風の記憶 ― 髪を断ち、心を生き直す

S.H.L

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第十七章:風の中の微笑み ― 社会の中で生きるということ

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 十二月の風は、もう完全に冬のものになっていた。
 街路樹の枝はすっかり葉を落とし、乾いた風が通り抜けるたびにカサカサと音を立てる。
 七海は黒いロングコートの襟を立て、首をすくめるようにして歩いていた。
 頭には何もかぶっていない。
 帽子もスカーフも、この日は敢えて置いてきた。

 冷たい風が、直接頭皮に触れる。
 それは痛いほどに冷たいのに、どこか心地よい。
 髪があった頃には決して感じられなかった“世界の手触り”が、確かにそこにあった。

 (あの日、床屋を出たときの風と同じだ……)

 七海は小さく笑った。
 けれど、あのときの風よりも今の風はずっと優しかった。
 もう、心の奥に隠すものがないからだ。



 会社に着くと、受付で数人の社員が彼女を見てざわめいた。
 「え、七海さん……また剃ったの?」
 「本当に続けてるんだ!」
 「すごいなあ、似合ってるけど……寒くないの?」

 七海は微笑みながら言った。
 「寒いですよ。でも、心はぽかぽかです」

 笑いながらそう言うと、周りも自然と笑いに包まれた。
 以前ならこんな注目が怖かった。
 だが今は違う。
 彼女の中には、「私はこれでいい」という確信があった。

 同僚の春香が近づいてきて、興味津々な目で七海を眺めた。
 「ほんとにツルツルだ……触っていい?」
 「どうぞ」
 春香が恐る恐る指を滑らせると、「わ、気持ちいい……!」と笑い声を上げた。
 周りの人たちも笑い、空気が一気に和んだ。

 七海はその様子を見ながら、静かに思う。
 (そうか。人って、見た目よりも“態度”で変わるんだ)

 以前の自分なら、周囲の評価を恐れて怯えていた。
 でも、今の自分は違う。
 “どう見られるか”ではなく、“どう在りたいか”。
 それを選べるようになった。



 昼休み。
 オフィスの屋上テラスに出ると、冬の陽射しが眩しかった。
 七海はお弁当を広げながら、ビル風に頭を晒す。
 ほんのりと温かい陽光が頭皮に当たる。
 それだけで、なぜか心が落ち着く。

 そのとき、隣の席に座った春香が静かに言った。
 「ねえ、七海。前よりも柔らかい顔してるね」
 「え?」
 「なんかね、前はいつも肩に力が入ってた。
  でも今は、自然体って感じ。
  私ね、そういう七海の方が好きだな」

 七海は箸を止め、笑った。
 「ありがとう。……たぶん、やっと“自分”に戻れたんだと思う」
 「戻れた?」
 「うん。髪をなくしたことで、自分の“輪郭”が見えた気がするの。
  今までは、誰かの期待に合わせて形を変えてた。
  でも今は、何にも縛られない」

 春香は空を見上げて頷いた。
 「いいね、それ。……私も、いつか自分の髪で“何か”してみたいな」

 七海はその言葉に、ふと遠くを見るような目をした。
 「うん。髪ってね、意外と重いんだよ。
  でも、それを切るっていうのは、怖いことでもある。
  だからこそ、自分の意思でできたとき、すごく自由になれるの」

 春香は小さく笑った。
 「七海、もう哲学者みたいだね」
 「ふふ、髪の哲学者ってやつ?」

 二人の笑い声が冬の風に溶けていった。



 夕方、仕事を終えた七海は駅前のカフェで一人コーヒーを飲んでいた。
 ガラス越しに見える外の風景は、まるで別世界のように穏やかだ。
 人々がコートの襟を立て、急ぎ足で家路を急ぐ。
 その中に、自分の姿がガラスに映っていた。

 スキンヘッドの女性が、穏やかな顔でコーヒーを飲んでいる。
 そこにはもう、「奇抜さ」も「悲壮感」もなかった。
 ただひとりの人間として、静かに自分の人生を受け入れている顔があった。

 (あの時、髪を切らなかったら、今の私はいなかった)

 そう思うと、胸の奥に温かい光が灯る。

 失恋の痛み、迷い、喪失感――
 それらすべてが、この“髪のない自分”に導いてくれたのだ。
 今では、そのすべてに感謝できる。



 店を出ると、空は群青色に染まり始めていた。
 街の光が反射して、七海の頭皮がわずかに輝く。
 それを見た通行人のひとりが、思わず振り返った。
 けれど七海は気づかないふりをして歩き続けた。

 駅のホームで、電車を待ちながらスマホの画面を見つめる。
 SNSの通知欄には、以前アップした写真への反応が並んでいた。
 ――#坊主女子
 ――#スキンヘッドで生きる
 ――#自分らしく

 「勇気をもらいました」
 「こんなに綺麗に剃ってる人、初めて見た」
 「自分も髪を切ってみようと思いました」

 そんなコメントが並んでいる。
 七海は画面を見つめながら、胸がじんわりと温かくなる。

 (髪を失うことが、誰かを救うこともあるんだ……)

 あの夜、自分のために剃った頭が、
 いつの間にか誰かの心を照らしている。
 それが何よりも嬉しかった。



 電車がホームに滑り込む。
 七海は乗り込み、窓際に座った。
 窓の外には、流れる街の灯。
 ガラスに映る自分のシルエットが、静かに微笑んでいる。

 その笑みには、かつての“痛み”と“強さ”が共存していた。
 髪を失って知った孤独、
 でも同時に得た自由と誇り。

 ――髪を切ることは、終わりではなく始まり。

 七海は目を閉じ、深く息を吸い込む。
 頭皮を撫でる冷たい空気さえも、今は愛おしかった。



 車窓に反射する光の中、七海のスキンヘッドが淡く光を放つ。
 まるで、冬の夜空に浮かぶ月のように。

 そしてその光は、彼女の中にある“再生”の証であり――
 社会の中で、自分を隠さずに生きるという
 **本当の意味での「自由」**を映していた。
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