らかだった。
光が一点に当たり、
そこから柔らかな反射が広がる。
「……わぁ……」
思わず声が漏れた。
鏡の中の自分は、もう“坊主頭”ではなかった。
短い毛さえ、ほとんど見えない。
頭のラインが、そのまま形としてくっきり浮かび上がり、
首から肩への流れが、一本の曲線のようにつながっている。
「すっごい……つるつる……」
言いながら、澪は自分の手をゆっくりと持ち上げた。
圭介が「どうぞ」と頷く。
そっと、右側の側頭部に指先を当てる。
すべる。
さっきまでの“ジョリッ”という感触ではなく、
指が少し吸い付くような、しっとりとした滑らかさ。
「……!」
驚きに、目が見開かれる。
そのまま、頭頂部から後ろへなで下ろす。
丸みを帯びた頭蓋のかたちが、
指の腹にそのまま伝わってくる。
「これが……私の、頭の形……」
「そう。はじめまして、って感じだろ?」
圭介の冗談に、澪はふっと笑う。
「……はい。なんか、本当に……はじめまして、ですね」
タオルで残った泡と水分がすっかり拭われると、
ケープに張り付いていた細かな毛も、ある程度払われた。
足元の床には、
さっきまでの髪の束に加えて、
ところどころに白い泡の跡が残っている。
黒と白が交じりあったその光景は、
まるで「昔」と「今」の境界線のようだった。
⸻
7|「これで本当に、終わりですか?」
圭介は剃刀を片づけ、
もう一度指先で澪の頭全体を軽く撫でて、剃り残しがないか確かめる。
「痛いところ、しみるところはない?」
「だいじょうぶです。なんか……頭皮って、もっと弱いと思ってました」
「意外と強いよ、人の頭は。多少のことじゃ傷つかない」
ぽつりと言われたその言葉が、
どこか比喩のようにも聞こえた。
「これで……本当に、終わりですか?」
自分でも、その質問に多分の意味を乗せてしまっているのが分かる。
“髪を切ること”の終わりなのか。
“今までの自分”の終わりなのか。
“誰かのために生きてきた十年”の終わりなのか。
圭介は少し考えるように間を置き、答えた。
「ここまでが、今日の“断髪”の終わり」
「……今日の?」
「でも、“これからの生き方”は、ここが始まり。髪の終わりは、いつも何かの始まりなんだ」
澪は、鏡の中のスキンヘッドの自分をじっと見つめる。
額の広さ。
目の位置。
頬骨のライン。
首筋の細さ。
いままで髪でごまかしていたものが、全部そのまま出ている。
(こんなに、ちゃんと“私”って顔してたんだ)
そう思った瞬間、
今まで押し込めてきたものが急に溢れそうになって、
胸の奥がじんと熱くなった。
「……泣いてもいい?」
気がついたら、口が先に動いていた。
圭介は鏡越しに、柔らかな目をした。
「もちろん。ここは、泣く人、多いから」
その一言で、堰が切れる。
ぽたり、と涙が落ちた。
つるりとした頭皮を伝って、
ケープの上に小さなシミをつくる。
それは、雨粒とも、汗とも違う、
澪だけの“白雨”だった。
⸻
8|スキンヘッドの女として、扉の外へ
ひとしきり泣いて、呼吸が落ち着くと、
圭介は何も言わずに、そっと温かいおしぼりを差し出した。
「目の周り、押さえるように」
「……ありがとうございます」
目元を拭き、深く息を吸う。
ケープが外される。
細かな毛が少し肩に落ちたが、すぐに払われた。
椅子から立ち上がると、
体が今までより一回り軽くなったように感じる。
レジの横に置かれた姿見に、全身が映る。
ジャケット。
膝下丈のタイトスカート。
ビジネス用のパンプス。
そして、その上に載っているのは――
一片の髪もない、つるりとした頭。
「……似合って、ますか?」
振り返らずに問うと、
後ろのほうから圭介の声が返ってきた。
「似合ってるよ。覚悟した人間の顔してる」
澪は、姿見の前で小さく笑った。
「明日、会社行ったら、驚かれますよね」
「そうだろうね」
「彼氏にも、何か言われるだろうな……」
そこまで言って、ふと気づく。
“何か言われるだろうな”という言葉に、
前ほどの恐怖が乗っていないことに。
「でも、いいか」
思わず口からこぼれたその一言に、
自分でも驚いた。
「……もう、誰かの機嫌のために髪を伸ばすの、疲れました」
「いいねぇ」
圭介は、どこか楽しげに言った。
「ここを出た瞬間から、世間の目は急にうるさくなると思う。でも、その分、自分の声もよく聞こえるようになる」
「自分の、声……」
「そう。風が当たるたびに、雨に濡れるたびに、“あ、今こう感じてるんだ”って、自分のことが前よりわかるようになるよ」
澪は、ガラス戸の向こうの、まだ降り続く雨を見た。
つるりとした頭に、あの細かな雨粒がどんなふうに当たるのか。
考えただけで、少し胸が高鳴る。
会計を済ませ、店の前に立つ。
サインポールは相変わらず静かに回り、
赤・白・青のラインが雨に滲んで見える。
圭介がドアを少し押し開ける。
「じゃあ、“白雨”の初日、楽しんで」
「白雨……?」
「さっき、外見ながら、そんな顔してたからね。――髪を洗い流す雨だと思えばいい」
澪は思わず笑った。
「いい名前ですね」
「気に入ったなら、いつでもまた使いな」
「はい。また来ます」
その約束が、“スキンヘッドを続ける”という意味なのか、
“また髪型を変えに来る”という意味なのか、
今の澪にはまだ分からない。
それでも、
もう一度この店に来る自分 を、自然に想像できた。
ドアを一歩出る。
細かな霧雨が、
直接、頭皮に触れた。
ひやりとした感覚。
それなのに、どこかくすぐったくて、心地いい。
「……冷たい。でも、気持ちいい……」
小さく呟いて、澪は傘を開かなかった。
白い雨の中を、
スキンヘッドの女として、
ゆっくりと歩き出した。
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