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第九章:カミソリが描く地肌
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店内の空気が張りつめていた。
鏡の前に座る七海の頭には、すでに石鹸の泡がしっかりと馴染んでいる。
真っ白な泡がまるで薄雪のように、頭皮を包み込んでいた。
その白さの下に、これまでバリカンで刈られた黒髪の影がかすかに透けている。
――今、この泡の下にある最後の髪を剃り落とせば、すべてが終わる。
その事実を、七海は静かに受け止めていた。
店主の手元では、銀色の剃刀(ストレートレザー)が慎重に用意されていた。
刃の面が光を反射し、冷たい輝きを放つ。
長年使い込まれた柄には、微かな艶があり、職人の指の跡が馴染んでいた。
店主は左手でそれを確かめるように撫で、試しに空気を切る。
シュッ。
空気を割く小さな音が、七海の鼓膜を震わせた。
「動かないでくださいね。少し冷たいですが、痛みはありませんから」
「はい……」
七海は軽く頷き、目を閉じた。
店主の指先がそっと頭に触れる。
その瞬間、ひやりとした金属の気配が、泡越しに皮膚を掠めた。
シュル……シュル……
刃が動き出す。
石鹸の泡を滑らせながら、細かく残っていた髪を一枚ずつ削ぎ落としていく。
頭頂から前頭部へ、まるで白いキャンバスの上を筆が走るように。
刃の動きは穏やかで、しかし確実だった。
細い毛が泡に絡まりながら消えていく様子を、七海はぼんやりと感じ取る。
痛みはなかった。
ただ、刃が通るたびに、頭皮の上を“風”が抜けるような感覚があった。
まるで薄い膜を一枚、世界から剥ぎ取っているような――そんな感覚。
泡の下で、剃刀が新しい地肌を描き出していく。
(私の頭……こんなに滑らかなんだ)
七海は、心の中で小さく驚いていた。
これまで髪の下に隠れていた部分が、今は空気に触れている。
暖かさと冷たさが交互に流れ込み、感覚が研ぎ澄まされていく。
店主は呼吸のリズムを崩さず、剃刀を滑らせ続ける。
額から生え際へ、こめかみから耳の上へ――。
刃の進む方向に合わせて、七海の頭皮がわずかに動く。
そのたびに泡が薄く削がれ、白い肌が少しずつ姿を現していった。
鏡に映る光景は、不思議な美しさを帯びていた。
石鹸の泡の白、剃刀の銀、肌の淡い光沢――。
その三つの色が静かに混ざり合い、まるで儀式のようだった。
店主が刃を洗い、泡を拭い取る。
再びクリームを塗り、今度は後頭部へ。
七海は首を少し前に倒す。
視界が暗くなり、代わりに聴覚と触覚が鋭くなる。
シュル、シュル……
刃が後頭部を通過するたび、微かな摩擦音が響く。
皮膚の上を刃がすべる感触は、鋭いのに優しい。
刃の背が触れるたびに、頭皮が小さく震える。
それは決して恐怖ではなく、むしろ陶酔に近い感覚だった。
(音が……静かすぎる)
七海は耳を澄ませた。
店内には、時計の針の音と、店主の息づかい、そして剃刀が泡を切る音しかない。
その音が心臓の鼓動と重なって、まるで音楽のようだった。
刃が後頭部からうなじを通り過ぎるとき、
冷たい空気がそこに滑り込んできた。
七海は思わず背筋を震わせる。
自分の肌が、初めて世界と触れ合った瞬間だった。
店主が一度剃刀を置き、タオルを軽く押し当てた。
温かい布の感触が、冷たくなった頭皮を包み込む。
その瞬間、七海は思わず息を吐いた。
まるで、生まれ変わった赤子が最初に呼吸をするように。
「もう少しで終わりますよ。あと側頭と後ろを整えれば」
「はい……」
七海は静かに頷いた。
その声は、どこか遠くから聞こえるようだった。
頭の中は空っぽで、何も考えられなかった。
ただ、今この瞬間、自分が確かに“存在している”という実感だけがあった。
店主は刃を横に滑らせ、耳の後ろを慎重に剃る。
細かな泡が剃刀の軌跡に沿って消え、つるりとした地肌が現れる。
その白い面は光を受け、ほのかに輝いていた。
「もう少し上を……はい、そうそう」
店主の穏やかな声が響くたびに、七海の呼吸もゆっくりになる。
刃の動きが止まり、最後の泡がタオルで拭われた。
静寂。
店主は剃刀を片付け、七海の頭に温かいタオルを優しく当てた。
その温もりが、頭皮の奥にまで染み込む。
やがてタオルを外した瞬間、ひやりとした空気が頭全体を包み込んだ。
七海は思わず、両手で自分の頭を触れた。
――ツルツル。
指先が滑る。
抵抗がない。
まるで陶器のような滑らかさ。
バリカンで刈り上げたときの“ざらざら”とはまるで違う。
今の彼女の頭皮は、完全に裸だった。
七海は鏡を見つめた。
そこには、光を反射する自分の頭――
いや、“スキンヘッドの女性”が映っていた。
けれど、不思議とそれは奇異には見えなかった。
むしろ、静謐で美しかった。
照明の光が反射し、頭頂に柔らかな輝きを生む。
頬のラインがすっきりと見え、瞳がより強く輝いている。
まるで、何かをすべて手放した人間のように。
七海は微笑んだ。
「……すごい。本当に全部なくなっちゃった」
「ええ。世界でいちばん潔い髪型ですよ」
店主が笑った。
七海は指先で頭を撫で、もう一度鏡を見つめた。
頭の形も、額の高さも、今までは気にもしなかった部分が、
どれも自分らしいものとして受け入れられる気がした。
(これが私。髪がなくても、私なんだ)
そう思うと、胸の奥から静かな幸福感が込み上げてきた。
涙が浮かびそうになるが、もう泣かない。
あの失恋の夜、電話口で崩れ落ちた自分は、
今、鏡の中のこの姿に変わったのだ。
店主が柔らかい笑みを浮かべて言った。
「お疲れさまでした。――本当に、よく頑張りましたね」
その言葉を聞いた瞬間、七海は小さく微笑み、深くお辞儀をした。
「ありがとうございます。……なんだか、心まで剃られたみたいです」
店主は頷いた。
「髪を剃るっていうのは、ただの美容行為じゃないんですよ。
人の想いを整える仕事でもあるんです」
その言葉に、七海は胸の奥が温かくなるのを感じた。
鏡の中、ライトの光が彼女の頭皮に反射して輝いていた。
それはまるで、七海の新しい人生が“光”として生まれ落ちた瞬間のようだった。
――彼女はこの日、完全に生まれ変わった。
髪を失ったのではなく、“自分”を取り戻したのだ。
鏡の前に座る七海の頭には、すでに石鹸の泡がしっかりと馴染んでいる。
真っ白な泡がまるで薄雪のように、頭皮を包み込んでいた。
その白さの下に、これまでバリカンで刈られた黒髪の影がかすかに透けている。
――今、この泡の下にある最後の髪を剃り落とせば、すべてが終わる。
その事実を、七海は静かに受け止めていた。
店主の手元では、銀色の剃刀(ストレートレザー)が慎重に用意されていた。
刃の面が光を反射し、冷たい輝きを放つ。
長年使い込まれた柄には、微かな艶があり、職人の指の跡が馴染んでいた。
店主は左手でそれを確かめるように撫で、試しに空気を切る。
シュッ。
空気を割く小さな音が、七海の鼓膜を震わせた。
「動かないでくださいね。少し冷たいですが、痛みはありませんから」
「はい……」
七海は軽く頷き、目を閉じた。
店主の指先がそっと頭に触れる。
その瞬間、ひやりとした金属の気配が、泡越しに皮膚を掠めた。
シュル……シュル……
刃が動き出す。
石鹸の泡を滑らせながら、細かく残っていた髪を一枚ずつ削ぎ落としていく。
頭頂から前頭部へ、まるで白いキャンバスの上を筆が走るように。
刃の動きは穏やかで、しかし確実だった。
細い毛が泡に絡まりながら消えていく様子を、七海はぼんやりと感じ取る。
痛みはなかった。
ただ、刃が通るたびに、頭皮の上を“風”が抜けるような感覚があった。
まるで薄い膜を一枚、世界から剥ぎ取っているような――そんな感覚。
泡の下で、剃刀が新しい地肌を描き出していく。
(私の頭……こんなに滑らかなんだ)
七海は、心の中で小さく驚いていた。
これまで髪の下に隠れていた部分が、今は空気に触れている。
暖かさと冷たさが交互に流れ込み、感覚が研ぎ澄まされていく。
店主は呼吸のリズムを崩さず、剃刀を滑らせ続ける。
額から生え際へ、こめかみから耳の上へ――。
刃の進む方向に合わせて、七海の頭皮がわずかに動く。
そのたびに泡が薄く削がれ、白い肌が少しずつ姿を現していった。
鏡に映る光景は、不思議な美しさを帯びていた。
石鹸の泡の白、剃刀の銀、肌の淡い光沢――。
その三つの色が静かに混ざり合い、まるで儀式のようだった。
店主が刃を洗い、泡を拭い取る。
再びクリームを塗り、今度は後頭部へ。
七海は首を少し前に倒す。
視界が暗くなり、代わりに聴覚と触覚が鋭くなる。
シュル、シュル……
刃が後頭部を通過するたび、微かな摩擦音が響く。
皮膚の上を刃がすべる感触は、鋭いのに優しい。
刃の背が触れるたびに、頭皮が小さく震える。
それは決して恐怖ではなく、むしろ陶酔に近い感覚だった。
(音が……静かすぎる)
七海は耳を澄ませた。
店内には、時計の針の音と、店主の息づかい、そして剃刀が泡を切る音しかない。
その音が心臓の鼓動と重なって、まるで音楽のようだった。
刃が後頭部からうなじを通り過ぎるとき、
冷たい空気がそこに滑り込んできた。
七海は思わず背筋を震わせる。
自分の肌が、初めて世界と触れ合った瞬間だった。
店主が一度剃刀を置き、タオルを軽く押し当てた。
温かい布の感触が、冷たくなった頭皮を包み込む。
その瞬間、七海は思わず息を吐いた。
まるで、生まれ変わった赤子が最初に呼吸をするように。
「もう少しで終わりますよ。あと側頭と後ろを整えれば」
「はい……」
七海は静かに頷いた。
その声は、どこか遠くから聞こえるようだった。
頭の中は空っぽで、何も考えられなかった。
ただ、今この瞬間、自分が確かに“存在している”という実感だけがあった。
店主は刃を横に滑らせ、耳の後ろを慎重に剃る。
細かな泡が剃刀の軌跡に沿って消え、つるりとした地肌が現れる。
その白い面は光を受け、ほのかに輝いていた。
「もう少し上を……はい、そうそう」
店主の穏やかな声が響くたびに、七海の呼吸もゆっくりになる。
刃の動きが止まり、最後の泡がタオルで拭われた。
静寂。
店主は剃刀を片付け、七海の頭に温かいタオルを優しく当てた。
その温もりが、頭皮の奥にまで染み込む。
やがてタオルを外した瞬間、ひやりとした空気が頭全体を包み込んだ。
七海は思わず、両手で自分の頭を触れた。
――ツルツル。
指先が滑る。
抵抗がない。
まるで陶器のような滑らかさ。
バリカンで刈り上げたときの“ざらざら”とはまるで違う。
今の彼女の頭皮は、完全に裸だった。
七海は鏡を見つめた。
そこには、光を反射する自分の頭――
いや、“スキンヘッドの女性”が映っていた。
けれど、不思議とそれは奇異には見えなかった。
むしろ、静謐で美しかった。
照明の光が反射し、頭頂に柔らかな輝きを生む。
頬のラインがすっきりと見え、瞳がより強く輝いている。
まるで、何かをすべて手放した人間のように。
七海は微笑んだ。
「……すごい。本当に全部なくなっちゃった」
「ええ。世界でいちばん潔い髪型ですよ」
店主が笑った。
七海は指先で頭を撫で、もう一度鏡を見つめた。
頭の形も、額の高さも、今までは気にもしなかった部分が、
どれも自分らしいものとして受け入れられる気がした。
(これが私。髪がなくても、私なんだ)
そう思うと、胸の奥から静かな幸福感が込み上げてきた。
涙が浮かびそうになるが、もう泣かない。
あの失恋の夜、電話口で崩れ落ちた自分は、
今、鏡の中のこの姿に変わったのだ。
店主が柔らかい笑みを浮かべて言った。
「お疲れさまでした。――本当に、よく頑張りましたね」
その言葉を聞いた瞬間、七海は小さく微笑み、深くお辞儀をした。
「ありがとうございます。……なんだか、心まで剃られたみたいです」
店主は頷いた。
「髪を剃るっていうのは、ただの美容行為じゃないんですよ。
人の想いを整える仕事でもあるんです」
その言葉に、七海は胸の奥が温かくなるのを感じた。
鏡の中、ライトの光が彼女の頭皮に反射して輝いていた。
それはまるで、七海の新しい人生が“光”として生まれ落ちた瞬間のようだった。
――彼女はこの日、完全に生まれ変わった。
髪を失ったのではなく、“自分”を取り戻したのだ。
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