風の記憶 ― 髪を断ち、心を生き直す

S.H.L

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第十六章:髪を通して知る自己表現

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 カミソリの音が止み、店内に静寂が戻った。
 鏡の中の七海は、再びツルリと光る頭を持つ自分と向き合っていた。
 加藤の熟練の手によって剃り上げられたスキンヘッドは、
 ライトを受けて穏やかに輝き、彼女の表情をより引き締まったものに見せていた。
 前回と違い、今回は涙も驚きもない。
 ただ、静かな満足感と、心の深い部分から湧き上がる“納得”のようなものがあった。

 (ああ……やっぱり、好きだな、この感覚)

 指先でそっと頭をなぞる。
 柔らかい皮膚の下に感じる、自分の輪郭。
 その感触は、不思議なほど安心をくれる。
 まるで“自分がここにいる”と確かめる印のようだった。



 「どうです? 今日の仕上がりも完璧ですよ」
 加藤が笑みを浮かべながら、剃刀を布で拭う。
 七海は鏡越しに微笑んだ。
 「はい。前よりもずっと落ち着いて剃ってもらえました」
 「慣れてこられましたね。もう常連といっていいくらいですよ」
 「ふふっ……たぶん、スキンヘッドの常連なんて珍しいですよね」
 「そうですねえ。でも、あなたみたいに似合う方は本当に珍しい」

 加藤の言葉に、七海は軽く頭を下げた。
 「ありがとうございます。でも、今回は少し違うんです」
 「違う?」
 「ええ。前は、“失恋した自分”を忘れるために剃りました。
  でも今は、“今の私”を表現するために剃ってるんです」

 その言葉を聞いた加藤は、ゆっくり頷いた。
 「なるほど……ようやく“髪を切る意味”が、あなたの中で変わったんですね」
 「はい。髪をなくすことが、私にとっての“解放”だったんです。
  でも、それを一度経験すると、今度は“自分を描くキャンバス”みたいに感じて。
  髪があるなしに縛られず、思うままの自分でいられるようになったんです」

 加藤は鏡越しに七海を見つめ、その姿を噛みしめるように言った。
 「――それは、素晴らしいことですよ」
 「そう思いますか?」
 「ええ。昔の人はね、髪を『心の象徴』と呼びました。
  だから、髪を切ることは“心を整える”ことだった。
  でも、あなたのように、“髪をなくすことで自由を得る”人がいるのは、
  今の時代ならではだと思います」



 七海はケープを外してもらいながら、ふと天井を見上げた。
 「……昔なら、女性が坊主にしたら、きっと変な目で見られたんでしょうね」
 「そうですね。昭和の頃までは、女性が短くするのも勇気がいりました。
  でも今は、みんな“個性”を表現する時代です。
  髪型だって、ファッションだって、もう“誰かに合わせるもの”じゃない」

 加藤の声は穏やかだった。
 年齢を重ねた人にしか出せない落ち着きがそこにあった。
 彼の言葉に、七海はゆっくり頷いた。

 「たしかに……髪を剃ったことで、周りの目が気にならなくなりました。
  最初は怖かったけど、意外と人って慣れてくれるんですね」
 「そうでしょう? 人はね、“あなたらしい”と思えば、受け入れるものなんですよ。
  むしろ、自分を隠して生きている人のほうが、不自然に見えることもあります」

 七海は小さく笑った。
 「そうかもしれません。
  私、あの頃は“可愛い彼女”でいることばかり考えてました。
  でも今は、ありのままの私でいいって思えるんです」



 加藤はシェービングブラシを片付けながら言った。
 「スキンヘッドっていうのは、ただの髪型じゃないですよ。
  “生き方”なんです。
  どんな格好よりも、どんな化粧よりも、
  “自分を隠せないスタイル”ですからね」

 七海はその言葉を噛みしめた。
 (隠せない――確かにそうだ)

 髪を失ったとき、自分の顔の形や骨格、目の位置まですべてが露わになった。
 ごまかしがきかない。
 でもその「むき出しの自分」を受け入れられるようになったとき、
 七海は初めて“自信”というものを手に入れたのかもしれない。



 椅子から立ち上がり、鏡の前で自分を見つめる。
 ライトの光が頭の輪郭を描き出す。
 すべてがシンプルなのに、そこには確かな美しさがあった。

 「加藤さん、髪って不思議ですね」
 「どうしてです?」
 「あるときは自信をくれるし、
  ないときは自由をくれる。
  そのどっちも、きっと自分なんですよね」

 加藤は微笑んで頷いた。
 「ええ、そう。
  髪をどうするかを“自分で決める”――
  それが、本当の自己表現です」

 七海の胸に、静かな温かさが広がった。
 今まで「髪を失った女」と思っていた自分が、
 今は「髪で自分を描く人」になっている。



 仕上げに、加藤が軽くオイルを塗ってくれた。
 手のひらの温もりが伝わる。
 「艶が出ましたよ。
  外を歩くときは、光が反射して少し眩しいかもしれませんね」
 「それも“私らしさ”ですね」
 「ははっ、まったくその通りです」

 二人の笑い声が小さな理容店に響く。
 窓の外ではサインポールが回り続けていた。
 赤と青の光が、七海の頭に反射して一瞬だけ幻想的な色を生み出す。

 それを見た加藤が言った。
 「ね、やっぱり似合ってますよ。
  この光に照らされるあなたが、いちばん自然です」

 七海は照れくさそうに笑い、
 「ありがとうございます。また来ますね」と言って立ち上がった。



 店を出ると、冬の空気が直接頭を撫でた。
 少し冷たい。けれど、それも心地いい。
 街のガラスに映る自分を見て、七海はふっと微笑む。

 ――もう誰のためでもなく、私のためにこの髪型を選んだ。
 それが、いちばんの“自己表現”なんだ。

 風が頬をすり抜け、
 彼女のスキンヘッドが夕陽の光を受けて、金色に輝いた。

 七海はそのまま歩き出す。
 自分という存在を、ありのまま抱きしめながら。



 「髪を切ること」――それは、誰かになることではない。
 「髪をなくすこと」――それは、自分に還ること。

 そして七海は、今日もまた、
 その小さな理容店で見つけた“自分の美しさ”を胸に、
 堂々と世界の風を受けながら歩いていくのだった。
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