24 / 75
第四章 帝国の象徴〈承〉
3 甘き記憶の影
しおりを挟む
── 翌朝 帝城・厨房 ──
大鍋の湯気が立ちこめる中、王女は包丁を手に野菜を刻んでいた。
普段は掃除や水汲みが務めのはずだが、この日は人手が足りず、包丁を握らされていた。
けれど刃先は時折わずかに震え、切り口は不揃いだった。
「……あれ? 寝不足?」
隣で根菜を抱えたリシェルが、首をかしげて覗き込む。
陽気な声音に、王女は思わず手を止めた。
「……少し、眠れなかっただけ」
努めて淡々と答えると、リシェルはにっと笑った。
「そりゃあ無理もないわよね。帝都の市場に行ったのは初めてでしょ?
とにかく広いし、人も多いし……目に焼きついて眠れなくなるのも当然だわ」
言いながら彼女は手際よく野菜を投げ込み、鍋の湯気に顔をほころばせる。
「ねえ昨日、果物売りの少年がいたでしょ? あの子、いつもおまけをしてくれるのよ。
それに、通りの角の露店……冬の間だけ、蜂蜜入りのパンを売るの。
あの甘い匂いがあるだけで、寒さも忘れちゃうのよね」
楽しげな声に、周囲の空気まで明るくなる。
けれど王女の胸には、別の記憶が沈んでいた。
耳に残る、故国の声。
「……パンの匂い、私も気づいたわ」
そう返すのが精一杯だった。
リシェルは王女の言葉に嬉しそうに笑うと、再び鍋をかき混ぜる。
「あと、露店も見た? 春になったら色とりどりの染布が並ぶのよ!」
リシェルは湯気に頬を赤らめながら、楽しげに話を続けている。
王女はその横顔を見つめながら、心の奥に小さな波が立つのを感じた。
――『故国の民がいる限り、そのために生きるのが、私の務めだと考えています』
夜会で放ったあの言葉。
あの言葉は、宿場町で過ごした日々や、リシェルから聞いた他愛ない話を通じて、民の暮らしの息づかいを知ったからこそ導き出せたものだった。
だが。
(……本当に、私は“そのために”生きているだろうか)
昨夜のざわめきが胸に甦る。
市場で耳にした、故国の言葉。
東に広がるはずの故国の地から目を背け、西へ逃げた自分。
滅亡の現実を直視できず、記憶の底に押し込めている自分。
「民のために生きる」と口にしながら、結局は背を向けたままではないのか――。
湯気の向こうで笑うリシェルの姿は、王女に問いを突きつけた。
── 数日後 帝都・市場 ──
冬晴れの空の下、王女はリシェルと共に再び石畳の市場を歩いていた。
今朝、厨房で香草と卵が足りないことが分かり、急きょ買い出しを命じられたのだ。
手籠を抱えて先を行くリシェルの背は、どこか弾んでいる。
「ねえ、今日はあそこの露店に寄ろうよ!」
そう言って、人だかりのできている屋台を指さす。
甘い香りが漂い、蜂蜜を練り込んだ小さなパンが山と積まれている。
「……でも、今は仕事の途中だし、急いで買って帰らなければいけないのでは?」
王女は戸惑いながら足を止め、群衆の向こうを見やった。
「いいの、いいの。ちょっとくらい平気だってば」
リシェルは悪戯っぽく笑い、王女の手を軽く引いた。
「でも、私にはお金が……」
さらに躊躇う王女の背後から、静かな声が差し込んだ。
「皇帝陛下より、いくらかの小遣いを預かっています」
振り向けば、そこには変わらず無表情のミレイユが立っていた。
ミレイユが手提げ袋から銅貨の小袋を王女に差し出す。
王女は逡巡するが、横から袋をのぞき込んだリシェルが、
「じゃあ今日は陛下のおごりってわけね!」
と笑って王女の背を軽く押した。
結局、王女はリシェルに手を引かれるまま、露店の列へと並んだ。
「はい、お嬢さん方。焼きたてですよ」
露天商の男が、香ばしい湯気を立てるパンを手渡す。
王女の顔を見やると、ふっと目を細めて言った。
「……お嬢さん、初めてですね」
低く穏やかな声。
その響きが、王女の胸の奥で何かを微かに震わせた。
(……この声……)
男は、あくまで自然に微笑んでいる。
「蜂蜜飴は、お好きですか?」
その瞬間――王女の視界に、唐突にある光景が差し込んだ。
陽差しの差し込む中庭。
揺れる馬上から見上げた、細い木洩れ日の光。
差し出された、甘く柔らかな飴の香り――。
「……はい」
絞り出すように、王女は答えた。
声はかすかに震えていた。
男は静かに頷くと、小さな包みを手に取った。
白樺の皮に丁寧にくるまれた、小さな円い飴。
「では、これをお見知りおきの印として」
そう言って、王女の手に包みをそっと乗せた。
掌の温もりに、遠い日々の影が静かに蘇ろうとしていた――。
大鍋の湯気が立ちこめる中、王女は包丁を手に野菜を刻んでいた。
普段は掃除や水汲みが務めのはずだが、この日は人手が足りず、包丁を握らされていた。
けれど刃先は時折わずかに震え、切り口は不揃いだった。
「……あれ? 寝不足?」
隣で根菜を抱えたリシェルが、首をかしげて覗き込む。
陽気な声音に、王女は思わず手を止めた。
「……少し、眠れなかっただけ」
努めて淡々と答えると、リシェルはにっと笑った。
「そりゃあ無理もないわよね。帝都の市場に行ったのは初めてでしょ?
とにかく広いし、人も多いし……目に焼きついて眠れなくなるのも当然だわ」
言いながら彼女は手際よく野菜を投げ込み、鍋の湯気に顔をほころばせる。
「ねえ昨日、果物売りの少年がいたでしょ? あの子、いつもおまけをしてくれるのよ。
それに、通りの角の露店……冬の間だけ、蜂蜜入りのパンを売るの。
あの甘い匂いがあるだけで、寒さも忘れちゃうのよね」
楽しげな声に、周囲の空気まで明るくなる。
けれど王女の胸には、別の記憶が沈んでいた。
耳に残る、故国の声。
「……パンの匂い、私も気づいたわ」
そう返すのが精一杯だった。
リシェルは王女の言葉に嬉しそうに笑うと、再び鍋をかき混ぜる。
「あと、露店も見た? 春になったら色とりどりの染布が並ぶのよ!」
リシェルは湯気に頬を赤らめながら、楽しげに話を続けている。
王女はその横顔を見つめながら、心の奥に小さな波が立つのを感じた。
――『故国の民がいる限り、そのために生きるのが、私の務めだと考えています』
夜会で放ったあの言葉。
あの言葉は、宿場町で過ごした日々や、リシェルから聞いた他愛ない話を通じて、民の暮らしの息づかいを知ったからこそ導き出せたものだった。
だが。
(……本当に、私は“そのために”生きているだろうか)
昨夜のざわめきが胸に甦る。
市場で耳にした、故国の言葉。
東に広がるはずの故国の地から目を背け、西へ逃げた自分。
滅亡の現実を直視できず、記憶の底に押し込めている自分。
「民のために生きる」と口にしながら、結局は背を向けたままではないのか――。
湯気の向こうで笑うリシェルの姿は、王女に問いを突きつけた。
── 数日後 帝都・市場 ──
冬晴れの空の下、王女はリシェルと共に再び石畳の市場を歩いていた。
今朝、厨房で香草と卵が足りないことが分かり、急きょ買い出しを命じられたのだ。
手籠を抱えて先を行くリシェルの背は、どこか弾んでいる。
「ねえ、今日はあそこの露店に寄ろうよ!」
そう言って、人だかりのできている屋台を指さす。
甘い香りが漂い、蜂蜜を練り込んだ小さなパンが山と積まれている。
「……でも、今は仕事の途中だし、急いで買って帰らなければいけないのでは?」
王女は戸惑いながら足を止め、群衆の向こうを見やった。
「いいの、いいの。ちょっとくらい平気だってば」
リシェルは悪戯っぽく笑い、王女の手を軽く引いた。
「でも、私にはお金が……」
さらに躊躇う王女の背後から、静かな声が差し込んだ。
「皇帝陛下より、いくらかの小遣いを預かっています」
振り向けば、そこには変わらず無表情のミレイユが立っていた。
ミレイユが手提げ袋から銅貨の小袋を王女に差し出す。
王女は逡巡するが、横から袋をのぞき込んだリシェルが、
「じゃあ今日は陛下のおごりってわけね!」
と笑って王女の背を軽く押した。
結局、王女はリシェルに手を引かれるまま、露店の列へと並んだ。
「はい、お嬢さん方。焼きたてですよ」
露天商の男が、香ばしい湯気を立てるパンを手渡す。
王女の顔を見やると、ふっと目を細めて言った。
「……お嬢さん、初めてですね」
低く穏やかな声。
その響きが、王女の胸の奥で何かを微かに震わせた。
(……この声……)
男は、あくまで自然に微笑んでいる。
「蜂蜜飴は、お好きですか?」
その瞬間――王女の視界に、唐突にある光景が差し込んだ。
陽差しの差し込む中庭。
揺れる馬上から見上げた、細い木洩れ日の光。
差し出された、甘く柔らかな飴の香り――。
「……はい」
絞り出すように、王女は答えた。
声はかすかに震えていた。
男は静かに頷くと、小さな包みを手に取った。
白樺の皮に丁寧にくるまれた、小さな円い飴。
「では、これをお見知りおきの印として」
そう言って、王女の手に包みをそっと乗せた。
掌の温もりに、遠い日々の影が静かに蘇ろうとしていた――。
0
あなたにおすすめの小説
転生後はゆっくりと
衣更月
ファンタジー
貧しい集落で生まれたリリは、生まれた瞬間から前世の記憶があった。
日本人特有の”配慮”に徹した赤ん坊を演じていたことで、両親から距離を置かれた挙句、村人からも「不気味な子」として敬遠されることに…。
そして、5才の誕生日に遠くの町に捨てられた。
でも、リリは悲観しない。
前世の知識チートは出来ないけど、大人メンタルで堅実に。
目指すは憧れのスローライフが出来るほど、ほどほどの守銭奴としてリリは異世界人として順応していく。
全25話(予定)
モブ転生とはこんなもの
詩森さよ(さよ吉)
恋愛
あたしはナナ。貧乏伯爵令嬢で転生者です。
乙女ゲームのプロローグで死んじゃうモブに転生したけど、奇跡的に助かったおかげで現在元気で幸せです。
今ゲームのラスト近くの婚約破棄の現場にいるんだけど、なんだか様子がおかしいの。
いったいどうしたらいいのかしら……。
現在筆者の時間的かつ体力的に感想などを受け付けない設定にしております。
どうぞよろしくお願いいたします。
他サイトでも公開しています。
王様の恥かきっ娘
青の雀
恋愛
恥かきっ子とは、親が年老いてから子供ができること。
本当は、元気でおめでたいことだけど、照れ隠しで、その年齢まで夫婦の営みがあったことを物語り世間様に向けての恥をいう。
孫と同い年の王女殿下が生まれたことで巻き起こる騒動を書きます
物語は、卒業記念パーティで婚約者から婚約破棄されたところから始まります
これもショートショートで書く予定です。
英雄の番が名乗るまで
長野 雪
恋愛
突然発生した魔物の大侵攻。西の果てから始まったそれは、いくつもの集落どころか国すら飲みこみ、世界中の国々が人種・宗教を越えて協力し、とうとう終息を迎えた。魔物の駆逐・殲滅に目覚ましい活躍を見せた5人は吟遊詩人によって「五英傑」と謳われ、これから彼らの活躍は英雄譚として広く知られていくのであろう。
大侵攻の終息を祝う宴の最中、己の番《つがい》の気配を感じた五英傑の一人、竜人フィルは見つけ出した途端、気を失ってしまった彼女に対し、番の誓約を行おうとするが失敗に終わる。番と己の寿命を等しくするため、何より番を手元に置き続けるためにフィルにとっては重要な誓約がどうして失敗したのか分からないものの、とにかく庇護したいフィルと、ぐいぐい溺愛モードに入ろうとする彼に一歩距離を置いてしまう番の女性との一進一退のおはなし。
※小説家になろうにも投稿
生きるために逃げだした。幸せになりたい。
白水緑
ファンタジー
屋敷内に軟禁状態だったリリアは、宝物を取り戻したことをきっかけに屋敷から逃げ出した。幸せになるために。体力も力もない。成り行きに身を任せる結果になっても、自分の道は自分で選びたい。
2020/9/19 第一章終了
続きが書け次第また連載再開します。
2021/2/14 第二章開幕
2021/2/28 完結
走馬灯に君はいない
優未
恋愛
リーンには前世の記憶がある。それは、愛を誓い合ったはずの恋人の真実を知り、命を落とすというもの。今世は1人で生きていくのもいいと思っていたところ、急に婚約話が浮上する。その相手は前世の恋人で―――。
三年の想いは小瓶の中に
月山 歩
恋愛
結婚三周年の記念日だと、邸の者達がお膳立てしてくれた二人だけのお祝いなのに、その中心で一人夫が帰らない現実を受け入れる。もう彼を諦める潮時かもしれない。だったらこれからは自分の人生を大切にしよう。アレシアは離縁も覚悟し、邸を出る。
※こちらの作品は契約上、内容の変更は不可であることを、ご理解ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる