花散る男女

トリヤマケイ

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第1部 アイドル編

♬ 14 新しい仕事

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    お昼になったので、教えられた通り京はベルトを外しポケットから財布も抜き出して、セキュリティのおじさんが差し出すトレイに載せる。

 そして、金属探知機のゲートをくぐった。慣れない作業のせいか眼が少し痛かった。眼とその奥の方が。

 トイレに入って用をたしながら、なにげなく見ると、そこには「水がなくても人が流れることがあります」と、書かれてあった。

   人がいなくても水が流れることがあります、ではないのか?

 すると、いわゆる朝顔でない、縦長の男性用の便器のつるつるの陶器のなかを、小さな男女が、その大きさに見合った絶叫をあげながら直滑降して消えてゆくのが見えた。

 手を洗い、お気に入りのチェック柄のハンカチをポケットから取り出しながら、鏡を覗き込む。

   こんなはずじゃなかったのに。
   なにがこんなはずじゃなかったの?      

   鏡の中の自分と会話する。 

   すべてさ。すべてこんなはずじゃなかった。しかし。すべては自分が選択してきたことじゃないか。

   トイレを出て、ロッカー室のドアを押し開け、ロッカーのバッグから弁当を取り出して四階に降りた。だが、きょうは、なぜか外で食べたくなった。

   そこで、エレベーターで屋上に上がり、広々とした屋上でやわらかい陽射を浴びながら、胡坐をかいて弁当を食べた。

 風に運ばれてきたクチナシの甘い香りが、鼻腔をくすぐる。空は晴れ渡り、富士山の姿すら見えた。

   これだけ、爽快だと閉塞感いっぱいの天井の低い現場になど何やらもどりたくなくなっている自分がいた。

 さて、どうしたものか。勤労意欲は満々なのだが、働く気がまったくしないのだ。

   ところが、お昼休みも終わり、リフレッシュして五階に戻ってみると、なにやらシステムがトラブっているのだった。

   作業を進ませることができる状況ではなく、暫く待機となった。京にも実害があり午前中作業したデータがすべて吹っ飛んでしまっていたのには、愕然とした。

   おかしなことになったものだ。暇仕事がないではないが、そんなものをやる気も起こらず、屋上に再び舞い戻ると、一点の曇りもない青空を背景にして、ジェット機が音もなく滑空してゆくのをスローモーションの映像のようにして見た。

   しかし、あれほど広い空でも飛行機同士が衝突することがあるというのだから、まったくもって世の中は不可思議なものだ。きょうはほんとうに早退けさせてもらおうかと悩みはじめる。

   現場に戻ってみると、案の定、システムの復旧の目途は今のところまだ立たないという。

   つまり、原因が未だ解明で出来ずじまいなのだ。そこで、リーダーやサブリーダーの主要なメンバーだけ残して早退したいものは早退するようにとのお達しが出た。

   むろん京は、渡りに舟と早退する手続きを早々に済ませ、晴れて自由の身になると、十年ぶりに娑婆に出た人のように足取りも軽く、なにやらわくわくしながら勤怠を記録してエレベーターに飛び乗った。

 さてと、どこに行こうか、とりあえずは……。

   と、会社の入っているビルから外に出て駅に向かっていると、曲がったこともない見知らぬ路地へと入ってゆこうという気まぐれが、つむじ風のように湧き起こった。

 そこで非日常に出くわす、みたいなことにならないだろうかと期待しているのかもしれない。

   むろんそれは、生ぬるく心地よい日常にどっぷりと浸かっている自分がいるからだ。

 とにかくあまりにも自由というのも自由過ぎて実は何も出来ないし、何かひとつだけでも少しずつ決め事をしていこうと漠然と思った。

   それで、ともかく実際にここから見える路地へと入っていって最初に出会った人と何らかのコミュニケートを試みようと思った。

   これはなにがなんでも実行しなければならないミッションなのだと自分を鼓舞する。

   しかし、田舎ならまだしも、都会で見ず知らずの人に、こんにちは、などとにやけ顔で挨拶などしたならば、ギョッとされるのが落ちなのだ。それは実に残念なことにはちがいなかった。

   同じ会社に勤めているもの同士でも、互いに顔は知っているものの、一言も言葉を交わしたことがないという人間が何十人もいる。

単純に、言葉を交わしたことがあるから意思の疎通が取れているいうことでもないのだが、言葉を交わさないというのは、どうも具合がわるい。

   だが、えぇい、ままよとばかりに、路地へと突撃するように折れると奥の方からうら若き女性が……という展開は残念ながらなかった。

   階段を上ったり下りたり、公園の脇をすり抜けたり、大きなマンションや製薬会社のオフィスビルが見えたりしたが、いけどもいけども人っ子ひとり出会わないのだった。

   家々が犇めくこの都会の住宅地で、たとえポンポン船の午後の曳航のようにひねもす夢の中みたいな、街全体が午睡に溺れる時間帯であっても、その実ぴったりと身体と身体をあわせるようにして猫の額ほどの土地に詰め込まれているのだから、それら家々から各人の息遣いが聞こえないのがおかしいほどなのだ。

   だから、そこら辺りを慮ると何やら深山幽谷にあるかのような、この森閑とした静けさは、とても凝縮された濃密な静けさなのであり、実はかなりの抑制というエネルギーが必要となるのではないだろうか。

   これは、むろん家人が学校や会社から帰って在宅しているときならば、尚更だ。

  


  
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