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第2部 名古屋編
🎵 13 心安らぐ幸せな時間
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自分は普通ではないみたいだとレイが気づいたのは、大人になってからのことだが、一度レイは川底へと猛烈な力で引き摺り込まれそうになったことがある。まだ年端もいかない幼い頃の話だ。
それは尋常な力ではなく、またそこにはむろん、誰もいなかった。とにかく突然なんの前触れもなく、それは始まってやがてふっつりと引っ張り込む力は嘘のようにやんだ。
その時は、何事が起こったのかすらわからなかった。ただ震え上がるほどの恐怖だけは残った。
だいぶ後になってから気づいたことは、水底に沈められそうになったところを誰かに、それも強力な誰かに助けられたということだった。
たぶん、気づかないで助けられていたということは、いくらでもあると思うが、誰かに護られていると強烈に意識せざるを得なかったのは、その時と、あの地下鉄サリン事件の時だ。
事件があった時点で東横線は中目黒駅で停車したまま、動かなくなってしまった。
本来の乗車コースは、中目黒→霞ヶ関→本郷三丁目だったが、何か重大な事件やら事故が発生したという具体的な事を何も知らないまま、なぜかその際にまったく仕事に行く気が失せてしまい、ありえない事に逆方向の電車に乗り換えて家に帰ることにしたのだった。
帰宅してから、とんでもない事件が起こったことを知ったというわけだが、目と鼻の先で事件が起こっていたわけで、命拾いしたという経験があった。
水面を歩いて渡ったり、物質に触れることなく移動させたり、テレパシー、テレポーテーション等できるわけもない。
だが逸早く危険を察知して、確実に危機的事態を回避するということが通常ヒトにできるわけもなく、見えない何かに守護されていることは、どう考えても否定できない事実のようだった。
だからもしかしたなら、ジュネはそうとはっきり明言しないどころか匂わせもしないのだが、何か自分は特別な存在なのかもしれない、などと好き勝手に空想するのが楽しいので、レイはそれがやめられなかった。
これは、レイに限った話ではない。誰だって、自分が十把一絡げのどこにでも転がっているようなつまらない石ころみたいなものではなく、希少価値のある特別な存在でありたいはずだ。
ただどう考えてみても、世界中の誰ひとりとして同じ人物はいないのだから、誰もが特別な存在であることにはちがいない。
そんなこんなでdeadlockな毎日に気が塞ぐレイだったが、ほんとうに久しぶりに水樹の夢を見た。
起きてからもその夢がまだ続いているように、なにかフワフワした気分だった。
そして、コールドスリープという単語が浮かんでくると、心の中で眠らせている水樹に自然に話かける、みたいなシチュエーションを思わず夢想していた。水樹は眠っているのだから会話はできない。
だが反論してこないのは好都合なのだ。
ああ言えばこう言うというのは、何でも対等に言える関係で確かに仲がいいとも言えるが、ことごとく反論してくるのは、いったいなぜなのか。
いつからこんなことになってしまったのか。まあ、はじめからなのだろうけれど。とにかく黙ってさえいれば、綺麗なお人形さんみたいなのだが。
だから、出まかせのシチュエーションで水樹を眠り姫として横たわらせ、有る事無い事いろいろ夢想するのは心地よく楽しかった。
それは、図らずも、精神衛生上好ましく、レイにとってごく自然なセラピーとなっているのかもしれない。
そして今もレイが目を瞑ると蕩けるようにサイケデリックな夢想の世界が現実の堅固な壁などものともせず音もなく浸潤してくる。
◇
昏い部屋の中は冷んやりとしていた。
ギラギラした殺人光線の刃をかいくぐりながら歩いて来たので、汗がひくあいだ何も見えなかった。
水樹は静かに横たわっていた。寝息すら聞こえない。見えてはいるが、別世界の住人のようだった。
確認という意味でという口実を用意して、試しにキスをしてみた。そんな必要もないのに。
水樹は永遠に眠り続けるのが仕事なのかもしれないと、このごろ思ったりする。
毎日、このくらいの時間にきて、水樹が目醒めるのを待つのが日課だった。彼女が目醒めるとき、ちょうどそこに居合わせる、その幸福な一瞬だけを夢みてる。
来たところで水樹と会話できるわけでもなく、ただ小一時間ほど椅子に座って、水樹のきれいな寝顔を見ながら、うとうとするだけなのに。
しかし、考えてみたら今の自分にとって、これがいちばん心安らぐ幸せな時間なのかもしれなかった。
ギスギスした人間関係も、一部の者だけに有利な理不尽なルールに縛られることもない。ほんとうに自分を解放できる唯一のときだった。
水樹がふつうに起きて会話できているなら、いまだに好きだということも、なかなかいい出せないだろうしキスなんて夢のまた夢にすぎない。
だから、もしかしたら、こうして水樹とああしたい、こうしたいと思っているいまこそが、いちばん幸せなのかもなんて思ったりする。
ディズニーランドに行きたいし、フリッパーズのスフレパンケーキプリンを一緒に食べてみたかった。
映画も観たいし、美術館にも一緒に行ってみたい。そんな儚い願いが叶うことを夢みていられるのは、いまだけなのだ。ヒトはいつしか夢見ることをやめてしまう。
夢見ることを諦めずに、こうしてさえいれば水樹をずっと独り占めできるし、会話しなくてもしっかりと繋がっている気がした。
しかし、実際のところはそんな甘いラブストーリーではないのかもしれない。
物事にはすべて表と裏があるからだ。
そんな風に思うこともあった。
ただ水樹と自分は離れ難い仲なのだという気はする。そのために俺は水樹に恋しているのではないか。
いい例え話は浮かばないけれど、男女が惹かれ合うのも種の保存のためだし、自分の自由意思で物事を考え決めていると思うのは、浅はかすぎるのかもしれない。
あの子の顔がタイプだから、なぜか理由はわからないけれど、あの子に惹かれてしまう、みんなそう思っているにちがいない。自分の意思で相手を選んだと。
だが、そこには、もっと巨きな意志が働いているのではないか、そんな風に考えると何か味気ない気もするが。
たとえば、さらにいうと、こうしてただボーっと、ほとんど何も考えずに水樹を透過して遠くの方を見ていたり、うつらうつら居眠りしていて、まったく退屈さを感じないばかりか、何か満ち足りたような気分になるのは、もしたしたら、自分の預かり知らないところで、つまり、それは無意識と言ってもいいかもしれないけれど、水樹と会話しているのではないか、と考えたりするのだった。
それは尋常な力ではなく、またそこにはむろん、誰もいなかった。とにかく突然なんの前触れもなく、それは始まってやがてふっつりと引っ張り込む力は嘘のようにやんだ。
その時は、何事が起こったのかすらわからなかった。ただ震え上がるほどの恐怖だけは残った。
だいぶ後になってから気づいたことは、水底に沈められそうになったところを誰かに、それも強力な誰かに助けられたということだった。
たぶん、気づかないで助けられていたということは、いくらでもあると思うが、誰かに護られていると強烈に意識せざるを得なかったのは、その時と、あの地下鉄サリン事件の時だ。
事件があった時点で東横線は中目黒駅で停車したまま、動かなくなってしまった。
本来の乗車コースは、中目黒→霞ヶ関→本郷三丁目だったが、何か重大な事件やら事故が発生したという具体的な事を何も知らないまま、なぜかその際にまったく仕事に行く気が失せてしまい、ありえない事に逆方向の電車に乗り換えて家に帰ることにしたのだった。
帰宅してから、とんでもない事件が起こったことを知ったというわけだが、目と鼻の先で事件が起こっていたわけで、命拾いしたという経験があった。
水面を歩いて渡ったり、物質に触れることなく移動させたり、テレパシー、テレポーテーション等できるわけもない。
だが逸早く危険を察知して、確実に危機的事態を回避するということが通常ヒトにできるわけもなく、見えない何かに守護されていることは、どう考えても否定できない事実のようだった。
だからもしかしたなら、ジュネはそうとはっきり明言しないどころか匂わせもしないのだが、何か自分は特別な存在なのかもしれない、などと好き勝手に空想するのが楽しいので、レイはそれがやめられなかった。
これは、レイに限った話ではない。誰だって、自分が十把一絡げのどこにでも転がっているようなつまらない石ころみたいなものではなく、希少価値のある特別な存在でありたいはずだ。
ただどう考えてみても、世界中の誰ひとりとして同じ人物はいないのだから、誰もが特別な存在であることにはちがいない。
そんなこんなでdeadlockな毎日に気が塞ぐレイだったが、ほんとうに久しぶりに水樹の夢を見た。
起きてからもその夢がまだ続いているように、なにかフワフワした気分だった。
そして、コールドスリープという単語が浮かんでくると、心の中で眠らせている水樹に自然に話かける、みたいなシチュエーションを思わず夢想していた。水樹は眠っているのだから会話はできない。
だが反論してこないのは好都合なのだ。
ああ言えばこう言うというのは、何でも対等に言える関係で確かに仲がいいとも言えるが、ことごとく反論してくるのは、いったいなぜなのか。
いつからこんなことになってしまったのか。まあ、はじめからなのだろうけれど。とにかく黙ってさえいれば、綺麗なお人形さんみたいなのだが。
だから、出まかせのシチュエーションで水樹を眠り姫として横たわらせ、有る事無い事いろいろ夢想するのは心地よく楽しかった。
それは、図らずも、精神衛生上好ましく、レイにとってごく自然なセラピーとなっているのかもしれない。
そして今もレイが目を瞑ると蕩けるようにサイケデリックな夢想の世界が現実の堅固な壁などものともせず音もなく浸潤してくる。
◇
昏い部屋の中は冷んやりとしていた。
ギラギラした殺人光線の刃をかいくぐりながら歩いて来たので、汗がひくあいだ何も見えなかった。
水樹は静かに横たわっていた。寝息すら聞こえない。見えてはいるが、別世界の住人のようだった。
確認という意味でという口実を用意して、試しにキスをしてみた。そんな必要もないのに。
水樹は永遠に眠り続けるのが仕事なのかもしれないと、このごろ思ったりする。
毎日、このくらいの時間にきて、水樹が目醒めるのを待つのが日課だった。彼女が目醒めるとき、ちょうどそこに居合わせる、その幸福な一瞬だけを夢みてる。
来たところで水樹と会話できるわけでもなく、ただ小一時間ほど椅子に座って、水樹のきれいな寝顔を見ながら、うとうとするだけなのに。
しかし、考えてみたら今の自分にとって、これがいちばん心安らぐ幸せな時間なのかもしれなかった。
ギスギスした人間関係も、一部の者だけに有利な理不尽なルールに縛られることもない。ほんとうに自分を解放できる唯一のときだった。
水樹がふつうに起きて会話できているなら、いまだに好きだということも、なかなかいい出せないだろうしキスなんて夢のまた夢にすぎない。
だから、もしかしたら、こうして水樹とああしたい、こうしたいと思っているいまこそが、いちばん幸せなのかもなんて思ったりする。
ディズニーランドに行きたいし、フリッパーズのスフレパンケーキプリンを一緒に食べてみたかった。
映画も観たいし、美術館にも一緒に行ってみたい。そんな儚い願いが叶うことを夢みていられるのは、いまだけなのだ。ヒトはいつしか夢見ることをやめてしまう。
夢見ることを諦めずに、こうしてさえいれば水樹をずっと独り占めできるし、会話しなくてもしっかりと繋がっている気がした。
しかし、実際のところはそんな甘いラブストーリーではないのかもしれない。
物事にはすべて表と裏があるからだ。
そんな風に思うこともあった。
ただ水樹と自分は離れ難い仲なのだという気はする。そのために俺は水樹に恋しているのではないか。
いい例え話は浮かばないけれど、男女が惹かれ合うのも種の保存のためだし、自分の自由意思で物事を考え決めていると思うのは、浅はかすぎるのかもしれない。
あの子の顔がタイプだから、なぜか理由はわからないけれど、あの子に惹かれてしまう、みんなそう思っているにちがいない。自分の意思で相手を選んだと。
だが、そこには、もっと巨きな意志が働いているのではないか、そんな風に考えると何か味気ない気もするが。
たとえば、さらにいうと、こうしてただボーっと、ほとんど何も考えずに水樹を透過して遠くの方を見ていたり、うつらうつら居眠りしていて、まったく退屈さを感じないばかりか、何か満ち足りたような気分になるのは、もしたしたら、自分の預かり知らないところで、つまり、それは無意識と言ってもいいかもしれないけれど、水樹と会話しているのではないか、と考えたりするのだった。
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