風の記憶 ― 髪を断ち、心を生き直す

S.H.L

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第十二章:会話、そして時代背景

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 「ヘアーサロン風」のドアベルが再び小さく鳴ったのは、日が完全に沈み、街灯が灯り始めた頃だった。
 加藤は手に持っていたタオルを畳み、窓の外をぼんやりと眺める。
 通りの向こうでは、コンビニの白い看板が光り、制服姿の高校生が笑い声を上げながら自転車で通り過ぎていく。
 小さな商店街はすでに半分ほどがシャッターを下ろしており、この通りの夜は昔ほど賑やかではない。
 だが、この場所でハサミを握り続けて四十年近く、加藤はそんな変化を何度も見てきた。

 ――それでも、人は髪を切る。
 季節が変わるたび、失恋するたび、人生の節目に立つたびに。
 今日もまた、一人の女性が新しい人生を迎えたのだ。

 鏡の前には、まだ七海が座っていたときの温もりが残っているようだった。
 加藤は、ついさっきまでそこにあった大量の黒髪を思い出す。
 床を掃きながら、心の中で呟いた。

(あんなにきれいな髪だったのにな……でも、彼女には必要な変化だったんだろう)

 彼は、ホウキの先で小さな髪の束を集めてちりとりに入れる。
 まだ柔らかい毛先の感触が、年月を経ても変わらない。
 髪というのは、どれだけ時代が変わっても、人の心の一部なのだ。

 古いレジスターの音が「チーン」と鳴る。
 閉店準備を進めながら、加藤はふと天井を見上げた。
 薄い蛍光灯の光が揺れて、店の中を淡く照らしている。
 昭和の終わり頃に取り替えた照明器具も、まだ現役だった。

 彼は独り言のように呟いた。
 「この街も変わったなあ……」

 昭和から平成、そして令和。
 加藤がこの店を構えたのは、まだ駅前に小さなバスロータリーができたばかりの頃だった。
 当時は近所の子どもたちが「加藤のおっちゃん、今日坊主お願い!」と笑いながら駆け込んできた。
 夏になるとみんなスポーツ刈り。
 中学の野球部、高校の柔道部、社会人の営業マン――。
 みんな同じ椅子に座り、同じ鏡を見て、それぞれの決意を胸に髪を切っていった。

 「坊主」という言葉には、昔から特別な響きがある。
 戦中・戦後には衛生のために、学生時代には規律の象徴として。
 だが今では、誰も強制されることはなくなった。
 女性がスキンヘッドにするなど、加藤が若い頃には想像もできなかったことだ。

 (時代は変わった。けど、人の心は案外、同じなんだよな)

 加藤は鏡を磨きながら、七海の姿を思い出していた。
 最初に店へ入ってきたとき、彼女はまるで迷子のような目をしていた。
 心に傷を抱え、でもそれをどう処理していいか分からない――
 そんな若者を何人も見てきた。
 けれど彼女ほど「切りたい」と強く言った女性は、そう多くない。

 加藤は、かすかに笑った。
 「最近の若い子は、行動力があるな……」

 ――そういえば、思い出す女性がいる。
 二十年ほど前、夫を亡くした中年の常連が、ある日突然「髪を全部短くしてください」と言ってきた。
 当時の彼女もまた、悲しみから立ち上がるために髪を切った。
 髪を切ることで、自分を再構築する。
 それは人間が古来から持つ“再生”の儀式なのかもしれない。

 店の奥、ガラス棚には古いモノクロ写真が飾られている。
 開店当時の加藤と、父親の姿。
 二人とも真っ白な理容服に身を包み、若い笑顔でカメラを見つめていた。
 父もまた、戦後の混乱期に髪を切りながら、人々の心を整えてきた理容師だった。

 「髪を切るってのは、人の“区切り”を預かる仕事なんだ」
 父がよく言っていた言葉を、加藤は今でも覚えている。

 人は、何かを終えるたびに髪を切り、
 何かを始めるときもまた髪を切る。
 それは祝福であり、弔いでもある。
 髪は伸びる。けれど、心はその瞬間ごとに生まれ変わる。



 そのとき、ドアの外から「こんばんは」という声がした。
 見覚えのあるシルエット――七海だった。
 フードを深くかぶり、手には紙袋を持っている。

 加藤は驚きながらも笑顔で迎え入れた。
 「おや、戻ってきたんですか。もう寒いのに」
 七海は少し照れくさそうに笑った。
 「すみません、なんだかお礼が言いたくて……」

 彼女が差し出したのは、小さな焼き菓子の包みだった。
 「これ、さっき近くの喫茶店で買ってきたんです。
  あの日、私……すごく救われたから」

 加藤は手を受け取り、温かい笑みを浮かべた。
 「そんな、わざわざ。嬉しいですよ」
 「今日、駅前で少し風に当たってたんです。
  あのときの感覚、まだ覚えてて……
  寒いけど、風が気持ちいいんです。
  髪がないって、案外悪くないですね」

 二人の間に、自然と笑いがこぼれた。
 七海の表情は、初めて来た日のような影はもうなかった。
 代わりに、しっかりと地に足をつけた穏やかさがあった。

 「どうです? もう伸び始めました?」
 「はい、少しだけ。でも……また剃ろうかなって思ってるんです」
 「おやおや、すっかり気に入りましたね」
 「なんだか、自由なんです。
  髪がないだけで、朝の支度も早いし、
  人の目を気にしなくなった自分がいる。
  それに……この街の風、前より優しく感じます」

 加藤は静かに頷きながら、カウンター越しに彼女を見た。
 七海の瞳は澄んで、確かな自信が宿っていた。
 彼女はもう、「失恋した女性」ではない。
 “髪を切った女性”でもなく、
 自分で「変わる」ことを選んだ一人の人間だった。



 その後、七海は席に座り、コーヒーを飲みながら加藤と話し込んだ。
 話題は自然と、時代のこと、仕事のこと、そして人の生き方のことへと広がっていく。

 「昔はね、女性が床屋に来るなんて考えられなかったんですよ」
 「そうなんですか?」
 「ええ。昭和の頃は“床屋は男の場所、美容室は女の場所”って、はっきり分かれてた。
  でも今はもう、そういう境界が薄れてきた。
  いい時代ですよ」

 七海は頷いた。
 「私も、最初は緊張しました。
  でも、“床屋の匂い”って落ち着きますね。
  なんだか、誰かに守られてるような気がする」

 加藤は笑った。
 「それは、たぶん“人の手で整えてもらう安心”ですよ。
  この仕事の根っこは、時代が変わっても同じなんです。
  髪を整えることで、心を整える。
  それが理容師の役目ですよ」

 七海は、コーヒーの湯気越しに微笑んだ。
 「……その言葉、すごく好きです」



 外では、街灯が一つ、また一つと灯っていく。
 商店街の通りを、冷たい夜風が通り抜け、サインポールの赤と青の光がくるくると回っていた。

 時代は確かに変わっていく。
 けれど、この小さな床屋の中には、変わらないものが確かにある。
 人が髪を切るときの緊張と、鏡を見たときの微笑み。
 そして、髪が床に落ちるたびに訪れる“新しい始まり”の音。

 七海は、立ち上がり一礼した。
 「加藤さん、本当にありがとうございました。
  また、ここに戻ってきます」

 加藤は、穏やかに手を振った。
 「いつでもどうぞ。髪が伸びても伸びなくても、ね」

 七海は笑って店を出る。
 外の風が、また彼女のスキンヘッドを撫でた。
 その感触に、七海は静かに目を閉じる。

(あの日と同じ風。でも、もう違う。
 あの頃の私は、泣きながらここに来た。
 今の私は、笑って帰れる)

 風の中、七海は小さく息を吐いた。
 頭に触れた指先が、ひんやりとして心地よい。
 通りの向こうには、新しくできたカフェや若者向けの古着屋。
 時代は変わっても、人はやっぱり「変わりたい」と願う。
 その願いを叶える場所が、この小さな床屋なのだ。

 サインポールの灯が回り続ける。
 赤と青の線が夜の闇に溶け込み、七海の後ろ姿を柔らかく照らしていた。



――時代がどれだけ進んでも、人は髪を切る。
髪を切るということは、心を整えること。
そして、人生をもう一度、始めること。

七海の髪は失われた。
けれど、彼女の中に生まれたものは、確かに輝いていた。
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