風の記憶 ― 髪を断ち、心を生き直す

S.H.L

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第十五章:床屋との再会――髪は伸びる

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 あれから三週間が過ぎた。
 朝晩の空気はすっかり冬の気配を帯び、街路樹の葉はすでにほとんど落ちている。
 七海は通勤電車の窓に映る自分の頭を見つめながら、指先で頭皮をそっとなぞった。
 産毛のように黒い毛がうっすらと生えていて、ざらりとした感触がある。
 「スキンヘッド」のつるりとした滑らかさはもうなく、
 代わりに、生命の“再生”を感じさせる柔らかな手触りがそこにあった。

 (少し伸びてきたな……)

 彼女は小さく微笑む。
 それは「元に戻る」というよりも、「また変わっていく」ための兆しのように思えた。



 週末の土曜日。
 午前の光が白く街を照らし、駅前の通りには買い物客の姿がちらほら見える。
 七海はふと、あの回転灯――サインポール――が見えるのに気づいた。
 「ヘアーサロン風」。
 あの日、自分の人生を変えた場所。

 店の前に立つと、懐かしいような、少し緊張するような感覚が胸に広がった。
 青と赤のストライプがくるくると回り続ける。
 それを眺めながら、七海は思わず笑みを浮かべた。

 (また、来ちゃった……)

 扉を押すと、カラン、とベルが鳴った。
 奥でタオルを畳んでいた加藤が顔を上げ、驚いたように笑った。

 「おや、お久しぶりですね。もうすっかりお元気そうだ」
 「はい。……その節は本当にお世話になりました」
 「どうぞ。今日も、髪を整えに?」

 七海は椅子の前で少し迷った。
 鏡の中の自分の頭には、産毛が均一に生え始めていて、まるで短い黒い絨毯のようだった。
 長くはないが、“剃った直後の自分”とは明らかに違う。

 「……はい。ちょっと迷ってたんですけど、
  また剃ってしまおうかなと思って」

 加藤は頷き、静かに椅子を指した。
 「なるほど。前とは違って、今度は“楽しむため”ですね?」
 七海は微笑む。
 「ええ、そうかもしれません。前は逃げるためだったけど、
  今は――自分で選びたいんです」



 ケープを掛けられると、心が落ち着く。
 理容椅子の革のひんやりとした感触、
 かすかに漂うシェービングクリームの匂い、
 そして鏡越しに見える自分の姿。

 「だいぶ伸びましたね」
 加藤が笑う。
 「スキンヘッドを維持するには、意外と手間がかかるんですよ」
 「そうですね。……でも、また剃るのが楽しみになってました」

 バリカンのモーターが低く唸りを上げる。
 その音を聞いた瞬間、七海の胸に少し懐かしさが込み上げた。
 ブイーンという振動音が、まるで過去と現在をつなぐメロディのようだ。

 「では、またまっさらな頭に戻しましょうか」
 「お願いします」

 バリカンの刃が頭頂部を走り始めた。
 チリチリ……と微細な毛が次々と落ちていく。
 産毛とはいえ量があるため、加藤は丁寧に何度も往復させる。
 鏡の中で、七海の地肌が少しずつ光を取り戻していく。
 あの感覚――冷たい風が頭皮を撫でるような感触――が蘇ってくる。

 「やっぱり、この感覚、落ち着きますね」
 「ええ、もう立派な“常連さん”ですよ」

 二人は笑い合った。
 髪を落とすたびに、七海の表情はやわらかくなっていく。
 もう“断髪”ではない。
 それは、“整える”という日常の一部になっていた。



 バリカンが終わると、加藤は石鹸を泡立て始めた。
 「今回も剃り上げまで?」
 「はい、お願いします」

 白い泡が頭にのせられる。
 ひんやりとした感触が広がり、七海は目を閉じた。
 カミソリの刃が静かに頭皮をなぞるたび、
 チリ……シュル……と小さな音が響く。

 その音を聞きながら、七海は思っていた。

 (前は、“髪を失う”ことが怖かった。
  でも今は、“髪をなくす自由”を感じてる)

 社会的な常識や女性らしさの価値観。
 それらに縛られていた自分が、
 こうして自らの意思で“スキンヘッドを選ぶ”という行為をしている。
 それだけで誇らしかった。



 剃刀の動きが止まり、加藤が頭に温かいタオルを押し当てる。
 「お疲れさまでした」
 「ありがとうございます」

 鏡を見ると、つるりとした地肌がライトを反射して輝いている。
 それは一度目よりもずっと自然に見えた。
 自分の顔と一体化しているようで、もう違和感などない。

 加藤が鏡越しに言う。
 「前回と違って、今回は表情が違いますね」
 「そうですか?」
 「ええ。前は何かを捨てる顔でしたが、今は“楽しんでいる”顔です」

 七海は照れくさそうに笑った。
 「たぶん、前よりも“私”に戻れたんです。
  髪がなくても、私は私なんだって、ようやく納得できて」

 加藤はうなずいた。
 「髪は伸びます。だけど、人の心も同じですよ。
  何度でも切って、また伸ばして……そうやって形を変えていく」

 その言葉に、七海は深く頷いた。
 髪が落ちていく音、剃刀が滑る音――
 それらすべてが、彼女にとって“人生のリズム”のように思えた。



 仕上げに、加藤は掌にローションをとり、軽く頭をマッサージする。
 ミントの香りが漂い、頭皮がスーッとする。
 七海は思わず目を細めた。

 「いい匂い……」
 「うちのオリジナルです。頭を剃った後は乾燥しますからね」

 その何気ないやり取りの中に、温かさがあった。
 あの時、涙を流しながら髪を落とした自分。
 そして今、笑いながら剃り上げられる自分。
 七海は改めて、人生の変化を感じていた。



 会計を終え、扉の前で一礼する。
 加藤が柔らかく言う。
 「また伸びたら、いつでも来てください。
  でも、無理に剃らなくてもいいですよ。
  髪がある七海さんも、きっと素敵です」

 七海は少し考えてから微笑んだ。
 「ありがとうございます。
  でも……今の私は、この姿が好きなんです」

 外へ出ると、冬の風が頬と頭を同時に撫でた。
 太陽の光が反射し、わずかにきらめく。
 風は冷たいのに、心は不思議と暖かかった。



 七海はゆっくりと歩き出す。
 人々の視線がふと向くのを感じるが、
 それさえも、もう気にならなかった。
 通りのショーウィンドウに映るスキンヘッドの自分を見て、
 七海は静かに笑った。

 (髪はまた伸びる。でも、私は変わらない)

 あの日の痛みを経て、
 彼女はもう「何かを捨てた女性」ではなく、
 「自分を選び取る女性」になっていた。

 その姿は、冬の光を受けて柔らかく輝いていた。



 そして、サインポールの回転が背後で光を放つ。
 七海は振り返らない。
 けれど、加藤にはわかっていた。
 ――彼女はまたここに戻ってくる。
 髪が伸びるたびに、何かを確かめるように。

 そのとき、七海はきっと笑いながらこう言うだろう。
 「今日も、剃ってください」

 彼女の新しい日常は、
 もう“髪のあるなし”を超えて、
 **「自分を整える儀式」**として静かに続いていくのだった。
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