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第七章:床に散る髪、変わるシルエット
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バリカンの音が静かに止まり、店の中に深い静寂が訪れた。
七海は、まだ振動の余韻が頭皮の奥に残っているのを感じながら、ゆっくりと目を開けた。
鏡の中の自分は、もう以前の“笹原七海”ではなかった。
耳も首も、頭の形も――何もかもが露わになっている。
髪の毛という境界が消えたことで、自分という存在の輪郭が、くっきりと現れていた。
「これで全体が均一になりました」
店主の低い声が響く。
七海は鏡越しにその声を聞きながら、ゆっくりと指先を動かした。
頭に触れると、わずかにざらりとした手触りが伝わる。
先ほどまでの“スポーツ刈り”のざくざくとした質感はなく、
そこにあるのは、ほんの数ミリの毛が残っただけの――ほぼ丸刈りの感触だった。
指先が地肌をなぞるたびに、七海は息を呑む。
つるりとした曲線、耳の根元、うなじの柔らかい皮膚。
そこを風がかすめる。
まるで体の奥にまで風が吹き込んでくるような感覚だった。
そのとき、ふと視界の下で何かが光った。
目を落とすと、ケープの上に黒い粉雪のような髪がびっしりと降り積もっていた。
それは光の加減で艶やかに反射し、まるで墨を溶かしたような深い黒に見える。
店主がケープを軽く叩くと、細かな毛がふわりと空気中に舞い上がった。
ひと房、またひと房。
それらが宙を漂い、七海の視界の中でゆっくりと落ちていく。
時間の流れが、まるでスローモーションのように感じられた。
(……これ、全部、私の髪なんだ)
信じられないほどの量だった。
最初に切ったロングヘアの束も、ショートの断片も、
スポーツ刈りの削げた毛も、そして今落ちていく細かな粉のような髪も――
それらすべてが、七海という人間の「過去」そのものだった。
店主がほうきを持ち、足元の髪を掃き集め始める。
コツ、コツ、と木の床を撫でるような音が響く。
その音がやけに心地よく感じられ、七海はその作業を目で追っていた。
「ずいぶん切りましたね……」
七海の声は、まるで夢の中で話しているようにかすれていた。
店主は軽く笑いながら頷く。
「そうですね。床が黒く見えるくらい、全部です」
七海は思わず、膝の上の髪をそっと指先で摘んだ。
細く、柔らかい。
自分の体の一部だったとは思えないほど、軽い。
でも、その軽さが、今の自分の心と重なっていた。
――ああ、私はもう、あの頃の七海じゃない。
不意に、そんな思いが込み上げてくる。
心の奥で何かが静かにほどけるような感覚。
まるで長い夢から目覚めたあとに、現実へ帰ってくるような清涼感があった。
店主は掃き終えると、ちりとりを持って七海に向かって軽く会釈した。
「これで終わりです。……あ、もしよかったら、見ますか?」
七海は少し迷い、頷いた。
店主が差し出したちりとりの中には、黒い髪が静かに横たわっている。
長い束から短い毛まで、様々な形の断片が入り混じっていた。
それはどこか美しく、哀しい。
「これが、今までのあなたの髪です」
店主がそう言った。
その声には、長年多くの人の“節目”を見てきた者の穏やかさがあった。
七海は少しの間、その髪から目を離せなかった。
長年手入れしてきた髪。
彼に撫でられた髪。
涙を流した夜に、濡れたまま乾かさずに眠ったこともあった髪。
すべてがここにある。
それらを見つめているうちに、涙が込み上げた。
「……すみません、なんか、泣けてきちゃって」
「いいんですよ。髪って、不思議なもんでね。切るとき、人は泣くことが多いです。
でも、それは悲しい涙じゃない。生まれ変わる瞬間の涙です」
店主の言葉を聞いた瞬間、七海の頬を一筋の涙が伝った。
その涙は、床に落ちると、細かな毛に吸い込まれるように消えた。
「……ほんとに、そうですね」
七海は小さく笑った。
心の奥で、確かに何かが変わったのを感じていた。
そのまま椅子の上で深呼吸をする。
頭全体が軽く、空気が直に触れてくる。
今まで髪で守られていた首筋や頭皮が、冷たい十一月の風を受け止めて震えた。
その冷たささえも、心地よい。
まるで、「ようこそ新しい世界へ」と言われているようだった。
店主はタオルを取り、優しく七海の首筋を拭う。
刈りくずのチクチクとした感触が消え、温もりが戻る。
その柔らかな手つきに、七海は少しだけ目を閉じた。
「ありがとうございました。本当に……こんなに短くしてもらって」
「こちらこそ。素敵な決断でしたよ」
七海は鏡の中の自分をもう一度見つめた。
そこには、まっすぐな瞳と、凛とした横顔があった。
彼女はケープを外してもらい、立ち上がる。
床に残るわずかな髪のかけらが、彼女の足元に広がる。
その黒い残骸を見て、七海は静かに微笑んだ。
(これが、私の抜け殻。置いていこう。もう、背負わなくていい)
七海は一歩、また一歩と足を進めた。
その足音が、木の床を軽やかに叩く。
風が扉の隙間から吹き込み、彼女の坊主頭をそっと撫でた。
冷たいはずの風が、なぜか温かく感じられた。
――あの瞬間、彼女は確かに“何かを手放し”、
そして“何かを掴んだ”のだ。
店主はほうきを手に立ち尽くし、その背中を見送っていた。
七海の後ろ姿は、まるで光を反射しているかのように眩しかった。
その頭皮には、まだうっすらとバリカンの刃の跡が残っていたが、
それさえも新しい人生の始まりを象徴する模様のように見えた。
七海は鏡の中で生まれ変わり、
床に散った髪は、過去の自分の“影”となって静かに横たわっていた。
――そして彼女の人生は、この瞬間から、再び動き出していくのだった。
七海は、まだ振動の余韻が頭皮の奥に残っているのを感じながら、ゆっくりと目を開けた。
鏡の中の自分は、もう以前の“笹原七海”ではなかった。
耳も首も、頭の形も――何もかもが露わになっている。
髪の毛という境界が消えたことで、自分という存在の輪郭が、くっきりと現れていた。
「これで全体が均一になりました」
店主の低い声が響く。
七海は鏡越しにその声を聞きながら、ゆっくりと指先を動かした。
頭に触れると、わずかにざらりとした手触りが伝わる。
先ほどまでの“スポーツ刈り”のざくざくとした質感はなく、
そこにあるのは、ほんの数ミリの毛が残っただけの――ほぼ丸刈りの感触だった。
指先が地肌をなぞるたびに、七海は息を呑む。
つるりとした曲線、耳の根元、うなじの柔らかい皮膚。
そこを風がかすめる。
まるで体の奥にまで風が吹き込んでくるような感覚だった。
そのとき、ふと視界の下で何かが光った。
目を落とすと、ケープの上に黒い粉雪のような髪がびっしりと降り積もっていた。
それは光の加減で艶やかに反射し、まるで墨を溶かしたような深い黒に見える。
店主がケープを軽く叩くと、細かな毛がふわりと空気中に舞い上がった。
ひと房、またひと房。
それらが宙を漂い、七海の視界の中でゆっくりと落ちていく。
時間の流れが、まるでスローモーションのように感じられた。
(……これ、全部、私の髪なんだ)
信じられないほどの量だった。
最初に切ったロングヘアの束も、ショートの断片も、
スポーツ刈りの削げた毛も、そして今落ちていく細かな粉のような髪も――
それらすべてが、七海という人間の「過去」そのものだった。
店主がほうきを持ち、足元の髪を掃き集め始める。
コツ、コツ、と木の床を撫でるような音が響く。
その音がやけに心地よく感じられ、七海はその作業を目で追っていた。
「ずいぶん切りましたね……」
七海の声は、まるで夢の中で話しているようにかすれていた。
店主は軽く笑いながら頷く。
「そうですね。床が黒く見えるくらい、全部です」
七海は思わず、膝の上の髪をそっと指先で摘んだ。
細く、柔らかい。
自分の体の一部だったとは思えないほど、軽い。
でも、その軽さが、今の自分の心と重なっていた。
――ああ、私はもう、あの頃の七海じゃない。
不意に、そんな思いが込み上げてくる。
心の奥で何かが静かにほどけるような感覚。
まるで長い夢から目覚めたあとに、現実へ帰ってくるような清涼感があった。
店主は掃き終えると、ちりとりを持って七海に向かって軽く会釈した。
「これで終わりです。……あ、もしよかったら、見ますか?」
七海は少し迷い、頷いた。
店主が差し出したちりとりの中には、黒い髪が静かに横たわっている。
長い束から短い毛まで、様々な形の断片が入り混じっていた。
それはどこか美しく、哀しい。
「これが、今までのあなたの髪です」
店主がそう言った。
その声には、長年多くの人の“節目”を見てきた者の穏やかさがあった。
七海は少しの間、その髪から目を離せなかった。
長年手入れしてきた髪。
彼に撫でられた髪。
涙を流した夜に、濡れたまま乾かさずに眠ったこともあった髪。
すべてがここにある。
それらを見つめているうちに、涙が込み上げた。
「……すみません、なんか、泣けてきちゃって」
「いいんですよ。髪って、不思議なもんでね。切るとき、人は泣くことが多いです。
でも、それは悲しい涙じゃない。生まれ変わる瞬間の涙です」
店主の言葉を聞いた瞬間、七海の頬を一筋の涙が伝った。
その涙は、床に落ちると、細かな毛に吸い込まれるように消えた。
「……ほんとに、そうですね」
七海は小さく笑った。
心の奥で、確かに何かが変わったのを感じていた。
そのまま椅子の上で深呼吸をする。
頭全体が軽く、空気が直に触れてくる。
今まで髪で守られていた首筋や頭皮が、冷たい十一月の風を受け止めて震えた。
その冷たささえも、心地よい。
まるで、「ようこそ新しい世界へ」と言われているようだった。
店主はタオルを取り、優しく七海の首筋を拭う。
刈りくずのチクチクとした感触が消え、温もりが戻る。
その柔らかな手つきに、七海は少しだけ目を閉じた。
「ありがとうございました。本当に……こんなに短くしてもらって」
「こちらこそ。素敵な決断でしたよ」
七海は鏡の中の自分をもう一度見つめた。
そこには、まっすぐな瞳と、凛とした横顔があった。
彼女はケープを外してもらい、立ち上がる。
床に残るわずかな髪のかけらが、彼女の足元に広がる。
その黒い残骸を見て、七海は静かに微笑んだ。
(これが、私の抜け殻。置いていこう。もう、背負わなくていい)
七海は一歩、また一歩と足を進めた。
その足音が、木の床を軽やかに叩く。
風が扉の隙間から吹き込み、彼女の坊主頭をそっと撫でた。
冷たいはずの風が、なぜか温かく感じられた。
――あの瞬間、彼女は確かに“何かを手放し”、
そして“何かを掴んだ”のだ。
店主はほうきを手に立ち尽くし、その背中を見送っていた。
七海の後ろ姿は、まるで光を反射しているかのように眩しかった。
その頭皮には、まだうっすらとバリカンの刃の跡が残っていたが、
それさえも新しい人生の始まりを象徴する模様のように見えた。
七海は鏡の中で生まれ変わり、
床に散った髪は、過去の自分の“影”となって静かに横たわっていた。
――そして彼女の人生は、この瞬間から、再び動き出していくのだった。
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