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柿崎来栖の歌声を初めて聞いたのは小学5年生の夏休み。浮き輪用の空気入れを探して押し入れの中を掘り返していた時のこと。厳重に封印されたダンボール箱をみつけたのがきっかけだった。中にはDVDが入っていた。
これ知ってる。エッチな奴だ。と大興奮した。しかし夜中にこっそり起きだして再生してみたところ、ミュージックビデオだった。映し出されたボーカルに春馬は一目で心を奪われた。
流れてきたのは聞いたことのない曲だった。子を思う親の慈愛に満ちた歌詞を光差す景色の中で伸びやかに歌い上げるその歌声がその表情が、そのしぐさのすべてから目が離せない。
こんな風に歌えたら、どんなにか気持ちいいだろう。僕もこの人みたいになりたい。
画面に映っている子の年齢がわりと近そうだったから、余計に親近感を覚えたのだろう。
息子の怪しい行動を察知して起きてきた父親が「これ、お前のじいちゃんだよ」と教えてくれた。この天使のように神々しい人と同じ血が自分に流れているとはとても思えなかったが、よくよく聞いてみるとじいちゃんは後ろでピアノを弾いている、これといって特徴のない人のほうだった。
まぁ、そうだろうな。と納得した。親族・知人いわく、春馬は祖父の生き写しであるらしい。
祖父である広瀬静香は生前、柿崎来栖とともに「来栖静香」という名のユニットを組んでいた。当時、17歳の来栖の愛くるしい容貌と天使のようなソプラノボイスは人々を魅了したという。
某レコード会社に送ったデモテープがプロデューサーの目に留まったのをきっかけにプロデビューを果たした約2年後の人気絶頂期、不慮の事故により広瀬静香が亡くなったのを機に解散した。
それから約17年後「Ampersand」というバンド名で活動を再開した彼の作風はがらりと変化していた。
「Ampersand」略して「あんぱん」はその可愛らしい略称に反してゴリッゴリのロックである。精神に脅迫的なまでにねじ込んでくるサウンドをものともせず、吟じるように朗々と歌い上げる来栖の歌声は呪文の詠唱と喩えられる。漆黒の詰襟ロングコートを身に纏い、時に厳かに時に荒々しく。低きから高きへ、動から静へ、変幻自在の歌声を持つ彼の佇まいはまさに魔法使いそのもので、ファンの間では「相方を亡くしたことで闇落ちしちゃったんだね」とか「ファンの魂を集めて相方復活の儀式に捧げようとしているらしい」とかささやかれるようになった。
*
春馬がバイトする飲食店「松虫堂」は昼間はカフェ、夜は居酒屋のスタイルで経営している。高校生の春馬が入るのは主に平日午後からで土日祝日は朝から入れるようにしている。この日は9時から夕方16時までのシフトだった。
客の入りは一日のうちに波がある。昼食をとるには遅い14時。一人帰ってテーブルのバッシングを終えた頃に一人来る、というような人波もついに途絶え、店内にはまったりとした時間が流れていた。
「春馬君、少し早いけど夜の準備に取り掛かろうか」
箸を箸袋に入れる作業に没頭していた春馬は作業を中断した。「松虫堂」の夜のメニューは主に煮物や魚料理などを中心としたおばんざい系である。この界隈の商人は商魂が希薄なのか店じまいがわりと早い。だからいいんだよ。とはマスターの談である。実際、遅くまで開いている「松虫堂」の窓から漏れる光に誘われるように、会社帰りのサラリーマンやちょっとおしゃべりしたいOLたちが寄って帰るにはちょうどいいと評判をいただいている。
カウンター脇の棚からカトラリーセットを取り出す。一席ずつにランチョンマットと箸と箸置き、取り皿をあらかじめ準備しておく。おしぼりの交換、滅菌・・・、と効率よく作業を進めていくとよい時間になった。
「春馬君、まかないは?」
「僕、この後、予定があるんです」
「デートなのよね?」
予めまかないがいらないことを知らせていた洋子がニヤニヤする。そんなんじゃないですよ、と否定するより早く、マジで!!と哲郎が食いついてきた。
「春馬君、彼女出来たんだ?なになに、どんな子?」
写真くらいあるだろ、見せろよーと迫ってくるマスターにそんなんじゃないです。ときっぱり否定した。そうこうしているうちに午後からのバイトが来て軽い引継ぎをしてから本日の業務は終了。
店を出て裏口に回ると、既に来栖が迎えに来ていた。仕事の打ち合わせでこちらまで出向いていたという彼と小一時間ほど「Lagoon」で過ごしてから、車は夜の街を静かに走り出した。繁華街を抜け、住宅街に入る。マンションやら飲食店、美容院、雑居ビルが建ち並ぶ、いかにも寂れた雰囲気の単調な景色が続く。車は方向的に春馬の自宅へと向かっているものの、人ごみを避けつつ、遠回りしているのがなんとなくわかる。ちょっとしたドライブ気分だった。
「つまらないかい?」
窓の外から視線を室内に戻した。
「全然。夜のドライブ好きだし。あと、雨の日のドライブも好きですよ」
雨の日の狭い空間のしっとりとこもった感じだとか、静かに流れる音楽だとかの雰囲気がいい。
「なんとなくわかるよ、私も好きだ。じゃあ今度は雨の日にドライブしよう。どこか行きたいところある?」
「どこでもいいですよ。来栖さんの好きな所でいいよ」
「そう?私、おうちが一番落ち着くんだけど」
「いいですよ。僕、お邪魔してもいいなら」
「じゃあ、そうしよう。私お昼ご飯作るよ」
何作ろうかな?苦手な食べ物ある?と当日の予定を立てる来栖はやたら楽しげで無邪気に見えた。
運転席側の窓の向こうに綺麗に舗装された歩道が現れた。背丈の低い樹木やら花壇を垣根代わりにして道路と隔てられたその小道は、レトロチックな街灯の淡い光の下、謎めいた雰囲気を醸し出しており、心を惹かれた。
「ねぇ、来栖さん。あそこは何」
ごく自然に来栖の袖を引いた自分の行動に驚いてあわてて手をどけた。馴れ馴れしかっただろうかとそっと窺うと、特に気を悪くした風でもなく、ん?という風に視線をそちらに向けた。
「あぁ、ここはね、旧道だよ。私らが子供ン時には列車が走ってた。今は埋め立てられてるけどね。行ってみる?」
先に春馬を車から降ろすと、この先に駐車場があるから止めてくると言っていったん来栖は車を出した。
春馬は垣根の切れ目を渡り、舗装された道に立った。此方から彼方を望む。長い。等間隔の常夜灯に照らし出された道はどこまでもどこまでも緩やかなカーブを描いて続いている。道なりに進んでいくと小さな橋が見えてきた。向こう側から来栖が歩いてくる。走り寄ろうとして強い風が吹いてきた。
彼方から此方へと風が吹き抜ける。長い一本道を。頬をかすめる風の冷たさに春馬は目を瞑って顔を背けた。シャツがはためく。
目を開くとそこに、薄紅の花びらが2、3枚、宙に舞っていた。
それらは舞い遊びながら風に流され飛んでいく。少し先でくるりと大きく緩やかな曲線を描いて一回転し、いつまでも消えることなく、夜空へ運ばれていった。
「今の見た?風が通り抜けた」
花びらの行方を追って呆けたように立ち尽くす来栖の横顔は、あまりにも無防備で無垢な幼子の表情をしていた。
「風って渦を巻くんだねぇ」
思わず感嘆したくなる、その気持ちわかる。知識として知っているのと実際に見るのとでは感動がまるで違うから。
「来栖さん、この道はどこまで続いてるの?」
「行ってみようか」来栖は答えを知っているようで、歌うように告げた。
真夜中の散歩はなんだか妙に胸が弾んだ。ずっと並んで歩いていくと、行き止まりにプラットホームが見えてきた。「ここが終点ね」と指差した駅の看板には「風のとおりみち」と書かれていた。奥には見事な枝振りのしだれ桜が一本植わっており、薄桃色の袖に抱かれるように小さなお稲荷さんが建っていた。
花びらはここから流れてきたのだ。
注連縄の巻かれた桜は、半ば葉桜に変わっていた。
「あ、有栖君」
呼ばれてそちらを見ると、自転車にまたがった横田京子が少し離れた場所からこちらを窺っていた。彼女の視線は主に来栖(の頭)に注がれていた。前カゴには小さな柴犬が前足をカゴのふちに上手にかけてちょこんと収まっていた。
「こんな時間にお花見?」
「うん、まぁね。キョンちゃんはわさびのお散歩?」
「そ。でもコイツ、もうダメだ。すぐへばっちゃう」
「そりゃあしょうがないよ、もうおじいちゃんだもん」
小さくてもおじいちゃんの豆柴犬わさびは来栖に頭を撫でられて、愛嬌を振りまいている。
「ていうかあの、もしかして来栖さんですよね?!」
ついにたまりかねたように尋ねる京子に、来栖は「いいえ、違います。よく似てるって言われます」と何食わぬ顔でシラを切った。
「絶対本人だし」
本人がかたくなに認めようとしないので京子はあきらめて無理やり来栖の頭から視線をはがした。
彼女が何か言いたそうにしているので、春馬は間をあけた。言いたいことはなんとなくわかったが。
「ねぇ有栖君、まだ声、出しづらい?」
「う・・・ん、つらくはないけどもう高音は出ないよ」
春馬は喉に手をやった。そっか、しょうがないよねと京子が目を伏せる。
「でも有栖君のキーなら他にもたくさん、歌える曲あるでしょ」
「こんな声じゃ聴かせられないよ」
「えー、気にしすぎだよ。また前みたいに一緒に歌おうよ。最近、オフ会にも全然来ないじゃん」
「ちょっと忙しくて」
ネット上で知り合った歌好きなメンバーが寄り集まってできたオフ会だ。声が出なくなってから自然と足が遠のいたというのが本当のところだったが、なんとなくそれは言いにくかった。そんな春馬の心境は京子にも伝わっているようで、それ以上の言及はない。
オフ会は無理でもさ、また一緒に遊ぼうよ。
約束をして別れを告げた。桜の花びらの舞い散る向こうに、京子の後ろ姿が小さくなっていく。わさびに手を振る来栖の肩にも髪にも薄桃色の花びらがこぼれていた。髪なんて、すぐにもじゃもじゃの密林の中に紛れ込んでしまいそうで春馬は背伸びして一枚一枚、取り除く。
「アリス君」
「はい」来栖に呼ばれてぎこちなく返事した。あまり触れられたくない名だったから。
「どっちの名前が本当なの?」
「春馬です。高野春馬」
春馬にとっては両方とも本当の名前だ。母親によると春馬が女の子だったら「有栖」と名づける予定だったらしい。春馬としては男の子であっても「有栖」のほうがよかった。気に入っている名前だからネット上ではそちらを使っている。
「君は音楽をやっているの。バンドとか」
「はい。ユニットを組んでました」
「それ見てみたい。なんて名前?」
「「ユーフォルビア」です。もうやってませんよ」
「なんでまた、もったいない」
「声変わりで声が出なくなったんです」
ふぅん、と来栖はつまらなさそうに息を漏らした。
「もう終わりだね」
来栖の視線を追って春馬は桜を見上げた。
「ちょっと遅かったですね」
「また来年も咲くさ」
音もなく散っていく。地面に落ちればわだかまるばかりだから、わずかな時間を謳歌するように風に舞い遊ぶ。
(焦っちゃうよ)
そんなに急いでいかなくてもいいのに。
吹いてきた風がざわざわと枝を揺らす。
ざわざわと春馬の心を焦らす。
このままでいいの。何かやり残しているんじゃないのかと急かす。それでいて、気ばかりが焦ってどうしていいのかわからない。
早くしなきゃ僕には時間が無い―――。そんな思いに突き動かされて歌っていた時期もある。周囲では同級生たちが声変わりを迎え、いつ訪れるともわからないタイムリミットに急き立てられるように。けれども高校2年の春、風邪で高熱を出して寝込んだのをきっかけに一時的に声がまったく出なくなった。風邪そのものは3日も休んでいれば良くなったが、3ヶ月が過ぎ半年が過ぎても本調子に戻らず、相当焦ってそれこそ血の滲むような思いで発声練習を積んだものの悪化する一方で、本気でのどの病気を疑い父親に相談したが、返ってきた言葉はより深刻なものだった。
「お前、それ声変わりだよ」
気づいたときには既に春馬の声は、修復出来ないほどに潰れていた。
人はいずれ成長する。それはしょうがないとして。ではいつから声変わりは始まっていたのか、変化に気づかぬまま歌声を披露していたのかと思うと居ても立ってもいられなくなってそれまでのイベントや動画サイトに上げた動画をチェックしたところ、声のゆがみは年代を追うごとにひどくなっていた。最後のほうなんてもう聴けたものじゃない。不思議なことにこれまで何度も見てきたはずなのにまったく気づかなかった。
それ以来、自分の声を聞くのが恐ろしくなって動画類はすべて封印した。
これ知ってる。エッチな奴だ。と大興奮した。しかし夜中にこっそり起きだして再生してみたところ、ミュージックビデオだった。映し出されたボーカルに春馬は一目で心を奪われた。
流れてきたのは聞いたことのない曲だった。子を思う親の慈愛に満ちた歌詞を光差す景色の中で伸びやかに歌い上げるその歌声がその表情が、そのしぐさのすべてから目が離せない。
こんな風に歌えたら、どんなにか気持ちいいだろう。僕もこの人みたいになりたい。
画面に映っている子の年齢がわりと近そうだったから、余計に親近感を覚えたのだろう。
息子の怪しい行動を察知して起きてきた父親が「これ、お前のじいちゃんだよ」と教えてくれた。この天使のように神々しい人と同じ血が自分に流れているとはとても思えなかったが、よくよく聞いてみるとじいちゃんは後ろでピアノを弾いている、これといって特徴のない人のほうだった。
まぁ、そうだろうな。と納得した。親族・知人いわく、春馬は祖父の生き写しであるらしい。
祖父である広瀬静香は生前、柿崎来栖とともに「来栖静香」という名のユニットを組んでいた。当時、17歳の来栖の愛くるしい容貌と天使のようなソプラノボイスは人々を魅了したという。
某レコード会社に送ったデモテープがプロデューサーの目に留まったのをきっかけにプロデビューを果たした約2年後の人気絶頂期、不慮の事故により広瀬静香が亡くなったのを機に解散した。
それから約17年後「Ampersand」というバンド名で活動を再開した彼の作風はがらりと変化していた。
「Ampersand」略して「あんぱん」はその可愛らしい略称に反してゴリッゴリのロックである。精神に脅迫的なまでにねじ込んでくるサウンドをものともせず、吟じるように朗々と歌い上げる来栖の歌声は呪文の詠唱と喩えられる。漆黒の詰襟ロングコートを身に纏い、時に厳かに時に荒々しく。低きから高きへ、動から静へ、変幻自在の歌声を持つ彼の佇まいはまさに魔法使いそのもので、ファンの間では「相方を亡くしたことで闇落ちしちゃったんだね」とか「ファンの魂を集めて相方復活の儀式に捧げようとしているらしい」とかささやかれるようになった。
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春馬がバイトする飲食店「松虫堂」は昼間はカフェ、夜は居酒屋のスタイルで経営している。高校生の春馬が入るのは主に平日午後からで土日祝日は朝から入れるようにしている。この日は9時から夕方16時までのシフトだった。
客の入りは一日のうちに波がある。昼食をとるには遅い14時。一人帰ってテーブルのバッシングを終えた頃に一人来る、というような人波もついに途絶え、店内にはまったりとした時間が流れていた。
「春馬君、少し早いけど夜の準備に取り掛かろうか」
箸を箸袋に入れる作業に没頭していた春馬は作業を中断した。「松虫堂」の夜のメニューは主に煮物や魚料理などを中心としたおばんざい系である。この界隈の商人は商魂が希薄なのか店じまいがわりと早い。だからいいんだよ。とはマスターの談である。実際、遅くまで開いている「松虫堂」の窓から漏れる光に誘われるように、会社帰りのサラリーマンやちょっとおしゃべりしたいOLたちが寄って帰るにはちょうどいいと評判をいただいている。
カウンター脇の棚からカトラリーセットを取り出す。一席ずつにランチョンマットと箸と箸置き、取り皿をあらかじめ準備しておく。おしぼりの交換、滅菌・・・、と効率よく作業を進めていくとよい時間になった。
「春馬君、まかないは?」
「僕、この後、予定があるんです」
「デートなのよね?」
予めまかないがいらないことを知らせていた洋子がニヤニヤする。そんなんじゃないですよ、と否定するより早く、マジで!!と哲郎が食いついてきた。
「春馬君、彼女出来たんだ?なになに、どんな子?」
写真くらいあるだろ、見せろよーと迫ってくるマスターにそんなんじゃないです。ときっぱり否定した。そうこうしているうちに午後からのバイトが来て軽い引継ぎをしてから本日の業務は終了。
店を出て裏口に回ると、既に来栖が迎えに来ていた。仕事の打ち合わせでこちらまで出向いていたという彼と小一時間ほど「Lagoon」で過ごしてから、車は夜の街を静かに走り出した。繁華街を抜け、住宅街に入る。マンションやら飲食店、美容院、雑居ビルが建ち並ぶ、いかにも寂れた雰囲気の単調な景色が続く。車は方向的に春馬の自宅へと向かっているものの、人ごみを避けつつ、遠回りしているのがなんとなくわかる。ちょっとしたドライブ気分だった。
「つまらないかい?」
窓の外から視線を室内に戻した。
「全然。夜のドライブ好きだし。あと、雨の日のドライブも好きですよ」
雨の日の狭い空間のしっとりとこもった感じだとか、静かに流れる音楽だとかの雰囲気がいい。
「なんとなくわかるよ、私も好きだ。じゃあ今度は雨の日にドライブしよう。どこか行きたいところある?」
「どこでもいいですよ。来栖さんの好きな所でいいよ」
「そう?私、おうちが一番落ち着くんだけど」
「いいですよ。僕、お邪魔してもいいなら」
「じゃあ、そうしよう。私お昼ご飯作るよ」
何作ろうかな?苦手な食べ物ある?と当日の予定を立てる来栖はやたら楽しげで無邪気に見えた。
運転席側の窓の向こうに綺麗に舗装された歩道が現れた。背丈の低い樹木やら花壇を垣根代わりにして道路と隔てられたその小道は、レトロチックな街灯の淡い光の下、謎めいた雰囲気を醸し出しており、心を惹かれた。
「ねぇ、来栖さん。あそこは何」
ごく自然に来栖の袖を引いた自分の行動に驚いてあわてて手をどけた。馴れ馴れしかっただろうかとそっと窺うと、特に気を悪くした風でもなく、ん?という風に視線をそちらに向けた。
「あぁ、ここはね、旧道だよ。私らが子供ン時には列車が走ってた。今は埋め立てられてるけどね。行ってみる?」
先に春馬を車から降ろすと、この先に駐車場があるから止めてくると言っていったん来栖は車を出した。
春馬は垣根の切れ目を渡り、舗装された道に立った。此方から彼方を望む。長い。等間隔の常夜灯に照らし出された道はどこまでもどこまでも緩やかなカーブを描いて続いている。道なりに進んでいくと小さな橋が見えてきた。向こう側から来栖が歩いてくる。走り寄ろうとして強い風が吹いてきた。
彼方から此方へと風が吹き抜ける。長い一本道を。頬をかすめる風の冷たさに春馬は目を瞑って顔を背けた。シャツがはためく。
目を開くとそこに、薄紅の花びらが2、3枚、宙に舞っていた。
それらは舞い遊びながら風に流され飛んでいく。少し先でくるりと大きく緩やかな曲線を描いて一回転し、いつまでも消えることなく、夜空へ運ばれていった。
「今の見た?風が通り抜けた」
花びらの行方を追って呆けたように立ち尽くす来栖の横顔は、あまりにも無防備で無垢な幼子の表情をしていた。
「風って渦を巻くんだねぇ」
思わず感嘆したくなる、その気持ちわかる。知識として知っているのと実際に見るのとでは感動がまるで違うから。
「来栖さん、この道はどこまで続いてるの?」
「行ってみようか」来栖は答えを知っているようで、歌うように告げた。
真夜中の散歩はなんだか妙に胸が弾んだ。ずっと並んで歩いていくと、行き止まりにプラットホームが見えてきた。「ここが終点ね」と指差した駅の看板には「風のとおりみち」と書かれていた。奥には見事な枝振りのしだれ桜が一本植わっており、薄桃色の袖に抱かれるように小さなお稲荷さんが建っていた。
花びらはここから流れてきたのだ。
注連縄の巻かれた桜は、半ば葉桜に変わっていた。
「あ、有栖君」
呼ばれてそちらを見ると、自転車にまたがった横田京子が少し離れた場所からこちらを窺っていた。彼女の視線は主に来栖(の頭)に注がれていた。前カゴには小さな柴犬が前足をカゴのふちに上手にかけてちょこんと収まっていた。
「こんな時間にお花見?」
「うん、まぁね。キョンちゃんはわさびのお散歩?」
「そ。でもコイツ、もうダメだ。すぐへばっちゃう」
「そりゃあしょうがないよ、もうおじいちゃんだもん」
小さくてもおじいちゃんの豆柴犬わさびは来栖に頭を撫でられて、愛嬌を振りまいている。
「ていうかあの、もしかして来栖さんですよね?!」
ついにたまりかねたように尋ねる京子に、来栖は「いいえ、違います。よく似てるって言われます」と何食わぬ顔でシラを切った。
「絶対本人だし」
本人がかたくなに認めようとしないので京子はあきらめて無理やり来栖の頭から視線をはがした。
彼女が何か言いたそうにしているので、春馬は間をあけた。言いたいことはなんとなくわかったが。
「ねぇ有栖君、まだ声、出しづらい?」
「う・・・ん、つらくはないけどもう高音は出ないよ」
春馬は喉に手をやった。そっか、しょうがないよねと京子が目を伏せる。
「でも有栖君のキーなら他にもたくさん、歌える曲あるでしょ」
「こんな声じゃ聴かせられないよ」
「えー、気にしすぎだよ。また前みたいに一緒に歌おうよ。最近、オフ会にも全然来ないじゃん」
「ちょっと忙しくて」
ネット上で知り合った歌好きなメンバーが寄り集まってできたオフ会だ。声が出なくなってから自然と足が遠のいたというのが本当のところだったが、なんとなくそれは言いにくかった。そんな春馬の心境は京子にも伝わっているようで、それ以上の言及はない。
オフ会は無理でもさ、また一緒に遊ぼうよ。
約束をして別れを告げた。桜の花びらの舞い散る向こうに、京子の後ろ姿が小さくなっていく。わさびに手を振る来栖の肩にも髪にも薄桃色の花びらがこぼれていた。髪なんて、すぐにもじゃもじゃの密林の中に紛れ込んでしまいそうで春馬は背伸びして一枚一枚、取り除く。
「アリス君」
「はい」来栖に呼ばれてぎこちなく返事した。あまり触れられたくない名だったから。
「どっちの名前が本当なの?」
「春馬です。高野春馬」
春馬にとっては両方とも本当の名前だ。母親によると春馬が女の子だったら「有栖」と名づける予定だったらしい。春馬としては男の子であっても「有栖」のほうがよかった。気に入っている名前だからネット上ではそちらを使っている。
「君は音楽をやっているの。バンドとか」
「はい。ユニットを組んでました」
「それ見てみたい。なんて名前?」
「「ユーフォルビア」です。もうやってませんよ」
「なんでまた、もったいない」
「声変わりで声が出なくなったんです」
ふぅん、と来栖はつまらなさそうに息を漏らした。
「もう終わりだね」
来栖の視線を追って春馬は桜を見上げた。
「ちょっと遅かったですね」
「また来年も咲くさ」
音もなく散っていく。地面に落ちればわだかまるばかりだから、わずかな時間を謳歌するように風に舞い遊ぶ。
(焦っちゃうよ)
そんなに急いでいかなくてもいいのに。
吹いてきた風がざわざわと枝を揺らす。
ざわざわと春馬の心を焦らす。
このままでいいの。何かやり残しているんじゃないのかと急かす。それでいて、気ばかりが焦ってどうしていいのかわからない。
早くしなきゃ僕には時間が無い―――。そんな思いに突き動かされて歌っていた時期もある。周囲では同級生たちが声変わりを迎え、いつ訪れるともわからないタイムリミットに急き立てられるように。けれども高校2年の春、風邪で高熱を出して寝込んだのをきっかけに一時的に声がまったく出なくなった。風邪そのものは3日も休んでいれば良くなったが、3ヶ月が過ぎ半年が過ぎても本調子に戻らず、相当焦ってそれこそ血の滲むような思いで発声練習を積んだものの悪化する一方で、本気でのどの病気を疑い父親に相談したが、返ってきた言葉はより深刻なものだった。
「お前、それ声変わりだよ」
気づいたときには既に春馬の声は、修復出来ないほどに潰れていた。
人はいずれ成長する。それはしょうがないとして。ではいつから声変わりは始まっていたのか、変化に気づかぬまま歌声を披露していたのかと思うと居ても立ってもいられなくなってそれまでのイベントや動画サイトに上げた動画をチェックしたところ、声のゆがみは年代を追うごとにひどくなっていた。最後のほうなんてもう聴けたものじゃない。不思議なことにこれまで何度も見てきたはずなのにまったく気づかなかった。
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