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その週の土曜日、ラストオーダーの時刻が近づいたころ、来栖が来店した。無事、忘れ物を返すことができてほっとした。
「わざわざ連絡くれてありがとうね。お礼がしたいんだけど、この後、時間ある?」
「えっいや、いいですよ、そんなお礼なんて!」
「そう?おなかすいてない?私、これから食事に行くんだけど良かったら一緒にどう?」
「いや、あの、えっと悪いですよ。そんなのあの、、、っ」
行きます。と来栖の目をまっすぐに見て答えた。決してご飯につられたわけではなく、あこがれの人に誘われて断る殊勝さを持ち合わせていなかったから。
我ながらちょろいと思う。
速攻で後片付けを終え店を出ると、玄関のわきに来栖が立っており幾人かの人と親しげに会話をしている最中だった。
「そっかぁ、残念!じゃあまた今度ねーっ」
「はいはい。また今度ね」
いかにも飲み会帰りと思しきテンション高めの連中は、飲み屋街へと去っていく。
「よかったんですか?」
「うん、知らない人だし」
「えっ」
「ファンの人みたい」
よくあることだという。どこにいてもバレちゃうのよね、なんでだろう。と本人は不思議がっているけれど、たぶんその髪型のせいだと春馬は思う。首から下が英国紳士風であるのに対し、きつめの天然パーマがファンキーな印象を与える。
「私から誘っといてアレだけど、あんまり遅くなったらご両親に怒られたりしない?」
「大丈夫ですよ。ウチの親、放任主義だから」
バイト後、そのまま友達と遊びに行くなんてしょっちゅうだったし、なんならそのままどこかに泊まって帰ることもしばしである。
普段、通い慣れた商店街を来栖と並んで歩く。時刻は22時を少し過ぎたころ。週末とあってこれから町へ繰り出す者、岐路に着く者の喧騒で街中は賑わっていた。大通りに面した角、雑貨屋を左に曲がり、微に入り細に入り入り組んだ細い路地を歩いていくと銀色の建物が見えてきた。壁には「Lagoon」と書かれた文字と人魚の影絵の看板がライトアップされている。
来栖が先に立ってドアを開け、入っていく。春馬もそれに続く。と、ドアの隙間からしっとりとした空気が流れ込んできた。照明の絞られた店内には静かなジャズが流れている。来栖が姿を現すとカウンターの中からちょびひげの親父がきわめて小さな笑みを浮かべて会釈した。カウンターに並んで座る。店内の中ほどの床から不思議な光源が漏れているのが気になった。
「春馬君は何にする?」
「えっとぉ・・・」
メニューのプラカードを見てオムライスを頼んだ。飲み物はいいの?と聞かれたので図々しくも聞き慣れない名前のティーソーダとやらを頼んでみた。
ステージでは女性シンガーがピアノの演奏にのせて歌っている。夜に似合いのしっとりとしたハスキーな歌声。体のラインにぴったりと沿った漆黒のドレスは、まるで人魚姫に出てくる魔女を彷彿させる。そういうと気を悪くしそうだが、歌声で王子様を唆す、謎めいた美しさを称えた魅力的な女性だった。
「こういうところ来たことある?」
問われて春馬は首を振った。
「ないです」
「そう。音楽は好き?」
「好きです」
「どんな音楽を聴いてるの」
んー、と春馬は斜め下に視線を向けた。
「けっこう何でも聴きますよ。あ、でも激しめのはちょっと」
と言いかけてあわてて口をつぐんだ。ロックバンドのアーティストを目の前にして言う発言ではなかった。
「ご、ごめんなさい。でも来栖さんの曲はいいと思う」
「いいよ、そんな気を使わなくても。私もそれ系は苦手だもの」
己の存在を根底から否定しかねない発言に思わず耳を疑った。
「来栖さん、ライブでベース蹴りあげてたじゃないですか、膝で」
「あれは私ではない。何者かの意思に操られている。ライブの最中の記憶があまりないんだよね。ステージ立つ前にいっつもオチに何か含まされてるからアレのせいかなと思うんだけど」
オチというのはギター担当の越智和彦の事だろう。そしておそらく来栖の言うアレは越智お手製の栄養ドリンクのことだ。以前、公式のSNSにレシピが書いてあったから多分そうだろう。それ、大丈夫なヤツですよ。と来栖に伝えると幾分、安心したようだった。
そんな感じで世間話に花を咲かせつつ、途中で料理の追加やらモニターついでに新作のデザートをご馳走になったりと時間は過ぎていった。
「あらあら、今日はずいぶんとかわいらしいお友達をつれているのね」
くすくすと笑いながらジャズシンガーが歩み寄ってきた。するするとテーブルの間をすりぬける、ネコのような軽い身のこなし。
「いらっしゃい、来栖君。こっちに出てたのね」
「こんばんは、艶子さん」
来栖は穏やかなまなざしを女に向ける。瞬時に出来上がった大人同士のしっとりとした雰囲気に置いてきぼりを喰らい、春馬はそっと席を立った。
店内の中央、床から漏れている青い光に近づいてみると、四角くくり抜かれたガラス張りの床越しにマリンブルーの海が広がっていた。足下から照り返す光は天井にまで及び、網目状の波のしじまの影がゆらめいている。
軽快なリズムのピアノ曲が終わりを告げ、打って変わって静かなメロディが流れ始めた。雨粒のような途切れ途切れのメロディはやがて大海原を回遊するかのようなゆったりとした音の連なりへと発展し、さらわれるようにして意識が深く、深海へと潜っていく。周りの景色の一切がにじんで、耳の奥には真空の突き抜けた音だけが聞こえてくる。
なんて心地の良い。
まるで海の底にいるみたい。
「ここはね。人魚の遊ぶ難破船をイメージしてるんだよ」
来栖がこちらへ歩み寄ってくる。意識が浮上する。急激に水揚げされた魚の水圧に似て息が詰まった。
もう少し沈んでいたかった。
小一時間ほどバーで過ごした後、店を出た。別れる間際、電話番号を交換した。
たまにでいいから、こうやっておしゃべりにつき合ってほしいと来栖は言う。断る理由なんてあるはずなかった。
なにしろ春馬にとって来栖は長年、憧れていた人だったから。
「わざわざ連絡くれてありがとうね。お礼がしたいんだけど、この後、時間ある?」
「えっいや、いいですよ、そんなお礼なんて!」
「そう?おなかすいてない?私、これから食事に行くんだけど良かったら一緒にどう?」
「いや、あの、えっと悪いですよ。そんなのあの、、、っ」
行きます。と来栖の目をまっすぐに見て答えた。決してご飯につられたわけではなく、あこがれの人に誘われて断る殊勝さを持ち合わせていなかったから。
我ながらちょろいと思う。
速攻で後片付けを終え店を出ると、玄関のわきに来栖が立っており幾人かの人と親しげに会話をしている最中だった。
「そっかぁ、残念!じゃあまた今度ねーっ」
「はいはい。また今度ね」
いかにも飲み会帰りと思しきテンション高めの連中は、飲み屋街へと去っていく。
「よかったんですか?」
「うん、知らない人だし」
「えっ」
「ファンの人みたい」
よくあることだという。どこにいてもバレちゃうのよね、なんでだろう。と本人は不思議がっているけれど、たぶんその髪型のせいだと春馬は思う。首から下が英国紳士風であるのに対し、きつめの天然パーマがファンキーな印象を与える。
「私から誘っといてアレだけど、あんまり遅くなったらご両親に怒られたりしない?」
「大丈夫ですよ。ウチの親、放任主義だから」
バイト後、そのまま友達と遊びに行くなんてしょっちゅうだったし、なんならそのままどこかに泊まって帰ることもしばしである。
普段、通い慣れた商店街を来栖と並んで歩く。時刻は22時を少し過ぎたころ。週末とあってこれから町へ繰り出す者、岐路に着く者の喧騒で街中は賑わっていた。大通りに面した角、雑貨屋を左に曲がり、微に入り細に入り入り組んだ細い路地を歩いていくと銀色の建物が見えてきた。壁には「Lagoon」と書かれた文字と人魚の影絵の看板がライトアップされている。
来栖が先に立ってドアを開け、入っていく。春馬もそれに続く。と、ドアの隙間からしっとりとした空気が流れ込んできた。照明の絞られた店内には静かなジャズが流れている。来栖が姿を現すとカウンターの中からちょびひげの親父がきわめて小さな笑みを浮かべて会釈した。カウンターに並んで座る。店内の中ほどの床から不思議な光源が漏れているのが気になった。
「春馬君は何にする?」
「えっとぉ・・・」
メニューのプラカードを見てオムライスを頼んだ。飲み物はいいの?と聞かれたので図々しくも聞き慣れない名前のティーソーダとやらを頼んでみた。
ステージでは女性シンガーがピアノの演奏にのせて歌っている。夜に似合いのしっとりとしたハスキーな歌声。体のラインにぴったりと沿った漆黒のドレスは、まるで人魚姫に出てくる魔女を彷彿させる。そういうと気を悪くしそうだが、歌声で王子様を唆す、謎めいた美しさを称えた魅力的な女性だった。
「こういうところ来たことある?」
問われて春馬は首を振った。
「ないです」
「そう。音楽は好き?」
「好きです」
「どんな音楽を聴いてるの」
んー、と春馬は斜め下に視線を向けた。
「けっこう何でも聴きますよ。あ、でも激しめのはちょっと」
と言いかけてあわてて口をつぐんだ。ロックバンドのアーティストを目の前にして言う発言ではなかった。
「ご、ごめんなさい。でも来栖さんの曲はいいと思う」
「いいよ、そんな気を使わなくても。私もそれ系は苦手だもの」
己の存在を根底から否定しかねない発言に思わず耳を疑った。
「来栖さん、ライブでベース蹴りあげてたじゃないですか、膝で」
「あれは私ではない。何者かの意思に操られている。ライブの最中の記憶があまりないんだよね。ステージ立つ前にいっつもオチに何か含まされてるからアレのせいかなと思うんだけど」
オチというのはギター担当の越智和彦の事だろう。そしておそらく来栖の言うアレは越智お手製の栄養ドリンクのことだ。以前、公式のSNSにレシピが書いてあったから多分そうだろう。それ、大丈夫なヤツですよ。と来栖に伝えると幾分、安心したようだった。
そんな感じで世間話に花を咲かせつつ、途中で料理の追加やらモニターついでに新作のデザートをご馳走になったりと時間は過ぎていった。
「あらあら、今日はずいぶんとかわいらしいお友達をつれているのね」
くすくすと笑いながらジャズシンガーが歩み寄ってきた。するするとテーブルの間をすりぬける、ネコのような軽い身のこなし。
「いらっしゃい、来栖君。こっちに出てたのね」
「こんばんは、艶子さん」
来栖は穏やかなまなざしを女に向ける。瞬時に出来上がった大人同士のしっとりとした雰囲気に置いてきぼりを喰らい、春馬はそっと席を立った。
店内の中央、床から漏れている青い光に近づいてみると、四角くくり抜かれたガラス張りの床越しにマリンブルーの海が広がっていた。足下から照り返す光は天井にまで及び、網目状の波のしじまの影がゆらめいている。
軽快なリズムのピアノ曲が終わりを告げ、打って変わって静かなメロディが流れ始めた。雨粒のような途切れ途切れのメロディはやがて大海原を回遊するかのようなゆったりとした音の連なりへと発展し、さらわれるようにして意識が深く、深海へと潜っていく。周りの景色の一切がにじんで、耳の奥には真空の突き抜けた音だけが聞こえてくる。
なんて心地の良い。
まるで海の底にいるみたい。
「ここはね。人魚の遊ぶ難破船をイメージしてるんだよ」
来栖がこちらへ歩み寄ってくる。意識が浮上する。急激に水揚げされた魚の水圧に似て息が詰まった。
もう少し沈んでいたかった。
小一時間ほどバーで過ごした後、店を出た。別れる間際、電話番号を交換した。
たまにでいいから、こうやっておしゃべりにつき合ってほしいと来栖は言う。断る理由なんてあるはずなかった。
なにしろ春馬にとって来栖は長年、憧れていた人だったから。
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