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第四章 帝国の象徴〈承〉
1 再会と予兆
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── 帝城・謁見の間 ──
新年の喧噪が去り、帝都に静けさが戻った頃。
王女は皇帝の前に呼び出された。
磨き上げられた白い大理石の床に、冬の光が斜めに差し込んでいる。
石の柱と高窓がつくる冷たい静寂の中、深紅の絨毯だけが微かな温を帯びていた。
玉座に腰かける男は、まるで独り言でも洩らすように切り出した。
「……象徴は玉座に飾る人形ではない」
唐突に放たれたその言葉に、王女は瞬く。
ダリオスはその反応を愉快げに眺め、声を低く続けた。
「民の暮らしも知らぬ象徴など、絹布を纏った案山子だ。……笑われるのがおちだろう」
勝手に“象徴”に仕立て上げたのは他ならぬ彼であるはずなのに――王女は理不尽さに、ただ困惑する。
「新年の行事も終わり、しばらくは“帝国の象徴”を表に立たせる場もない。……だから今のうちに、民の暮らしを知ってこい」
淡々と告げられた声は、命令とも嘲笑ともつかない。
「下働きに戻れ。煤や汚水の匂いを、その身で嗅いでこい」
王女は、目を見開く。
その様子を面白がるように、男は続けた。
「それだけでは足りん。週に一度は神殿へ行け。雑巾を持って床でも磨くがいい。祈る民を間近に見ておけ」
再び突拍子もない命令。王女は、呆気に取られて、ただ立ち尽くす。
その戸惑いを、玉座の男は楽しむかのように見下ろしていた。
「買い出しで市場に行く機会もあるだろう。その時には、物を売り買いする民の声を見聞きしておけ」
思いもよらぬ言葉に、王女はつい聞き返す。
「……外へ出てよいのですか?」
「籠の鳥にも、時には外気を吸わせてやらねば死んでしまうからな」
冷ややかな声音に、皮肉な嘲笑が混じる。
「もっとも、飛び立てるとは思うなよ……監視はつける」
破格の許しであるはずの言葉が、なぜか理不尽な罰のように響く。
「……承知しました」
戸惑いつつも首肯する王女を見届け、玉座の主の瞳が細く笑む。
満足か、それともただ愉快なのか――王女には判じられなかった。
* * *
謁見の間を辞し、長い石造りの回廊を歩きながら、王女は先ほどのダリオスの言葉の意味を図りかねていた。胸に釈然としない思いが広がる。
「民の暮らしを知れ」というのは、理屈としてはもっともらしい。
だが、彼の口から語られると、その先に何かさらなる意図があるように感じるのだが、どうにも掴めない。
そもそも、自分は“帝国の覇と慈悲を示す証”として、玉座の傍らに飾られているにすぎないのではないか。
民の暮らしを知ること自体には――確かに興味はある。
けれど、それが自分に強いられている「象徴」の務めにどう結びつくというのか。
足音が石床に響く。
ダリオスという男は、いつもそうだ。命じられること自体は理解できても、その心がどこにあるのかは見えてこない。
いくら考えを巡らせても、答えらしいものは浮かばなかった。
結局のところ、自分には測りようのないことなのだ。
王女は小さく息を吐き、歩みを速めた。
胸に残るもやは晴れぬまま、次なる役目へと向かわざるをえなかった。
── 帝城・厨房 ──
翌日、王女は久方ぶりに厨房へと足を踏み入れた。
石床に染みついた油と煙の匂い。大釜の沸き立つ音。
以前と変わらぬ熱気が満ちているが、そこに漂う空気は冷たく澄んでいた。
季節は冬。竈の火に寄り添う下働きたちの吐息は白く、窓外の風がしんしんと吹きすさぶ。
そのとき――。
「あっ! また一緒に働けるのね!」
背後から飛びつくような声。
振り向いた王女の目に、リシェルの快活な笑顔が映った。
「ある日いきなり来なくなったから……てっきり、もう二度と会えないのかと思ってたのよ!」
大釜をかき混ぜていた手を止め、リシェルは駆け寄ってくる。
その瞳には飾らない喜びが満ちていて、王女の胸を一瞬にして温めた。
「……私も、また顔を見られて嬉しいわ」
思わず零れた言葉は、疑念や不安に曇っていた心をほんのひととき晴らす。
リシェルの存在が、ここでは唯一の「普通さ」だった。
再び始まった下働きの務めは、以前と同じ。
鍋を磨き、床を擦り、冷えきった水で野菜を洗う。
ただ違うのは季節。
春先の温もりに汗を流したあの日々とは違い、今は指先まで凍える冬の労働だった。
桶に張った水に手を沈めるたび、皮膚が裂けるような痛みが走る。
吐く息は白く、石壁の隙間から忍び込む風が頬を刺した。
けれど、周囲の下働きたちと肩を並べる時間は、妙に心を落ち着ける。
(……象徴として立たされる場よりも、ここにいる方が……まだ私には息ができる)
そんな思いを胸に抱きながら、王女はまた一つの冬を、厨房の煤と冷気の中で過ごしていった。
── 帝都・神殿 ──
馬車が神殿の石段の前で止まると、白衣の僧たちが列をなし、王女の到着を待ち受けていた。
冬の陽が白く反射し、空気は張り詰めている。
王女は馬車を降り、足を石畳に下ろす。
吐く息が白く散り、背後の兵と侍女ミレイユが静かに控えた。
先頭に立つ老僧が、杖を支えながら一歩前へ進み出て、深く頭を垂れる。
「陛下の慈悲のもとにある姫君よ――神殿は、あなたの奉仕を謹んでお受けいたします」
「……務めを果たします」
小さく応じる声は、冷えた空に溶けるように淡い。
老僧は微笑を浮かべ、両手を胸の前で合わせた。
「本日の奉仕は掃除と整備。祈りの場を清めることこそ、象徴としての務めにございます」
“象徴”――その言葉が耳に触れた瞬間、王女の胸にわずかな痛みが走った。
やはりここでも、その名が自分につきまとう。
自分はただの一人の人間ではなく、“誰かの手の中で意味を与えられる存在”なのだと、思い知らされる。
けれど、ダリオスの放つそれとは違い、老僧の声には支配の響きがなかった。
冷たい宣告ではなく、祈りに似た静けさが宿っていた。
それが、少しだけ――不思議だった。
こうして、ダリオスに命じられた通り、週に一度、王女は厨房を離れ、神殿の石段を登ることになった。
白く凍りついた石畳。吐く息はすぐに白煙となり、天へと溶けていく。
大理石の柱が並ぶ神殿の内は静まり返り、冬の冷気がしんと張り詰める。
粗布を手に、凍てつく床を拭い、蝋燭台の煤を落とす。
布を絞る指先が、冷たさにかじかむ。
厨房の桶に手を沈めたときと、同じような痛み。
けれど、ここには汗ばむ熱気も、リシェルの笑顔もない。
体も声も、凍てついた空気に包まれて、どこか遠く感じられる。
同じ「務め」であっても――この場では、“象徴”としての輪郭が、否応なく浮かび上がる気がした。
広間の奥では、民たちが祈りを捧げていた。
すすけた衣の老女、幼子の手を取った母、疲れの色を浮かべた男。
皆、ひたむきに額を垂れ、言葉なき祈りを胸の内で唱えている。
光に照らされた背中が静かに揺れ、その影が床に長く伸びていた。
どの顔も切実で、けれどどこか静かな安らぎが宿っているように見えた。
この神殿の名も、神の名も、祈りの詞も――故国のものとは違っている。
けれど、人々の祈りのかたちは、どこか似ていた。
手の重ね方、うつむいた肩、息をひそめるような静けさ。
風の名を呼ぶ代わりに、ここでは光に言葉を捧げるらしい。
そういうものなのだろう――場所が違えば、神もまた違う。
けれど、祈る者の胸に宿るものは、どこか通じている。
王女は布を絞りながら、その光景を不思議な面持ちで眺めていた。
* * *
奉仕を終え、石段を降りる。
白い息が風にさらわれていく中で、王女の胸には再び疑問が浮かぶ。
(いったい、これは何なのだろう……)
ダリオスがなぜ、この仕事を自分に課すのか――その心は、やはり掴めなかった。
ふと、隣りを歩く影に目を向ける。
無言で寄り添う侍女――ミレイユ。
その横顔は冷えた石のように変わらず、何を思っているのかは読み取れない。
王女は短く視線を交わし、すぐに逸らした。
彼女は、ダリオスの意図を知っているのだろうか。
それとも、自分と同じようにただ命じられるままに従っているだけなのか。
凍える風が吹き抜け、二人の吐息を掻き消していった。
新年の喧噪が去り、帝都に静けさが戻った頃。
王女は皇帝の前に呼び出された。
磨き上げられた白い大理石の床に、冬の光が斜めに差し込んでいる。
石の柱と高窓がつくる冷たい静寂の中、深紅の絨毯だけが微かな温を帯びていた。
玉座に腰かける男は、まるで独り言でも洩らすように切り出した。
「……象徴は玉座に飾る人形ではない」
唐突に放たれたその言葉に、王女は瞬く。
ダリオスはその反応を愉快げに眺め、声を低く続けた。
「民の暮らしも知らぬ象徴など、絹布を纏った案山子だ。……笑われるのがおちだろう」
勝手に“象徴”に仕立て上げたのは他ならぬ彼であるはずなのに――王女は理不尽さに、ただ困惑する。
「新年の行事も終わり、しばらくは“帝国の象徴”を表に立たせる場もない。……だから今のうちに、民の暮らしを知ってこい」
淡々と告げられた声は、命令とも嘲笑ともつかない。
「下働きに戻れ。煤や汚水の匂いを、その身で嗅いでこい」
王女は、目を見開く。
その様子を面白がるように、男は続けた。
「それだけでは足りん。週に一度は神殿へ行け。雑巾を持って床でも磨くがいい。祈る民を間近に見ておけ」
再び突拍子もない命令。王女は、呆気に取られて、ただ立ち尽くす。
その戸惑いを、玉座の男は楽しむかのように見下ろしていた。
「買い出しで市場に行く機会もあるだろう。その時には、物を売り買いする民の声を見聞きしておけ」
思いもよらぬ言葉に、王女はつい聞き返す。
「……外へ出てよいのですか?」
「籠の鳥にも、時には外気を吸わせてやらねば死んでしまうからな」
冷ややかな声音に、皮肉な嘲笑が混じる。
「もっとも、飛び立てるとは思うなよ……監視はつける」
破格の許しであるはずの言葉が、なぜか理不尽な罰のように響く。
「……承知しました」
戸惑いつつも首肯する王女を見届け、玉座の主の瞳が細く笑む。
満足か、それともただ愉快なのか――王女には判じられなかった。
* * *
謁見の間を辞し、長い石造りの回廊を歩きながら、王女は先ほどのダリオスの言葉の意味を図りかねていた。胸に釈然としない思いが広がる。
「民の暮らしを知れ」というのは、理屈としてはもっともらしい。
だが、彼の口から語られると、その先に何かさらなる意図があるように感じるのだが、どうにも掴めない。
そもそも、自分は“帝国の覇と慈悲を示す証”として、玉座の傍らに飾られているにすぎないのではないか。
民の暮らしを知ること自体には――確かに興味はある。
けれど、それが自分に強いられている「象徴」の務めにどう結びつくというのか。
足音が石床に響く。
ダリオスという男は、いつもそうだ。命じられること自体は理解できても、その心がどこにあるのかは見えてこない。
いくら考えを巡らせても、答えらしいものは浮かばなかった。
結局のところ、自分には測りようのないことなのだ。
王女は小さく息を吐き、歩みを速めた。
胸に残るもやは晴れぬまま、次なる役目へと向かわざるをえなかった。
── 帝城・厨房 ──
翌日、王女は久方ぶりに厨房へと足を踏み入れた。
石床に染みついた油と煙の匂い。大釜の沸き立つ音。
以前と変わらぬ熱気が満ちているが、そこに漂う空気は冷たく澄んでいた。
季節は冬。竈の火に寄り添う下働きたちの吐息は白く、窓外の風がしんしんと吹きすさぶ。
そのとき――。
「あっ! また一緒に働けるのね!」
背後から飛びつくような声。
振り向いた王女の目に、リシェルの快活な笑顔が映った。
「ある日いきなり来なくなったから……てっきり、もう二度と会えないのかと思ってたのよ!」
大釜をかき混ぜていた手を止め、リシェルは駆け寄ってくる。
その瞳には飾らない喜びが満ちていて、王女の胸を一瞬にして温めた。
「……私も、また顔を見られて嬉しいわ」
思わず零れた言葉は、疑念や不安に曇っていた心をほんのひととき晴らす。
リシェルの存在が、ここでは唯一の「普通さ」だった。
再び始まった下働きの務めは、以前と同じ。
鍋を磨き、床を擦り、冷えきった水で野菜を洗う。
ただ違うのは季節。
春先の温もりに汗を流したあの日々とは違い、今は指先まで凍える冬の労働だった。
桶に張った水に手を沈めるたび、皮膚が裂けるような痛みが走る。
吐く息は白く、石壁の隙間から忍び込む風が頬を刺した。
けれど、周囲の下働きたちと肩を並べる時間は、妙に心を落ち着ける。
(……象徴として立たされる場よりも、ここにいる方が……まだ私には息ができる)
そんな思いを胸に抱きながら、王女はまた一つの冬を、厨房の煤と冷気の中で過ごしていった。
── 帝都・神殿 ──
馬車が神殿の石段の前で止まると、白衣の僧たちが列をなし、王女の到着を待ち受けていた。
冬の陽が白く反射し、空気は張り詰めている。
王女は馬車を降り、足を石畳に下ろす。
吐く息が白く散り、背後の兵と侍女ミレイユが静かに控えた。
先頭に立つ老僧が、杖を支えながら一歩前へ進み出て、深く頭を垂れる。
「陛下の慈悲のもとにある姫君よ――神殿は、あなたの奉仕を謹んでお受けいたします」
「……務めを果たします」
小さく応じる声は、冷えた空に溶けるように淡い。
老僧は微笑を浮かべ、両手を胸の前で合わせた。
「本日の奉仕は掃除と整備。祈りの場を清めることこそ、象徴としての務めにございます」
“象徴”――その言葉が耳に触れた瞬間、王女の胸にわずかな痛みが走った。
やはりここでも、その名が自分につきまとう。
自分はただの一人の人間ではなく、“誰かの手の中で意味を与えられる存在”なのだと、思い知らされる。
けれど、ダリオスの放つそれとは違い、老僧の声には支配の響きがなかった。
冷たい宣告ではなく、祈りに似た静けさが宿っていた。
それが、少しだけ――不思議だった。
こうして、ダリオスに命じられた通り、週に一度、王女は厨房を離れ、神殿の石段を登ることになった。
白く凍りついた石畳。吐く息はすぐに白煙となり、天へと溶けていく。
大理石の柱が並ぶ神殿の内は静まり返り、冬の冷気がしんと張り詰める。
粗布を手に、凍てつく床を拭い、蝋燭台の煤を落とす。
布を絞る指先が、冷たさにかじかむ。
厨房の桶に手を沈めたときと、同じような痛み。
けれど、ここには汗ばむ熱気も、リシェルの笑顔もない。
体も声も、凍てついた空気に包まれて、どこか遠く感じられる。
同じ「務め」であっても――この場では、“象徴”としての輪郭が、否応なく浮かび上がる気がした。
広間の奥では、民たちが祈りを捧げていた。
すすけた衣の老女、幼子の手を取った母、疲れの色を浮かべた男。
皆、ひたむきに額を垂れ、言葉なき祈りを胸の内で唱えている。
光に照らされた背中が静かに揺れ、その影が床に長く伸びていた。
どの顔も切実で、けれどどこか静かな安らぎが宿っているように見えた。
この神殿の名も、神の名も、祈りの詞も――故国のものとは違っている。
けれど、人々の祈りのかたちは、どこか似ていた。
手の重ね方、うつむいた肩、息をひそめるような静けさ。
風の名を呼ぶ代わりに、ここでは光に言葉を捧げるらしい。
そういうものなのだろう――場所が違えば、神もまた違う。
けれど、祈る者の胸に宿るものは、どこか通じている。
王女は布を絞りながら、その光景を不思議な面持ちで眺めていた。
* * *
奉仕を終え、石段を降りる。
白い息が風にさらわれていく中で、王女の胸には再び疑問が浮かぶ。
(いったい、これは何なのだろう……)
ダリオスがなぜ、この仕事を自分に課すのか――その心は、やはり掴めなかった。
ふと、隣りを歩く影に目を向ける。
無言で寄り添う侍女――ミレイユ。
その横顔は冷えた石のように変わらず、何を思っているのかは読み取れない。
王女は短く視線を交わし、すぐに逸らした。
彼女は、ダリオスの意図を知っているのだろうか。
それとも、自分と同じようにただ命じられるままに従っているだけなのか。
凍える風が吹き抜け、二人の吐息を掻き消していった。
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