風の記憶 ― 髪を断ち、心を生き直す

S.H.L

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第十四章:新たな日常の始まり

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 翌朝――。
 カーテンの隙間から、柔らかな光が差し込んでいた。
 七海はベッドの中で目を覚ますと、しばらく天井を見つめていた。
 頭の上を手でなぞると、指先に感じるのは冷たい空気と、なめらかな地肌。
 昨日の出来事は夢ではなかった。
 あの小さな床屋で、すべての髪を剃り落としたのだ。

 (……ほんとに、やっちゃったんだ)

 思わず笑いがこみ上げた。
 鏡の前に立ち、寝ぼけまなこのまま自分の姿を確かめる。
 朝の光が窓から差し込み、スキンヘッドの頭がやわらかく反射した。
 その光景は不思議と神聖で、昨日よりも少しだけ自然に見えた。

 顔を洗うとき、髪を避ける必要がない。
 タオルで頭を拭くと、あっという間に乾く。
 ヘアゴムも、ヘアオイルも、ドライヤーもいらない。
 洗面所の棚に並ぶヘアケア用品が、急に遠い存在に感じられた。

 (髪って、こんなに“手間”だったんだ……)

 七海は小さく息を吐き、笑って首を振った。
 けれど、胸の奥にあったわずかな不安――「会社に行ったらどう思われるだろう?」――が再び顔を出す。



 いつものスーツに袖を通し、七海は玄関で立ち止まった。
 玄関の鏡には、キャリアウーマンらしい凛とした女性の姿。
 ただひとつ違うのは、頭にニット帽をかぶっていることだった。
 それは黒の薄手のもので、スキンヘッドを自然に隠してくれる。
 帽子を手で押さえながら、七海は深呼吸をした。

 (大丈夫。私が選んだことなんだから)

 電車に乗ると、つい視線が気になった。
 車両の揺れの中で、隣の席の女子高生がちらりと七海の帽子を見た。
 そのたびに心臓が少し早く脈打つ。
 でも、気づけば視線を受け流せるようになっていた。
 ――髪を失った代わりに、少しだけ強くなった自分がいた。



 午前八時半。
 オフィスビルの自動ドアが開くと、冷たい空調の風が頭皮を撫でた。
 七海は軽く身震いしながら、受付を通り過ぎる。
 見慣れた同僚たちが振り向き、「おはようございます」と声をかける。

 「おはよう、七海さん」
 「……あれ? なんか、雰囲気違くない?」

 笑いながら話しかけてくる彼らの中には、どこか好奇心混じりの視線もあった。
 七海は、少し頬を緩めながら答えた。
 「髪を切ったんです。ちょっと、思い切って」

 「思い切って? 帽子の中、どんな感じなの?」
 「え、まさか坊主とか?」
 冗談まじりの声が飛ぶ。七海は一瞬迷ったが、すぐにニット帽を取った。

 ――しん、とオフィスが静まり返る。

 「……え、うそ」
 「ほんとに……!?」

 数秒の沈黙のあと、どっと笑いが起こった。
 「すごいなあ七海さん、かっこいい!」
 「え、これ似合うよ。モデルみたい」
 「どうしたの? 出家したの?」

 冗談を交えた言葉が次々と飛んでくる。
 けれどそのどれもが、七海の心に痛みを残すことはなかった。
 むしろ、暖かく受け止められている気がした。

 七海は笑って言った。
 「いろいろあって……リセットしたくなっちゃったんです。
  でも、意外と悪くないでしょ?」

 周囲から「似合う!」「すごい勇気だね!」という声が上がる。
 それを聞いた瞬間、七海の心に詰まっていた緊張がふっと解けた。



 昼休み。
 いつも一緒にランチを取る同僚の春香が、笑いながら席にやってきた。

 「ねえ、正直びっくりしたけど……なんか、すっごく似合ってる。
  ていうか、髪がないと目がすごくきれいに見えるんだね」

 「ありがとう。でも、実は昨日……床屋さんで剃っちゃったの」
 「え!? 床屋!? 美容室じゃなくて!?」
 「うん。駅前の『ヘアーサロン風』っていうところ。
  昔ながらの小さな店でね……なんか、引き寄せられちゃって」

 春香はフォークを止めて、しばらく七海を見つめた。
 「……なんかさ、それってすごいことだと思うよ」
 「すごい?」
 「うん。女の子が“髪を失う覚悟”って、なかなかできないもん。
  七海はさ、ちゃんと自分を生きてる気がする」

 その言葉に、七海の胸が温かくなった。
 誰かに「自分らしい」と言われるのは、いつぶりだろう。
 以前は“彼に好かれる自分”であることばかり考えていた。
 髪の長さも、服の色も、ネイルのデザインも、全部“誰かの好み”だった。
 けれど今は違う。
 “自分が心地よい自分”でいられることが、一番の幸せだと思えた。



 午後。
 パソコンの画面を前に、七海は仕事に没頭していた。
 頭に髪がないせいか、視界が広く、集中できる。
 ふと、画面の反射に映る自分の顔が目に入る。
 そこに映るのは、かつての“失恋した女”ではない。
 意思を持った、凛とした自分だ。

 周囲の同僚が、さりげなく彼女の方を見るたびに、
 七海はその視線を受け止めるように微笑んだ。
 人は見た目で判断するものだ――そう思っていたが、
 今はもう違う。
 “見た目”とは、自分の心が映し出す鏡なのだ。



 夕方、退社の時間。
 駅へ向かう途中、ガラスに映る自分の姿を見た。
 街の灯りが頭皮に反射して、ほんのりと輝いている。
 まるで夜空の下で、自分自身が光を放っているようだった。

 七海は思わず微笑む。
 ――昨日までの自分とは、もう違う。

 ホームのベンチに座り、冷たい風を受けながら空を仰いだ。
 仕事の疲れも、昨日までの悲しみも、不思議と軽い。
 風が頭を撫でるたび、
 “生きている”という感覚が全身を駆け巡る。

(髪を失って、こんなに心が自由になるなんて)

 七海は目を閉じた。
 電車が近づく音が、線路の奥から響いてくる。
 耳に届くそのリズムが、どこか心地よい。
 過去へと進む列車ではない。
 未来へ向かう列車――新しい日常への第一歩だった。



 電車がホームに滑り込み、ドアが開く。
 七海は立ち上がり、一歩を踏み出した。
 その歩みは静かで、しかし確かな強さがあった。
 誰に見られても恥ずかしくない。
 どんな過去を背負っていても、今の自分を誇れる。

 窓ガラスに映る自分の姿を見て、七海は小さく笑った。

 ――そうだ、これでいい。
 髪があっても、なくても。
 私は私。

 列車が動き出すと同時に、街の光が流れていく。
 その反射の中で、七海のスキンヘッドが一瞬、
 まるで星のようにきらりと輝いた。

 それは、新しい彼女の人生が動き出した合図だった。
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