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第十章:鏡に映るまったく別の自分
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温かいタオルが頭から外されると、冷たい空気が一気に七海の頭皮を包み込んだ。
十一月の風は乾いていて、ほんのわずかに冷たさが刺す。
けれどそれは不快ではなく、むしろ「新しい自分」に最初に触れる風として、清らかに感じられた。
店内の鏡に映るその姿――それが、まさしく彼女の新しい人生の始まりの象徴だった。
鏡の中の七海は、もう「髪を失った女性」ではなかった。
そこにいたのは、何かを悟ったような静かな強さをまとった一人の人間。
髪の一筋も残っていない、完全なスキンヘッド。
それなのに、不思議なほど女性的で、美しい。
まるで余計な飾りをすべて取り払った彫刻のように、彼女の輪郭は純粋な“形”として際立っていた。
照明が頭皮の表面で反射して柔らかく光る。
その光は、店の空気まで澄み渡らせるようだった。
七海は自分の頭をそっと撫でる。
指先がつるりと滑り、ほんのりとした温もりを伝える。
バリカンで刈ったときのざらつきとは全く違う。
皮膚の表面に触れるたび、まるで新しい命を確かめているような感覚があった。
(本当に……髪がない)
(でも、不思議。全然怖くない)
七海は鏡の前で笑った。
その笑みは、ほんの少し涙を含んでいた。
失恋の夜、彼に「好きな人ができた」と言われて心が崩れたあの時――
自分がこんな形で立ち上がることになるなんて、夢にも思わなかった。
「できました」
店主の声が静かに響く。
七海は鏡に映る自分を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます……」
店主は柔らかい笑みを浮かべながら、刃物を布で丁寧に拭いている。
その動きはどこか神聖な儀式のようで、七海は無言のままその手元を見つめていた。
剃刀に付いた泡の白が、真っ白なタオルで拭われていくたび、
自分の心もまた“何か”を削ぎ落とされていくような気がした。
「女性でここまでされる方は本当に珍しいですよ」
店主はそう言いながら、鏡越しに七海の頭を見つめた。
「ですが……似合ってます。潔くて、美しい」
「……そう、ですか?」
「ええ。誰でもできることじゃありません。
髪というのは、単なる外見じゃない。自分の象徴のようなものですから」
七海は軽く笑い、そして息を吸い込んだ。
「……切りたかったんです。全部、消してしまいたくて」
「失恋、ですか?」
七海は少し驚き、そして照れたように頷いた。
「そうです。三年付き合ってた人に、突然“好きな人ができた”って言われて。
もう何も信じられなくなって、気づいたらこのお店に入ってました」
店主は手を止め、しばし彼女を見つめた。
「なるほどね……でも、それでここまでできたのはすごいことです」
「すごいですか?」
「ええ。多くの人は、“変わりたい”と思っても、何もできないままなんですよ。
髪を切るって、思ってる以上に勇気がいることなんです。
それもここまで潔くとなると、もう“再生”ですね」
七海は静かに笑った。
その笑顔には、涙の代わりに強さが宿っていた。
「再生……か。そうですね。
髪がなくなったら、私の過去も一緒に消えた気がします」
「髪にはね、気持ちが溜まるんですよ。
嬉しいときも悲しいときも、その人の生活の全部が髪に積み重なっていく。
だから断ち切るときは、みんな少し泣くんです」
店主のその言葉に、七海は胸の奥がじんわりと温かくなった。
――髪は記憶。
だからこそ、それを落とすということは、過去を解放するということ。
鏡の中の自分を見つめながら、七海は指先でゆっくり頭を撫でた。
つるつるとした肌の感触。
風が通り抜けるたびに、地肌が空気の温度を直接感じ取る。
その感覚が、まるで世界とひとつに溶け合うようで、
七海はふっと笑みを漏らした。
「なんだか、風を“感じる”ようになりました」
「そうでしょう。髪を失うと、世界が近くなるんですよ。
音も、匂いも、空気も、全部が直接届く。
人間って、実は髪で世界との境界を作ってるんです」
その言葉に、七海は心から納得した。
今までは、何かを隠すように髪で顔を覆っていた。
けれど今、何もない。
隠すものも、守るものも、もうない。
――その代わりに、ようやく本当の自分が見えた気がした。
店主が小さな鏡を持ち、七海の後頭部を映して見せた。
七海は思わず息をのむ。
そこには、光を反射してわずかに輝く白い地肌。
滑らかで、均一で、丸みのある頭の形。
その美しさは、思いがけないほど均整が取れていた。
「……頭の形、きれいですね」
「え?」
「なかなかいないですよ、こんなに整った形の方は。
スキンヘッドにして、形が整って見えるのは、頭の骨格が美しい証拠です」
七海は少し照れて笑った。
「そんなこと言われたの、初めてです」
「でしょうね。普段は髪が隠してますから」
二人はしばし笑い合った。
けれど七海の胸の中には、じんわりとした感動が広がっていた。
失恋で崩れ落ちた夜、
もう二度と自分を好きになれないと思っていた。
でも、いま鏡の中に映る自分は、
あの夜の涙を知っているのに、確かに“美しい”と感じられた。
(髪を失っても、私は私。
むしろ、今のほうがずっと“私らしい”)
七海はゆっくりと立ち上がり、深くお辞儀をした。
「……本当にありがとうございました」
「こちらこそ。よくぞここまで切らせてくださいました」
店主の目には、ほんの少しだけ感動の光が宿っていた。
何十年もハサミを握ってきた職人として、
“覚悟を持って髪を剃る”という瞬間を共有することは、
特別な意味を持つのだろう。
七海はケープを外され、
髪の代わりに、頭の上を軽く撫でる風を感じた。
それは、まるで祝福のようだった。
鏡の中の自分をもう一度見つめて、彼女は静かに微笑んだ。
もう過去を怖がらなくていい。
髪を失っても、心の中には確かに“美しさ”が残っている。
――そう思えたとき、七海の頬をひとすじの涙が伝った。
それは悲しみの涙ではなく、
**「自分を取り戻した」**という歓びの涙だった。
そして、鏡の前で彼女は小さく呟いた。
「さよなら、昨日の私。――ようこそ、新しい私」
その声は、静かな店内に溶け、
窓から差し込む午後の光が、
七海の輝くスキンヘッドをやわらかく照らし出していた。
十一月の風は乾いていて、ほんのわずかに冷たさが刺す。
けれどそれは不快ではなく、むしろ「新しい自分」に最初に触れる風として、清らかに感じられた。
店内の鏡に映るその姿――それが、まさしく彼女の新しい人生の始まりの象徴だった。
鏡の中の七海は、もう「髪を失った女性」ではなかった。
そこにいたのは、何かを悟ったような静かな強さをまとった一人の人間。
髪の一筋も残っていない、完全なスキンヘッド。
それなのに、不思議なほど女性的で、美しい。
まるで余計な飾りをすべて取り払った彫刻のように、彼女の輪郭は純粋な“形”として際立っていた。
照明が頭皮の表面で反射して柔らかく光る。
その光は、店の空気まで澄み渡らせるようだった。
七海は自分の頭をそっと撫でる。
指先がつるりと滑り、ほんのりとした温もりを伝える。
バリカンで刈ったときのざらつきとは全く違う。
皮膚の表面に触れるたび、まるで新しい命を確かめているような感覚があった。
(本当に……髪がない)
(でも、不思議。全然怖くない)
七海は鏡の前で笑った。
その笑みは、ほんの少し涙を含んでいた。
失恋の夜、彼に「好きな人ができた」と言われて心が崩れたあの時――
自分がこんな形で立ち上がることになるなんて、夢にも思わなかった。
「できました」
店主の声が静かに響く。
七海は鏡に映る自分を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます……」
店主は柔らかい笑みを浮かべながら、刃物を布で丁寧に拭いている。
その動きはどこか神聖な儀式のようで、七海は無言のままその手元を見つめていた。
剃刀に付いた泡の白が、真っ白なタオルで拭われていくたび、
自分の心もまた“何か”を削ぎ落とされていくような気がした。
「女性でここまでされる方は本当に珍しいですよ」
店主はそう言いながら、鏡越しに七海の頭を見つめた。
「ですが……似合ってます。潔くて、美しい」
「……そう、ですか?」
「ええ。誰でもできることじゃありません。
髪というのは、単なる外見じゃない。自分の象徴のようなものですから」
七海は軽く笑い、そして息を吸い込んだ。
「……切りたかったんです。全部、消してしまいたくて」
「失恋、ですか?」
七海は少し驚き、そして照れたように頷いた。
「そうです。三年付き合ってた人に、突然“好きな人ができた”って言われて。
もう何も信じられなくなって、気づいたらこのお店に入ってました」
店主は手を止め、しばし彼女を見つめた。
「なるほどね……でも、それでここまでできたのはすごいことです」
「すごいですか?」
「ええ。多くの人は、“変わりたい”と思っても、何もできないままなんですよ。
髪を切るって、思ってる以上に勇気がいることなんです。
それもここまで潔くとなると、もう“再生”ですね」
七海は静かに笑った。
その笑顔には、涙の代わりに強さが宿っていた。
「再生……か。そうですね。
髪がなくなったら、私の過去も一緒に消えた気がします」
「髪にはね、気持ちが溜まるんですよ。
嬉しいときも悲しいときも、その人の生活の全部が髪に積み重なっていく。
だから断ち切るときは、みんな少し泣くんです」
店主のその言葉に、七海は胸の奥がじんわりと温かくなった。
――髪は記憶。
だからこそ、それを落とすということは、過去を解放するということ。
鏡の中の自分を見つめながら、七海は指先でゆっくり頭を撫でた。
つるつるとした肌の感触。
風が通り抜けるたびに、地肌が空気の温度を直接感じ取る。
その感覚が、まるで世界とひとつに溶け合うようで、
七海はふっと笑みを漏らした。
「なんだか、風を“感じる”ようになりました」
「そうでしょう。髪を失うと、世界が近くなるんですよ。
音も、匂いも、空気も、全部が直接届く。
人間って、実は髪で世界との境界を作ってるんです」
その言葉に、七海は心から納得した。
今までは、何かを隠すように髪で顔を覆っていた。
けれど今、何もない。
隠すものも、守るものも、もうない。
――その代わりに、ようやく本当の自分が見えた気がした。
店主が小さな鏡を持ち、七海の後頭部を映して見せた。
七海は思わず息をのむ。
そこには、光を反射してわずかに輝く白い地肌。
滑らかで、均一で、丸みのある頭の形。
その美しさは、思いがけないほど均整が取れていた。
「……頭の形、きれいですね」
「え?」
「なかなかいないですよ、こんなに整った形の方は。
スキンヘッドにして、形が整って見えるのは、頭の骨格が美しい証拠です」
七海は少し照れて笑った。
「そんなこと言われたの、初めてです」
「でしょうね。普段は髪が隠してますから」
二人はしばし笑い合った。
けれど七海の胸の中には、じんわりとした感動が広がっていた。
失恋で崩れ落ちた夜、
もう二度と自分を好きになれないと思っていた。
でも、いま鏡の中に映る自分は、
あの夜の涙を知っているのに、確かに“美しい”と感じられた。
(髪を失っても、私は私。
むしろ、今のほうがずっと“私らしい”)
七海はゆっくりと立ち上がり、深くお辞儀をした。
「……本当にありがとうございました」
「こちらこそ。よくぞここまで切らせてくださいました」
店主の目には、ほんの少しだけ感動の光が宿っていた。
何十年もハサミを握ってきた職人として、
“覚悟を持って髪を剃る”という瞬間を共有することは、
特別な意味を持つのだろう。
七海はケープを外され、
髪の代わりに、頭の上を軽く撫でる風を感じた。
それは、まるで祝福のようだった。
鏡の中の自分をもう一度見つめて、彼女は静かに微笑んだ。
もう過去を怖がらなくていい。
髪を失っても、心の中には確かに“美しさ”が残っている。
――そう思えたとき、七海の頬をひとすじの涙が伝った。
それは悲しみの涙ではなく、
**「自分を取り戻した」**という歓びの涙だった。
そして、鏡の前で彼女は小さく呟いた。
「さよなら、昨日の私。――ようこそ、新しい私」
その声は、静かな店内に溶け、
窓から差し込む午後の光が、
七海の輝くスキンヘッドをやわらかく照らし出していた。
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