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第四部
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第二十八章 朝の支度が終わるまで
スキンヘッドの朝は、驚くほど早く終わる。
洗面所の鏡の前に立ち、
顔を洗い、
タオルで頭を拭く。
それだけだ。
ドライヤーも、ブラシも、整髪料もいらない。
以前なら十分以上かかっていた「身支度」は、三分で終わる。
——もう、準備しなくていい。
麻由は、その事実を少しだけ不思議に思った。
準備とは、何かを整える行為だった。
整えるとは、他者に向けて形を作ることだった。
今は、整えるものがない。
だから、
そのまま出られる。
服を着て、靴を履き、玄関を出る。
頭に何かを乗せ忘れた気がするが、すぐにそれが錯覚だと分かる。
——ああ、これが普通になるんだ。
第二十九章 視線の温度
外を歩けば、視線は確かにある。
二度見。
少し長い沈黙。
時々、露骨な好奇。
最初の数日は、麻由もそれを数えていた。
今、見られた。
今、逸らされた。
だが、三週間も経つと、視線は「風」と同じになる。
当たるけれど、意味はない。
それよりも、気づいたことがあった。
視線より、声の方が残る。
「思い切ったね」
「強いよね」
「どうして?」
言葉は、善意と好奇の境界を行き来する。
麻由は、答えを用意しなかった。
「そうしたかったから」
それ以上でも、それ以下でもない。
それを言うと、たいていの人は黙る。
理由を聞きたかったのではなく、安心したかったのだと、麻由は気づいた。
第三十章 職場という共同体
会社は、変わらず回っていた。
スキンヘッドでも、仕事は減らない。
増えもしない。
だが、会議での空気は、微妙に変わった。
発言すると、
「ちゃんと聞かれる」。
前のように、流されない。
それは、髪型のせいなのか、
それとも、声の出し方が変わったのか。
——たぶん、両方。
ある日、後輩が言った。
「麻由さんって、ブレないですよね」
その言葉に、少し戸惑った。
ブレない、とは。
以前の自分は、むしろ柔らかく、揺れていた。
でも今は、
揺れることを隠していない。
それが、ブレていないように見えるのかもしれなかった。
第三十一章 家族との沈黙
実家に帰った日、母は何も言わなかった。
視線だけが、一瞬、頭に落ちる。
それから、いつも通りの台所の音。
「ご飯、できてるよ」
それだけ。
食卓で、父が言った。
「寒くないのか」
「うん。慣れた」
それで会話は終わる。
麻由は、その沈黙をありがたいと思った。
理解されなくてもいい。
説明しなくてもいい。
否定されないことが、十分だった。
帰り際、母がぽつりと言った。
「……自分で決めたなら、それでいい」
それは、承認でも賛成でもない。
でも、
境界を越えてこない言葉だった。
第三十二章 理容店の外で
理容店には、しばらく行っていない。
剃る必要がないからではない。
剃らなくても、成立しているからだ。
頭を触ると、
うっすらとした産毛がある。
完全な無ではない。
でも、気にならない。
——管理しなくても、私は私だ。
あの椅子は、今もそこにある。
必要になったら、また座ればいい。
そう思える距離感が、心地よかった。
第三十三章 他者との距離
友人と会うとき、話題は最初だけだった。
「慣れた?」
「うん」
それで終わる。
それ以降は、
仕事の話、
将来の話、
どうでもいい話。
スキンヘッドは、特別ではなくなる。
ただ、時々、初対面の人が言う。
「勇気ありますね」
その言葉に、麻由は首を振る。
「勇気じゃなくて……楽なんです」
その返事は、本心だった。
勇気は、何かを乗り越える力。
これは、降ろした結果だ。
第三十四章 風の感触
夜、帰り道で立ち止まる。
風が、頭を直接撫でる。
夏でも、冬でも、
その感触は正直だ。
寒いときは寒い。
暑いときは暑い。
何も緩衝材がない。
——でも、それがいい。
自分が、ここにいると分かる。
身体の輪郭が、はっきりする。
終章 背景になるということ
スキンヘッドは、もはや主張ではない。
誰かに見せるためのものでも、
語るためのものでもない。
それは、
麻由の「背景」になった。
背景は、注目されない。
でも、物語を支える。
麻由は今日も歩く。
何もない頭で、
確かな重さの足取りで。
——これが、私の日常。
スキンヘッドの朝は、驚くほど早く終わる。
洗面所の鏡の前に立ち、
顔を洗い、
タオルで頭を拭く。
それだけだ。
ドライヤーも、ブラシも、整髪料もいらない。
以前なら十分以上かかっていた「身支度」は、三分で終わる。
——もう、準備しなくていい。
麻由は、その事実を少しだけ不思議に思った。
準備とは、何かを整える行為だった。
整えるとは、他者に向けて形を作ることだった。
今は、整えるものがない。
だから、
そのまま出られる。
服を着て、靴を履き、玄関を出る。
頭に何かを乗せ忘れた気がするが、すぐにそれが錯覚だと分かる。
——ああ、これが普通になるんだ。
第二十九章 視線の温度
外を歩けば、視線は確かにある。
二度見。
少し長い沈黙。
時々、露骨な好奇。
最初の数日は、麻由もそれを数えていた。
今、見られた。
今、逸らされた。
だが、三週間も経つと、視線は「風」と同じになる。
当たるけれど、意味はない。
それよりも、気づいたことがあった。
視線より、声の方が残る。
「思い切ったね」
「強いよね」
「どうして?」
言葉は、善意と好奇の境界を行き来する。
麻由は、答えを用意しなかった。
「そうしたかったから」
それ以上でも、それ以下でもない。
それを言うと、たいていの人は黙る。
理由を聞きたかったのではなく、安心したかったのだと、麻由は気づいた。
第三十章 職場という共同体
会社は、変わらず回っていた。
スキンヘッドでも、仕事は減らない。
増えもしない。
だが、会議での空気は、微妙に変わった。
発言すると、
「ちゃんと聞かれる」。
前のように、流されない。
それは、髪型のせいなのか、
それとも、声の出し方が変わったのか。
——たぶん、両方。
ある日、後輩が言った。
「麻由さんって、ブレないですよね」
その言葉に、少し戸惑った。
ブレない、とは。
以前の自分は、むしろ柔らかく、揺れていた。
でも今は、
揺れることを隠していない。
それが、ブレていないように見えるのかもしれなかった。
第三十一章 家族との沈黙
実家に帰った日、母は何も言わなかった。
視線だけが、一瞬、頭に落ちる。
それから、いつも通りの台所の音。
「ご飯、できてるよ」
それだけ。
食卓で、父が言った。
「寒くないのか」
「うん。慣れた」
それで会話は終わる。
麻由は、その沈黙をありがたいと思った。
理解されなくてもいい。
説明しなくてもいい。
否定されないことが、十分だった。
帰り際、母がぽつりと言った。
「……自分で決めたなら、それでいい」
それは、承認でも賛成でもない。
でも、
境界を越えてこない言葉だった。
第三十二章 理容店の外で
理容店には、しばらく行っていない。
剃る必要がないからではない。
剃らなくても、成立しているからだ。
頭を触ると、
うっすらとした産毛がある。
完全な無ではない。
でも、気にならない。
——管理しなくても、私は私だ。
あの椅子は、今もそこにある。
必要になったら、また座ればいい。
そう思える距離感が、心地よかった。
第三十三章 他者との距離
友人と会うとき、話題は最初だけだった。
「慣れた?」
「うん」
それで終わる。
それ以降は、
仕事の話、
将来の話、
どうでもいい話。
スキンヘッドは、特別ではなくなる。
ただ、時々、初対面の人が言う。
「勇気ありますね」
その言葉に、麻由は首を振る。
「勇気じゃなくて……楽なんです」
その返事は、本心だった。
勇気は、何かを乗り越える力。
これは、降ろした結果だ。
第三十四章 風の感触
夜、帰り道で立ち止まる。
風が、頭を直接撫でる。
夏でも、冬でも、
その感触は正直だ。
寒いときは寒い。
暑いときは暑い。
何も緩衝材がない。
——でも、それがいい。
自分が、ここにいると分かる。
身体の輪郭が、はっきりする。
終章 背景になるということ
スキンヘッドは、もはや主張ではない。
誰かに見せるためのものでも、
語るためのものでもない。
それは、
麻由の「背景」になった。
背景は、注目されない。
でも、物語を支える。
麻由は今日も歩く。
何もない頭で、
確かな重さの足取りで。
——これが、私の日常。
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