冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―

唯 さらら

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第三章 帝国の象徴〈序〉

3 夜会

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── 夜会 帝城・大広間 ──

天井高く吊るされた無数の灯火が、夜空の星々のように輝きを放っていた。
音楽が流れ、杯が交わされるたび、華やかなざわめきが広間を満たす。

壇上に立つ皇帝ダリオスが、ゆるやかに杯を掲げる。
「――この日をもって帝国は一年を迎えた」
低く響く声が、石造りの大広間を包み込む。

祝辞は簡潔に終わり、やがて楽の調べが再び響きだした。
杯と料理が供され、歓談の時が訪れる。

だが、その賑わいの底には別のざわめきがあった。

「今夜、亡国の姫が姿を現すらしい」
「ほう……捕らえられてから一年、公の場には一度も姿を見せなかったはずだが」

囁きは杯の縁に隠れるように交わされる。

「ここだけの話……一度は逃げたそうだ」
「逃げた?」

「まぁ!」
驚きの声を抑えきれぬ夫人の声。

「もちろん、すぐに陛下の御手の中に戻ったらしいが……」
「それでもなお傍に置いておられるとは……あの方らしくないご判断だ」

重々しい声音に、別の影がすぐさま軽口を重ねる。

「まさか、姫君に御心を?」
「しっ……声を落として」

視線の先では楽士が弦を奏で、舞の一団が華やかに踊っている。だが貴族たちの耳と心は、舞よりも噂に傾いていた。

「いや、罰として昼は下働きに混じって労役、夜は鎖に繋がれているらしいぞ」

忍び笑いがいくつか広がる。
「さすがは陛下だ」 

そうした囁きを得意げに口にする者がいる一方で、別の卓では眉をひそめる声もあった。

「……王族をことごとく粛清し、王女だけを辱めて生かすとは」
「血統を誇る者にとっては、あまりに手荒な御業だ」
「陛下の覇を疑うわけではないが……伝統に対する敬意を欠くのではないか」

ひそやかな声色には畏れと戸惑いが入り混じり、杯を傾ける手の陰で、鋭い視線が交わされていた。

さらに、その光景を遠巻きに眺める周辺諸国の使節たちもいた。
「……血筋を潰すのではなく、生かして晒すか」
「逃げても結局は黒獅子の掌に戻った。逆らえば滅び、従えば庇護を得る――そう見せつけたいのだろう」
「ふむ……我らの国も、軽々しく逆らえば同じ運命かもしれぬな」

杯を傾ける仕草の陰で交わされる囁きは、羨望でも侮蔑でもなく、ただ冷ややかな畏怖を帯びていた。

やがて広間全体のざわめきは、ひとつの名を待ち望む空気に変わっていく。

その時、皇帝が再び壇上に歩み出た。
杯を置き、ゆるやかに指を動かす。

それだけで楽の音がすっと途絶え、ざわめきが吸い込まれるように消えた。
すべての視線が一斉に入口へと注がれる。

──そして扉が開かれる。

王女が現れた。

帝国式の衣装に身を包み、髪も飾りもすべて帝国の色に整えられている。
ただひとつ、胸元にだけ異彩があった。

それは王女の故国の王家の紋章を細工してあしらったブローチ。
意匠そのものは帝国式の衣装に馴染むよう巧みに仕立てられていたが、目を凝らせば誰もがそれが亡き王家の印であるとわかった。

参列者の間にざわめきが広がる。
「……あれは」
「滅んだ王家の紋章を……帝国の礼装に?」

王女は喉の奥に鉄の味を覚えた。
胸元の装飾は、彼女にとって「家名を辱められて晒されている」感覚そのものであった。

すべての視線が、彼女に突き刺さる。
憧憬の色、蔑みの色、畏怖の色――形は違えど、すべての眼差しが彼女を串刺しにする。
逃げ場はどこにもなかった。

(……家名を、生き残ったことを、笑いものにされている)

心臓が鷲掴みにされるように脈打ち、両の足は鉛のように重くなる。
呼吸が浅くなり、胸の奥で怒りと羞恥が煮え立つのに、それを吐き出す言葉はひとつも見つからなかった。

そのブローチを目にしたダリオスの瞳がわずかに細まる。
傍らに控えるセヴランに視線を送ることはなかったが、心の奥でふっと笑った。

――だいぶ、強気な印にしたものだな。

ダリオスからのセヴランへの指示は、
王女の国を想起させるものを一つだけ身に着けさせろ、ということだけだった。

その指示に応え、セヴランが選んだのは――
「王家の血筋は完全に皇帝の掌に収まった」と参列者へ誇示するための印だった。
周辺諸国にとっては挑発にも等しい強烈なメッセージ。
だが、それを許すことこそ、この夜会の意味であった。

広間のあちこちで、さざ波のように反応が広がっていく。

憧憬の眼差しを隠さない貴族たち。
「あれが……亡国の姫か」
「まだ若いな」
「血筋の証をここまで従わせるとは……陛下の御威光に他ならぬ」

眉をひそめ、杯を持つ手を強張らせる老臣たち。
「……王家の紋章を、あのように……」
「伝統を辱めてなお誇るか……」

そして、遠巻きに視線を交わす周辺諸国の使節たち。
「……あれが“黒獅子”のやり口か」
「象徴で人心を縛る――黒獅子は血より怖い」
「……紋章をあえて残すか。……まったく恐ろしい演出だ」

広間のざわめきが少しずつ収束していく。
すべての視線が王女に注がれる中、壇上の皇帝がゆるやかに手を差し伸べる。

「来い」

低く響く声。
王女は一歩、また一歩と足を進め、やがて壇上へと導かれた。

高台の上に並び立つと、帝国の灯火が二人の影を床に長く落とす。
ダリオスは片手を掲げ、参列者へと告げた。

「――見よ。これが帝国の象徴だ」

声は飾り気なく、ただ事実を告げるのみ。
だがその響きは、広間の隅々まで鋭く浸透していく。

「覇を示す証。滅びの血統すら我が掌にあるという事実。
 そして慈悲を示す証。処刑ではなく庇護の下に生かされ、こうして帝国に立つという姿。
 ここにあるのは、帝国の覇と慈悲――その両方だ」

言葉が落ちるたび、参列者の息づかいが変わる。
憧憬の眼差し、眉根に潜む逡巡、畏怖の沈黙。
そのすべてを束ねて、皇帝の言葉が広間を支配していた。




石床に響く自らの足音が、やけに大きく耳に刺さる。
一歩ごとに、逃げ場のない檻の奥へ押し込まれていくようだった。

壇上に立った瞬間、空気が変わった。
数百の視線が一斉に自分へ注がれる。
その熱と重さに、胸が潰れそうになる。

(……これは祝宴じゃない。私にとっては――処刑台だ)

王女はそう思った。
血が凍るような羞恥と屈辱の中で、呼吸すら浅くなる。
だが逃げることはできなかった。

広間に集った人々の眼差し。
好奇に値踏みする目。
蔑みを隠そうともしない冷笑。
そして、あからさまに憐れむような視線。

どれもが、自分という存在を串刺しにしていた。
晒されているのは家名だけでなく、彼女自身の生そのものだった。

足元が揺れる錯覚の中、ただ一人、傍らに立つ男だけが揺るがぬ存在感を放っていた。
壇上に並び立つ皇帝――ダリオス。

彼の影が、長く、重く、王女を覆っていた。
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