冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―

唯 さらら

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第三章 帝国の象徴〈序〉

2 皇帝と側近

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── 帝城・執務室 ──

「……大丈夫でしょうか。姫君はまだ理解していらっしゃりません。
 象徴の意味を、ご自分の立場の重さを」

セヴランの低い声が、積み上がった文書の影に落ちた。

厚い石壁に囲まれた部屋は、外界の音をすべて拒むように静まり返っている。
窓から射す午後の淡い光が、深灰の絨毯と金糸の縁をかすめ、机上の封蝋を鈍く照らした。
紙を繰る音が、その静けさの中で唯一の呼吸のように続く。

ダリオスは筆を走らせながら、視線を上げることもなく淡々と答える。
「理解する必要はない」

さらりと紙を繰りながら、冷ややかな声が続く。
「象徴は考えるものではなく、映されるものだ。見る者が意味を与える――それで十分だ」

「臣民には安心を。諸国には畏れを。宮廷には……教訓を」
セヴランが言葉を繋ぐ。

「そうだ」
ダリオスはゆるやかに笑みを刻む。
「覇と慈悲、その両方を象徴させる。それがあの娘の務めだ」

黒い瞳が書簡から離れ、窓外の白光を映す。
「一年目は恐怖でよかった。滅ぼした王国と、手籠めにした末姫――その噂だけで、十分に従わせられた」

セヴランはわずかに頷く。
「……血統の誇りすら屈服する、と」

「だが」
皇帝の声が鋭く切る。
「恐怖はいつか鈍る。二年目からは策を変えねばならん」

彼は椅子の背に身を預け、低く言い放った。
「覇だけでは人は縛れない。安堵を与え、慈悲を示してこそ抗う理由を奪える。恐怖に溺れた者の喉元へ、甘い水を垂らす――それで従順は完成する」

セヴランは一瞬だけ躊躇い、それでも口を開いた。
「……逃亡の噂も、その一環で利用されるおつもりですか」

「利用しない手はない」

ダリオスは動じず、掌に重ねた書簡を机へと無造作に戻した。
「逃げても結局は掌に戻る。その物語は“覇”を補強し、生かして庇護する姿は“慈悲”を演出する。噂は逆らう者と従う者、両方に示す枷となる」

黒い瞳がセヴランを射抜いた。
「忘れるな――俺が手を離さぬ限り、あの娘の生も死も、帝国の象徴としての価値も、すべて俺の掌にある」

「御意。しかし……」
セヴランは一拍置き、思考を沈めた。

最初にダリオスから「王女を象徴として立たせる」と聞かされたときも、セヴランは一度反対を口にした。だが皇帝の御意とあらば、従うしかない。渋々ながらも承知したのだ。

それでも――今日、謁見の間で目にした王女の姿。
己の立場を理解せぬまま、ただ羞恥と憤怒に震えていたその様子が、再び彼の胸に懸念を呼び覚ましていた。

「……しつこいようですが、ご自分の置かれている立場を理解していない姫君をそのまま夜会に立たせれば、思わぬほころびを招くやもしれません」

筆を止め、ダリオスが顔を上げる。
黒曜の瞳が静かに射抜いた。

「心配するな。そのために“昼の式典”ではなく“夜会”にしたのだ。群衆の前ではなく、俺の掌で制御できる場――そこで象徴を示させればいい」

セヴランはわずかに唇を結び、やがて答えの代わりに深く息を吐いた。

再び文書に目を落とす前に、ダリオスがふと声を落とす。
「……装いは帝国式で整えろ。ただし――ひとつだけ、あの国の色を残せ」

一瞬の沈黙。セヴランは瞼を伏せ、静かに頷いた。
「御意」

その返答を聞くと、ダリオスはそれ以上言葉を費やさず、視線を文書へ戻した。
筆先が再び紙面を走り、室内にはその音だけが響く。

すでに手は次の案件に移っている。先ほどのやり取りは彼にとって片付いた事柄にすぎなかった。
机上に傾けられた横顔には揺るぎない冷徹さが宿っている。
だが、その奥に何を抱いているのか――セヴランには読み切れなかった。

皇帝にとっては片付いた事柄でも、セヴランの胸にはなおざわめきが残っていた。



ダリオスは、当初は王女をただ古き血統を帝国に繋ぐための道具として扱うつもりでいたはずだ。
世間知らずの姫であれば、王宮の奥深くに置かれ、血統を繋ぐ役割だけを果たすのが最も望ましい――セヴランにとっても、それは理にかなった判断だった。

だが、どこかで皇帝の方針が変わった。
何がきっかけであったのかは、わからない。
ただひとつ言えるのは――
王女の逃亡がなければ、間違いなく今回の決定には至らなかった、ということだ。

王女の面影が、セヴランの脳裏に一瞬よぎった。
国境で泣き崩れていた、あの無力な姿。

彼女はきっと、皇帝の掌の上で理不尽に振り回されていると思っていることだろう。

だが、彼女自身の行動――逃亡という一幕が、
「帝国の象徴」という役割へと繋げたのだ。

――それが彼女にとって望ましいものであるかどうかは、別として。
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