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第三章 帝国の象徴〈序〉
4 亡国の王女の務め
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── 夜会 帝城・大広間 ──
杯が行き交い、音楽が再び広間を満たす。
王女は檀上から降りたのちも、ダリオスの傍らに立たされていた。
次々と近づく人影。
「お美しい……陛下の御慈悲に感謝を」
「亡国の血統が、こうして帝国の装いを纏うとは。まさに新時代の証ですな」
どの声も、彼女を称えるのではなく、その存在を利用して皇帝を讃えている。
王女は笑うことも拒むこともできず、曖昧に頷き、口の端をわずかに動かすしかなかった。
杯を掲げる手の陰で、熱のこもった視線や、冷ややかな侮蔑の囁きが交錯する。
そのすべてが、ダリオスの傍らに立つ王女を縫いとめていた。
誰かがふと、杯を掲げる合間に笑みを浮かべながら口にした。
「そういえば……姫君はかつて城を抜け出されたとか」
ざわ、と軽い波が立つ。
ダリオスは杯を揺らしながら、淡々と答えた。
「なに、少し庭を散歩させていただけですよ」
場に笑いが広がる。
「さすがは陛下……お心の広さは大地にも勝りますな」
「なるほど……姫君の行動は全て、陛下の掌のうちというわけですな」
言葉の端々に、皇帝を讃えると同時に王女を嘲る響きが潜んでいた。
喉の奥が乾き、胸の内側に鉛のような重さが積もっていく。
立っているだけなのに、全身が粛然とした疲労に包まれる。
杯を掲げる笑顔のひとつひとつが、鋭い針のように肌を刺し、足先がかすかに震えた。
(……これは祝宴じゃない。私にとっては、拷問に等しい)
そこへ、一人の男が王女へと視線を向ける。
唇に笑みを貼りつけたまま、低く囁いた。
「……陛下のご厚意に報いるお気持ちは、さぞおありでしょうな?」
その一言に、広間のざわめきが鎮まる。
杯が止まり、視線が一斉に王女を射抜いた。
嘲り、好奇、侮蔑――視線の色はさまざまだが、誰もが答えを待っている。
まるで舞台の幕が上がるのを心待ちにする観客のように。
喉が詰まり、胸は浅く震えた。
沈黙の重みが増すほど、広間はひりついた緊張に包まれていく。
隣に立つダリオスは口を開かなかった。
視線だけを王女に流し、愉しむようにその沈黙を味わっている。
逃げも隠れもできぬ場で、王女は静かに口を開いた。
「……私は、陛下の御心によって生かされていると承知しています」
その言葉に、あちこちからくすくすと笑いが漏れる。
屈服の言葉と受け取ったのだろう。
しかし王女は背筋を伸ばし、毅然と顔を上げた。
震えではなく、確かな意志をその瞳に宿して。
「けれど私は、亡国の王女。今も生きる故国の民がいる限り――
そのために生きるのが、私の務めだと考えています」
毅然とした声が落ちた瞬間、笑いは止み、空気が張り詰めた。
── 数日前 王女の居室 ──
夜更けの静けさの中、王女は机に肘をつき、窓辺に置かれた灯火を見つめていた。
瞼の裏に、謁見の間でのやり取りが鮮やかに甦る。
――『亡国の王女には、亡国の王女としての役割がある』
――『役割とは、支配する者が定め、支配される者が従うのだ』
冷ややかに告げたあの声。
その響きが、今も胸の奥を打ち据えている。
(……故国の滅びを祝うことを、務めとされるなんて……)
心の底から耐え難い思いが込み上げる。
だが同時に、思考は渦を巻いた。
ならば、せめて自分なりに意味を持たせることはできないのか――と。
(亡国の王女の務め……あの国での私の務め……)
目を閉じて浮かぶのは、王宮の回廊や中庭、夏ごとに過ごした避暑地の景色。
そこにいるのは、臣下や侍女ばかりで、民の姿はほとんどない。
自分は王宮の奥で育ち、国の人々に直接触れ合う機会など、ほとんどなかったのだ。
そして今や、自分にとっての故国の景色を彩るものたちは、もう何も残っていない。
(……今の私は、もう何も持っていない。帰る場所など、どこにもない)
喪失の重みが胸を沈める。
けれどその淵に、ふと別の景色が差し込んだ。
マルタの台所で粉にまみれた朝。
宿場町の市場で、果物を抱えて笑っていた子供たち。
それに、帝都の厨房で並んで働いた下働きたち――リシェルの快活な声、冬の湯気の匂い。
触れ合ったのは、名もなき民たち。
でもそこには、確かな温かさがあった。
彼らと同じ場所に身を置き、自分もまた――小さな日々を生きていた。
(……故国の地にも、ああして日々を営む人々が今も生きているはず)
(あの町の人々のように。厨房で働く者たちのように。……かつての私のように)
王女はゆっくりと顔を上げた。
(その人々の安寧のために務めることこそ――亡国の王女の務めなのではないか)
それが正しいかどうかはわからない。
けれど――これが今の自分に見いだせる、ただひとつの答え。
胸の奥に、初めて小さな灯がともるのを感じていた。
── そして今。
広間の中央で注がれる無数の視線を受けながら、王女はその小さな灯を胸に抱いていた。
毅然と顔を上げ、静かに言葉を放つ。
「けれど私は、亡国の王女。今も生きる故国の民がいる限り――そのために生きるのが、私の務めだと考えています」
その声が落ちた瞬間、広間に漂っていた笑いは止み、空気は張り詰めた。
杯が行き交い、音楽が再び広間を満たす。
王女は檀上から降りたのちも、ダリオスの傍らに立たされていた。
次々と近づく人影。
「お美しい……陛下の御慈悲に感謝を」
「亡国の血統が、こうして帝国の装いを纏うとは。まさに新時代の証ですな」
どの声も、彼女を称えるのではなく、その存在を利用して皇帝を讃えている。
王女は笑うことも拒むこともできず、曖昧に頷き、口の端をわずかに動かすしかなかった。
杯を掲げる手の陰で、熱のこもった視線や、冷ややかな侮蔑の囁きが交錯する。
そのすべてが、ダリオスの傍らに立つ王女を縫いとめていた。
誰かがふと、杯を掲げる合間に笑みを浮かべながら口にした。
「そういえば……姫君はかつて城を抜け出されたとか」
ざわ、と軽い波が立つ。
ダリオスは杯を揺らしながら、淡々と答えた。
「なに、少し庭を散歩させていただけですよ」
場に笑いが広がる。
「さすがは陛下……お心の広さは大地にも勝りますな」
「なるほど……姫君の行動は全て、陛下の掌のうちというわけですな」
言葉の端々に、皇帝を讃えると同時に王女を嘲る響きが潜んでいた。
喉の奥が乾き、胸の内側に鉛のような重さが積もっていく。
立っているだけなのに、全身が粛然とした疲労に包まれる。
杯を掲げる笑顔のひとつひとつが、鋭い針のように肌を刺し、足先がかすかに震えた。
(……これは祝宴じゃない。私にとっては、拷問に等しい)
そこへ、一人の男が王女へと視線を向ける。
唇に笑みを貼りつけたまま、低く囁いた。
「……陛下のご厚意に報いるお気持ちは、さぞおありでしょうな?」
その一言に、広間のざわめきが鎮まる。
杯が止まり、視線が一斉に王女を射抜いた。
嘲り、好奇、侮蔑――視線の色はさまざまだが、誰もが答えを待っている。
まるで舞台の幕が上がるのを心待ちにする観客のように。
喉が詰まり、胸は浅く震えた。
沈黙の重みが増すほど、広間はひりついた緊張に包まれていく。
隣に立つダリオスは口を開かなかった。
視線だけを王女に流し、愉しむようにその沈黙を味わっている。
逃げも隠れもできぬ場で、王女は静かに口を開いた。
「……私は、陛下の御心によって生かされていると承知しています」
その言葉に、あちこちからくすくすと笑いが漏れる。
屈服の言葉と受け取ったのだろう。
しかし王女は背筋を伸ばし、毅然と顔を上げた。
震えではなく、確かな意志をその瞳に宿して。
「けれど私は、亡国の王女。今も生きる故国の民がいる限り――
そのために生きるのが、私の務めだと考えています」
毅然とした声が落ちた瞬間、笑いは止み、空気が張り詰めた。
── 数日前 王女の居室 ──
夜更けの静けさの中、王女は机に肘をつき、窓辺に置かれた灯火を見つめていた。
瞼の裏に、謁見の間でのやり取りが鮮やかに甦る。
――『亡国の王女には、亡国の王女としての役割がある』
――『役割とは、支配する者が定め、支配される者が従うのだ』
冷ややかに告げたあの声。
その響きが、今も胸の奥を打ち据えている。
(……故国の滅びを祝うことを、務めとされるなんて……)
心の底から耐え難い思いが込み上げる。
だが同時に、思考は渦を巻いた。
ならば、せめて自分なりに意味を持たせることはできないのか――と。
(亡国の王女の務め……あの国での私の務め……)
目を閉じて浮かぶのは、王宮の回廊や中庭、夏ごとに過ごした避暑地の景色。
そこにいるのは、臣下や侍女ばかりで、民の姿はほとんどない。
自分は王宮の奥で育ち、国の人々に直接触れ合う機会など、ほとんどなかったのだ。
そして今や、自分にとっての故国の景色を彩るものたちは、もう何も残っていない。
(……今の私は、もう何も持っていない。帰る場所など、どこにもない)
喪失の重みが胸を沈める。
けれどその淵に、ふと別の景色が差し込んだ。
マルタの台所で粉にまみれた朝。
宿場町の市場で、果物を抱えて笑っていた子供たち。
それに、帝都の厨房で並んで働いた下働きたち――リシェルの快活な声、冬の湯気の匂い。
触れ合ったのは、名もなき民たち。
でもそこには、確かな温かさがあった。
彼らと同じ場所に身を置き、自分もまた――小さな日々を生きていた。
(……故国の地にも、ああして日々を営む人々が今も生きているはず)
(あの町の人々のように。厨房で働く者たちのように。……かつての私のように)
王女はゆっくりと顔を上げた。
(その人々の安寧のために務めることこそ――亡国の王女の務めなのではないか)
それが正しいかどうかはわからない。
けれど――これが今の自分に見いだせる、ただひとつの答え。
胸の奥に、初めて小さな灯がともるのを感じていた。
── そして今。
広間の中央で注がれる無数の視線を受けながら、王女はその小さな灯を胸に抱いていた。
毅然と顔を上げ、静かに言葉を放つ。
「けれど私は、亡国の王女。今も生きる故国の民がいる限り――そのために生きるのが、私の務めだと考えています」
その声が落ちた瞬間、広間に漂っていた笑いは止み、空気は張り詰めた。
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