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①
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2段重ねにしたコンテナを押し出して厨房の勝手口を開けると、外気の冷たさに春馬は首をすくめた。4月になったとはいえ、朝夕の冷え込みは厳しい。寂れたビルの建ち並ぶ細長い裏路地を吹きぬけていく風を追って夜空に視線を放った。
(今日も無事、終わったなぁ)
多少、段取りの悪い部分はあったが、目立ったミスも特になく終えたことにほっとした。春馬は器用なほうではないから一日一日を終わらせるのに精一杯。だからといって毎日を有意義に過ごしているかというと微妙なところだ。
店内に戻ると最後の客がちょうどレジに立つところだった。成り行きでそのままレジに入る。
「いつも遅くまで頑張ってるね。おつかれさま」
はい、これお食べとポケットから取り出した飴をくれた。彼は来るといつも何かしらおやつをくれる。
春馬が礼を述べると紳士は軽く手を振って去っていった。
「春馬君、そこ引いたらまかない食べて」
厨房の中からマスターの声がして春馬は「はい」と返事をした。テーブルの片付けをしようとして、ソファに本が置いてあることに気づいた。A4サイズの薄いそれは絵のタッチからして絵本であるようだった。
忘れ物。とっさに店の入口に走り表を見回したが、すでに彼はいなかった。
店に戻ると、どうしたの?という風にマスターがこちらを見ていた。
「来栖さん、本を忘れたみたいで」
「あぁ、そのうち取りに来るでしょ」
とりあえず落とし物入れに保管することにした。常連だし他の店員にも言付けて、一応、メッセージも送っておくことにした。
結局、その日のうちに取りに来なかったので、家に帰ってから来栖のSNS公式アカウントにアクセスしてメッセージを送った。登録されているのは本人の名前ではなく所属しているバンド名「Ampersand」のほうだった。
「Ampersand」は春馬の住んでいる地域を拠点とするインディーズバンドである。全国的にみると知っている人は知っている的なコアなファンを持つアーティストだが、リーダーである柿崎来栖はローカル番組でコメンテーターとして出演していたり、地域のイベントでパーソナリティを務めたり、ラジオ番組を持っていたりと地元では知らぬ人はいないというくらいには名物人間である。
*
来栖邸の敷地内の一角にはレコーディングスタジオがある。
もともとの家主である津山将兵は「Ampersand」でドラムを叩く傍ら、本業であるところの津山工務店会長の肩書きを持っている。先代が亡くなった後、代表取締役の座に就いたのをきっかけに実家に戻り、それまで住んでいた本宅を柿崎来栖が買い取った。
いったんは社長の座に専念したものの、次の跡継ぎが育つのを待って津山は早々に音楽の世界に返り咲いた。社長としての肩書が短命だったのはちょうどそのころ、来栖とギタリストの越智和彦がバンドを立ち上げようとしていたからという理由もある。
お家芸の粋を尽くして作られた離れという名の彼の趣味部屋は、バンド結成にあたって本格的なレコーディングスタジオとして生まれ変わり、現在では「Ampersand」の本拠地となっている。
「来栖さん、忘れ物しました?『有栖』って人からメッセージきてますよ」
編集作業に追われている主の横で、悠々とソファにふんぞり返って、菓子など食いつつSNSのチェックをしている越智和彦のもとへ来栖は歩み寄った。
「お前、用が済んだんならもう帰れよ」
「えー、オレにはコメント返しという大役がまだ残ってるんですよ。ファンは大切にしないとー」
それ、家でもできるだろ。という一言を発する労力もこいつのために使いたくなかったのでもう放置することにした。
「有栖」と名乗る人物のTOPページに飛んだが最低限のプロフィールのみで人となりまでは見えてこないものの、メッセージの内容を見る限り、行きつけの喫茶店の店員で間違いないだろう。
絵本、預かってます。とのことだったので、今週中に取りに行きます。と返信した。
「本当に忘れたんですか?」
「忘れたよ」
「ホントにィ?話すきっかけがほしかったんじゃないのォ?」
ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる越智が心底、鬱陶しかった。
「あれでしょ、来栖さんが気になってた子。声が似てるっていう」
「うん」
ショートボブの中性的な面影を思い浮かべた。服装こそ少年らしかったが、柔らかい輪郭や物腰は限りなく少女に近い。そんな繊細そうな外見に反して声は意外と渋く、砂を噛み潰したような、ざらつき感のあるハスキーな声の持ち主だった。
「お礼に食事でも誘ったら?」
「それ下手したら事案に発展しない?」
どこの馬の骨ともわからない初老に足を突っ込んだおっさんからの誘いなんて恐怖でしかないだろう。
「案ずるより産むが易しって言うでしょ。ダメだったらダメだったで通いづらくなるだけだから別にいいじゃない。次行こ、次」
「全然良くねぇよ」
お気に入りの場所も店員さんも失いたくなかったので、とりあえずその案はいったん保留にした。
(今日も無事、終わったなぁ)
多少、段取りの悪い部分はあったが、目立ったミスも特になく終えたことにほっとした。春馬は器用なほうではないから一日一日を終わらせるのに精一杯。だからといって毎日を有意義に過ごしているかというと微妙なところだ。
店内に戻ると最後の客がちょうどレジに立つところだった。成り行きでそのままレジに入る。
「いつも遅くまで頑張ってるね。おつかれさま」
はい、これお食べとポケットから取り出した飴をくれた。彼は来るといつも何かしらおやつをくれる。
春馬が礼を述べると紳士は軽く手を振って去っていった。
「春馬君、そこ引いたらまかない食べて」
厨房の中からマスターの声がして春馬は「はい」と返事をした。テーブルの片付けをしようとして、ソファに本が置いてあることに気づいた。A4サイズの薄いそれは絵のタッチからして絵本であるようだった。
忘れ物。とっさに店の入口に走り表を見回したが、すでに彼はいなかった。
店に戻ると、どうしたの?という風にマスターがこちらを見ていた。
「来栖さん、本を忘れたみたいで」
「あぁ、そのうち取りに来るでしょ」
とりあえず落とし物入れに保管することにした。常連だし他の店員にも言付けて、一応、メッセージも送っておくことにした。
結局、その日のうちに取りに来なかったので、家に帰ってから来栖のSNS公式アカウントにアクセスしてメッセージを送った。登録されているのは本人の名前ではなく所属しているバンド名「Ampersand」のほうだった。
「Ampersand」は春馬の住んでいる地域を拠点とするインディーズバンドである。全国的にみると知っている人は知っている的なコアなファンを持つアーティストだが、リーダーである柿崎来栖はローカル番組でコメンテーターとして出演していたり、地域のイベントでパーソナリティを務めたり、ラジオ番組を持っていたりと地元では知らぬ人はいないというくらいには名物人間である。
*
来栖邸の敷地内の一角にはレコーディングスタジオがある。
もともとの家主である津山将兵は「Ampersand」でドラムを叩く傍ら、本業であるところの津山工務店会長の肩書きを持っている。先代が亡くなった後、代表取締役の座に就いたのをきっかけに実家に戻り、それまで住んでいた本宅を柿崎来栖が買い取った。
いったんは社長の座に専念したものの、次の跡継ぎが育つのを待って津山は早々に音楽の世界に返り咲いた。社長としての肩書が短命だったのはちょうどそのころ、来栖とギタリストの越智和彦がバンドを立ち上げようとしていたからという理由もある。
お家芸の粋を尽くして作られた離れという名の彼の趣味部屋は、バンド結成にあたって本格的なレコーディングスタジオとして生まれ変わり、現在では「Ampersand」の本拠地となっている。
「来栖さん、忘れ物しました?『有栖』って人からメッセージきてますよ」
編集作業に追われている主の横で、悠々とソファにふんぞり返って、菓子など食いつつSNSのチェックをしている越智和彦のもとへ来栖は歩み寄った。
「お前、用が済んだんならもう帰れよ」
「えー、オレにはコメント返しという大役がまだ残ってるんですよ。ファンは大切にしないとー」
それ、家でもできるだろ。という一言を発する労力もこいつのために使いたくなかったのでもう放置することにした。
「有栖」と名乗る人物のTOPページに飛んだが最低限のプロフィールのみで人となりまでは見えてこないものの、メッセージの内容を見る限り、行きつけの喫茶店の店員で間違いないだろう。
絵本、預かってます。とのことだったので、今週中に取りに行きます。と返信した。
「本当に忘れたんですか?」
「忘れたよ」
「ホントにィ?話すきっかけがほしかったんじゃないのォ?」
ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる越智が心底、鬱陶しかった。
「あれでしょ、来栖さんが気になってた子。声が似てるっていう」
「うん」
ショートボブの中性的な面影を思い浮かべた。服装こそ少年らしかったが、柔らかい輪郭や物腰は限りなく少女に近い。そんな繊細そうな外見に反して声は意外と渋く、砂を噛み潰したような、ざらつき感のあるハスキーな声の持ち主だった。
「お礼に食事でも誘ったら?」
「それ下手したら事案に発展しない?」
どこの馬の骨ともわからない初老に足を突っ込んだおっさんからの誘いなんて恐怖でしかないだろう。
「案ずるより産むが易しって言うでしょ。ダメだったらダメだったで通いづらくなるだけだから別にいいじゃない。次行こ、次」
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お気に入りの場所も店員さんも失いたくなかったので、とりあえずその案はいったん保留にした。
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