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第1部 アイドル編
♬ 17赤い糸
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華奢なその背中に声をかけながらも京の目は蔵書に釘付けになっていた。
そこは書庫のようで、四畳半にも満たないであろう狭い部屋の四面は、すべてぎっしりと本で埋め尽くされていた。
かすかに図書館のような匂いがするその狭い書庫の真ん中で、あの飛鳥ちゃんらしきは女座りして白いちゃぶ台みたいな丸テーブルに向かっていた。
テーブルに広げられたノートには描きかけの絵が、時が止まっているかのように放置されていた。
そんな小部屋の中で、青紫色した薄衣をまとい植物みたいに静かに息づいている飛鳥ちゃん似の女性は、遥か彼方を眺めている目をしているにちがいないと思った。
それは、一幅の絵を見ているかのような美しい光景で溜め息が漏れそうなほどだった。
いや、実際京は、震えていた。手の震えがとまらなかった。自分でもわかってはいなかったのだ。これほど自分は飛鳥ちゃんに恋い焦がれていたのかと正直愕然とした。
奈美のことを裏切ることを絶対に自分に許さなかった京は、恋心にガッチリと鍵を掛けて封印していただけにすぎなかった。
今、現前する奇跡のような邂逅に、京も暫し自分の想いを解放してもいいだろうと思った。今日くらいは自分の気持ちに正直になろうと思った。
少しだけ空いているドアから、さっきまでいたリビングのナイアガラ瀑布のような轟音が容赦なく流れ込んでくる。
広々としたリビングで凄まじいほどの大音量で轟くナイアガラ瀑布の滝に打たれて清冽で凄烈な洗礼を受けた京は、一皮むけたのかもしれなかった。
その原色の洪水を堰き止めるようにしてドアをきっちり締めると、静寂が訪れた。
角を斜めに切り取られたように傾斜した壁の天窓から、紺碧の空がのぞいて見えていた。
このまま、飛鳥ちゃんとふたりして、時の停止したようなこちらの世界にいるのもわるくないなと思った。
というか、京はさっきから飛鳥ちゃんを後ろから思い切り抱きしめたい衝動にかられて、それはいくらなんでもあかんやろと、自分と戦っていた。人ちがいであるかもしれないのだし、いや、人違いでなくても、それは犯罪だった。
それを、察したのかおもむろに飛鳥ちゃんは、「で、話はなに?」と振り返りもせずにそういった。
言われた京はキョトンとして返す言葉に一瞬窮していたが、間違いなく飛鳥ちゃんのあの声だとわかり、失神しそうになった。
「だって、話があるから来たんでしょ?」
「あ、そうそう。そうだった、つい飛鳥ちゃんの後ろ姿に見惚れて忘れてた。あのさ、さっき飛鳥ちゃんのお姉さんと目が合った時、何か目の中で弾けたんだよ。それがね、なんだったのか謎だったんだけど、今わかったよ」
「なんだったの?」
「いや、なんていうんだろう。うまく言えないけど、お姉さんではないんだよ、きっと。飛鳥ちゃんなんだな、原因は」
「ふーん。そうなの? そんなこともあるのかな? あまり、お姉ちゃんと似てるって言われたことないしね。あ、でね、そのちゃん付けはやめてほしいかな」
「あ、そう。呼び捨てファンタジィってやつね?」
「なにそれ?」
「いや、こっちのこと」
「で、少しは、思い出した?」
「は? なにを?」
「お手上げね。わたしのこと忘れてたでしょ?」
「えー! 忘れるも何も、ずっと……」
「ずっと待ってたんだからね」と飛鳥ちゃんは小さい声だが確かにそう京には聞こえた。
えー! とまた京は気が動転して言葉にならない。
「もしかして、ここに今日来るのわかってた?」
「まさか。でも、絶対にまた会えるってわかってたよ」
そういった飛鳥ちゃんは、その自分の言葉が恥ずかしかったのか、無理やり伸びするような真似をしてこう言った。
「退屈で仕方ないの。なにか話してよ?」
「どんな?」
「なんでもいいから。口から出まかせのホラ話でもいいし」
「そう? じゃ、まあ、見当違いな自己紹介なんかやめて、お話し会といきますか」
「そうこなくっちゃ。それで、仔猫ちゃたちは元気なの?」
「あれ? 話したっけか? 元気元気。元気すぎて困るくらいだよ」
「三匹いるんでしょ」
「そうだよ。ピアノにおでん、そしてマーク」
「おでん! かわいい!」
「しかし。なんか飛鳥ちゃんとまともに話したことないのに、やたらリラックスして話せてる自分が不思議」
「まともに話そうとしなかったのは、そっちでしょ?」
「あ、わかってた? あの時、ずっと笑ってたけど、何でわたしここにいるんだろうって思ってたよね?」
「まあね。肝心な人は一向に話しかけてこないし、むしろわたしのこと視界に入らないようにしてたでしょ? 知ってるんだからね」
「え。マジ? えーと、一目でヤバイと思ってさ、これはマジ惚れそうってなってたから、隠すのたいへんだった」
「しきりに、今カノがどうだとかこうだとか誰も聞いてないのに彼女いますアピールしてたよね。それに、この人どんだけチーズフォンデュ好きなんだろって思ってた」
これには、たまらずふたりで爆笑した。
「そうそう。あれからしばらくはチーズ食べたくなかった。見るのもやだったかな。ま、少し盛ったけど。次の日、ピザ食べたしな」
京は、楽しくて仕方なかった。もう完全に箍が外れていた。自分で自分を締め付けていたが、もうその必要はないのではないかと思った。
タイムリミット付きの恋なんて恋じゃないし、いくところまで行ってしまうのが恋だろう。
奈美の卒業まではと思っていた京だったが、それもよく考えたら死に体の恋のようで、おかしい。
たしかに奈美と完全に切れてしまうのは、怖かった。たとえ首の皮一枚でもまだ繋がっているという事実があると安心していられた。
しかし、どう考えてもこれから好きでもない医学の勉強をして医師になる自分を京は、まったく想像できなかった。
そこは書庫のようで、四畳半にも満たないであろう狭い部屋の四面は、すべてぎっしりと本で埋め尽くされていた。
かすかに図書館のような匂いがするその狭い書庫の真ん中で、あの飛鳥ちゃんらしきは女座りして白いちゃぶ台みたいな丸テーブルに向かっていた。
テーブルに広げられたノートには描きかけの絵が、時が止まっているかのように放置されていた。
そんな小部屋の中で、青紫色した薄衣をまとい植物みたいに静かに息づいている飛鳥ちゃん似の女性は、遥か彼方を眺めている目をしているにちがいないと思った。
それは、一幅の絵を見ているかのような美しい光景で溜め息が漏れそうなほどだった。
いや、実際京は、震えていた。手の震えがとまらなかった。自分でもわかってはいなかったのだ。これほど自分は飛鳥ちゃんに恋い焦がれていたのかと正直愕然とした。
奈美のことを裏切ることを絶対に自分に許さなかった京は、恋心にガッチリと鍵を掛けて封印していただけにすぎなかった。
今、現前する奇跡のような邂逅に、京も暫し自分の想いを解放してもいいだろうと思った。今日くらいは自分の気持ちに正直になろうと思った。
少しだけ空いているドアから、さっきまでいたリビングのナイアガラ瀑布のような轟音が容赦なく流れ込んでくる。
広々としたリビングで凄まじいほどの大音量で轟くナイアガラ瀑布の滝に打たれて清冽で凄烈な洗礼を受けた京は、一皮むけたのかもしれなかった。
その原色の洪水を堰き止めるようにしてドアをきっちり締めると、静寂が訪れた。
角を斜めに切り取られたように傾斜した壁の天窓から、紺碧の空がのぞいて見えていた。
このまま、飛鳥ちゃんとふたりして、時の停止したようなこちらの世界にいるのもわるくないなと思った。
というか、京はさっきから飛鳥ちゃんを後ろから思い切り抱きしめたい衝動にかられて、それはいくらなんでもあかんやろと、自分と戦っていた。人ちがいであるかもしれないのだし、いや、人違いでなくても、それは犯罪だった。
それを、察したのかおもむろに飛鳥ちゃんは、「で、話はなに?」と振り返りもせずにそういった。
言われた京はキョトンとして返す言葉に一瞬窮していたが、間違いなく飛鳥ちゃんのあの声だとわかり、失神しそうになった。
「だって、話があるから来たんでしょ?」
「あ、そうそう。そうだった、つい飛鳥ちゃんの後ろ姿に見惚れて忘れてた。あのさ、さっき飛鳥ちゃんのお姉さんと目が合った時、何か目の中で弾けたんだよ。それがね、なんだったのか謎だったんだけど、今わかったよ」
「なんだったの?」
「いや、なんていうんだろう。うまく言えないけど、お姉さんではないんだよ、きっと。飛鳥ちゃんなんだな、原因は」
「ふーん。そうなの? そんなこともあるのかな? あまり、お姉ちゃんと似てるって言われたことないしね。あ、でね、そのちゃん付けはやめてほしいかな」
「あ、そう。呼び捨てファンタジィってやつね?」
「なにそれ?」
「いや、こっちのこと」
「で、少しは、思い出した?」
「は? なにを?」
「お手上げね。わたしのこと忘れてたでしょ?」
「えー! 忘れるも何も、ずっと……」
「ずっと待ってたんだからね」と飛鳥ちゃんは小さい声だが確かにそう京には聞こえた。
えー! とまた京は気が動転して言葉にならない。
「もしかして、ここに今日来るのわかってた?」
「まさか。でも、絶対にまた会えるってわかってたよ」
そういった飛鳥ちゃんは、その自分の言葉が恥ずかしかったのか、無理やり伸びするような真似をしてこう言った。
「退屈で仕方ないの。なにか話してよ?」
「どんな?」
「なんでもいいから。口から出まかせのホラ話でもいいし」
「そう? じゃ、まあ、見当違いな自己紹介なんかやめて、お話し会といきますか」
「そうこなくっちゃ。それで、仔猫ちゃたちは元気なの?」
「あれ? 話したっけか? 元気元気。元気すぎて困るくらいだよ」
「三匹いるんでしょ」
「そうだよ。ピアノにおでん、そしてマーク」
「おでん! かわいい!」
「しかし。なんか飛鳥ちゃんとまともに話したことないのに、やたらリラックスして話せてる自分が不思議」
「まともに話そうとしなかったのは、そっちでしょ?」
「あ、わかってた? あの時、ずっと笑ってたけど、何でわたしここにいるんだろうって思ってたよね?」
「まあね。肝心な人は一向に話しかけてこないし、むしろわたしのこと視界に入らないようにしてたでしょ? 知ってるんだからね」
「え。マジ? えーと、一目でヤバイと思ってさ、これはマジ惚れそうってなってたから、隠すのたいへんだった」
「しきりに、今カノがどうだとかこうだとか誰も聞いてないのに彼女いますアピールしてたよね。それに、この人どんだけチーズフォンデュ好きなんだろって思ってた」
これには、たまらずふたりで爆笑した。
「そうそう。あれからしばらくはチーズ食べたくなかった。見るのもやだったかな。ま、少し盛ったけど。次の日、ピザ食べたしな」
京は、楽しくて仕方なかった。もう完全に箍が外れていた。自分で自分を締め付けていたが、もうその必要はないのではないかと思った。
タイムリミット付きの恋なんて恋じゃないし、いくところまで行ってしまうのが恋だろう。
奈美の卒業まではと思っていた京だったが、それもよく考えたら死に体の恋のようで、おかしい。
たしかに奈美と完全に切れてしまうのは、怖かった。たとえ首の皮一枚でもまだ繋がっているという事実があると安心していられた。
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