風の記憶 ― 髪を断ち、心を生き直す

S.H.L

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第十三章:店を出る覚

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 夜の帳が降り始め、商店街のアスファルトに街灯の光が伸びていた。
 「ヘアーサロン風」のガラス越しに見える七海の姿は、どこか神々しいほどに静かだった。
 椅子から立ち上がった彼女は、まるで重い鎧を脱ぎ捨てたように軽やかに息を吐いた。

 加藤は、最後にケープを外し、肩に付いた細かい髪の粉を丁寧に払い落とす。
 その動作一つ一つに、理容師としての長年の所作が染みついていた。
 七海は鏡を見つめながら、ゆっくりと微笑む。
 鏡の中の自分は――確かに、“新しい自分”だった。

 スキンヘッドになった頭は、店の照明をやわらかく反射している。
 それは奇抜でも異質でもなく、むしろ清らかで、品があった。
 眉のラインがはっきりと映え、頬の陰影が柔らかくなる。
 彼女の表情からは、もう不安も迷いも消えていた。

 「これで……終わりですね」
 七海が静かに言うと、加藤は頷いた。
 「ええ。……でも、終わりというより“始まり”でしょうね」

 七海はその言葉を聞いて、ふっと目を細めた。
 “始まり”――まさにその言葉が、今の自分にぴったりだと思えた。



 支払いを済ませるため、七海はバッグから財布を取り出した。
 その手つきは穏やかで、どこか儀式的でもあった。
 この数時間で彼女は、まるで一枚の皮を脱いだように変わったのだ。
 差し出した紙幣を受け取りながら、加藤は微笑んだ。

 「お釣りはいりません。――今日は、あなたの決意に乾杯ですよ」
 「そんな……でも、ありがとうございます」

 七海は深く頭を下げた。
 頭の地肌が照明を受けてきらりと光る。
 その光は、彼女の覚悟そのもののようだった。



 店のドアを開けると、夜の風が一気に流れ込んできた。
 外は思っていたよりも冷たい。
 けれど七海の心は不思議と温かかった。

 街灯の明かりがスキンヘッドの頭をやわらかく照らす。
 光の角度によって、地肌がわずかに銀色に見える。
 自分の頭が、こんなふうに“光る”とは想像もしなかった。
 手で軽く触れると、ひやりとした感触。
 だが、それは決して冷たくはない――むしろ生まれ変わった証のようだった。

 加藤はカウンター越しに七海の背を見送る。
 「気をつけて。風邪ひかないようにね」
 「はい。でも、大丈夫です。……風が、気持ちいいですから」

 その言葉に、加藤は思わず笑った。
 七海の口調にはもう、あの日のような震えはなかった。
 代わりに、確かな芯の通った声があった。



 扉を閉めると、外の世界はまるで別の空気を纏っていた。
 店内の温もりから一転して、冷たい夜風が頭皮を直接撫でる。
 その感触は、まるで“これから歩む人生”の予感のように新鮮だった。

 七海は足を止め、深呼吸をした。
 夜空には星がちらほらと瞬き、遠くから電車の走行音が聞こえる。
 日常の音――だが、今の七海にとっては、それがまるで祝福のメロディーに聞こえた。

 視界の端に、理容店のサインポールが回っている。
 赤、白、青の光がくるくると渦を巻き、夜気の中にぼんやりと滲む。
 七海は思わず立ち止まり、振り返った。

 ――この店で、私は変わった。
 髪を切っただけじゃない。
 失恋で壊れた自分を、もう一度形に戻してくれた。

 彼女は深く一礼し、静かに呟いた。
 「ありがとうございました」

 誰もいない通りに、その声が溶けて消える。
 サインポールの光が、七海の頬に当たって淡く反射した。
 まるで“もう大丈夫”と語りかけるようだった。



 歩き出す。
 ブーツのヒールがコツコツと音を立て、夜道に響く。
 街を歩く人々がちらりと七海を見た。
 スキンヘッドの女性はやはり目を引く。
 だが、七海はもう怯えなかった。
 見られることを怖がるより、“自分を見せている”という誇りがあった。

(私は、もう隠さない)

 髪を失ったことで、七海はようやく自分の顔と向き合えた。
 そして、心の中の痛みや孤独とも。
 どんな視線も、今の彼女を揺るがすことはできない。

 ビルのショーウィンドウに映る自分の姿を、七海はそっと見た。
 丸く光る頭、整った輪郭、真っ直ぐな瞳。
 見慣れないはずの姿が、なぜか“似合っている”と思えた。
 それどころか、以前よりも凛として美しい。

 七海は思わず笑った。
 「……悪くない」

 その言葉が夜風に流れた。
 長い髪をなびかせて歩いていた頃の自分が、遠い過去のように感じる。
 髪を失って初めて、自由になった。
 失恋で失ったものより、今得ているものの方がずっと大きい。



 交差点の信号が青に変わる。
 七海は歩き出した。
 髪のない頭が街灯を反射しながら、夜の中を進む。
 背筋は伸び、歩みは軽い。
 それは、悲しみを断ち切った者だけが持つ“静かな強さ”の証だった。

 駅前通りを抜けると、冷たい風が一段と強く吹いた。
 頭皮に直接あたる風が、まるで“再生の息吹”のように感じられる。
 七海はその感触を確かめるように、両手で頭を包み込んだ。

 (もう大丈夫。私、ちゃんと歩いていける)

 小さく呟くと、自然と涙がにじんだ。
 でも、その涙は悲しみではなく、温かいものだった。
 まるで春の雨のように、心を洗い流す。



 背後では、加藤が店の照明を落とし、サインポールのスイッチを切る。
 ぐるぐると回っていた光がゆっくりと止まり、店内が静寂に包まれた。
 だが、その静けさの中に、ほんの少しの誇りと満足があった。

 「……あの子なら大丈夫だろう」

 加藤は窓越しに、遠ざかっていく七海の背を見つめながら、独り言のように呟いた。
 夜風が店内に入り込み、わずかにカミソリの香りを運んでいく。
 理容師として何千人もの髪を切ってきた加藤だったが、
 今日の七海の断髪は、心に残る“特別な一日”になった。



 通りの先、七海の後ろ姿はやがて人混みに溶けていった。
 彼女はもう振り返らない。
 その背中には、決意と静かな誇りが刻まれていた。

 ――髪を切ることは、終わりではない。
 それは、人生をもう一度始めるための“覚悟”なのだ。

 七海は冷たい夜気の中を歩きながら、
 これまでの自分、そしてこれからの自分を想い、
 静かに笑った。

 その笑顔は、凛として、眩しいほどに美しかった。
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