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第四章 帝国の象徴〈承〉
5 祈りと決断
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── 帝都・市場 ──
石畳のざわめきに包まれ、王女は籠を抱えて歩いていた。
今日は月に一度の市――帝都中から商人と客が集まり、露店が路地の奥まで続いている。
胸の内で、ためらいが渦を巻く。
言えば妙に思われるかもしれない――そう思いながらも、どうしても唇が動いた。
「リシェル。……前に食べた、蜂蜜入りのパン。あれを、もう一度買いたいの」
言った途端、胸の奥で鼓動が跳ねる。
傍らのミレイユが、無表情のまま一瞬こちらに目を向けた。
その視線に背筋が冷える。
「本当? 気に入ったのね! 嬉しいな、行きましょう!」
リシェルは王女の不安など気づきもせず、ただ無邪気に言った。
そして二人は、そのままあの露店の軒先へと向かった。
けれど――。
店先に立っていたのは、見知らぬ若者だった。
赤くかじかんだ手でパンを袋に詰め、客に愛想よく声をかけている。
――ルデクの姿はなかった。
リシェルは気づかぬ様子で、楽しげにパンを受け取る。
王女はその横顔を見つめながら、そっと目を伏せた。
(……もう、蜂蜜飴は……もらえないのね)
焼きたての香りが胸を満たすのに、心の奥には小さな寂しさが沈んでいった。
── 神殿・屋上 ──
定例の奉仕活動で、王女は神殿の屋上に立っていた。
石柵の上をなぞるように布を滑らせ、積もった塵を静かに拭い取っていく。
ここは神官たちが星を観測し、祈祷の煙を天へと捧げるための場所。
冷たい風の底に、わずかに柔らかな匂いが混じっていた。
澄んだ昼の空気の中、街並みを越えて東の地平まで見渡せる。
その地平の先に――かつて故国があった。
磨く手は止まり、視線が東へと吸い寄せられる。
白い陽光の下、あの一夜の記憶が唐突に胸を突き破った。
赤く燃え上がる夜空。
崩れ落ちる城壁。
逃げ惑う声と、焦げた風の匂い。
(……あの夜……)
吐息が乱れ、胸が締めつけられる。
膝が折れそうになるのを堪え、王女は胸元に手を伸ばした。
白樺の皮に包まれた、最後の蜂蜜飴。
恐る恐る口に含む。
陽光に照らされる屋上に、甘やかな香りがわずかに漂った。
幼き日の声が甦る――『甘いものは勇気をくれる』
(……もう、蓋をしない……)
王女はまぶたを閉じ、震える心を抱きしめる。
滅亡の現実を押し込めるのではなく、痛みと共に受け止めながら。
掌には白樺の皮が残されていた。
かつて祭の広場で、民が王家に差し出し、最後に王の手で火へとくべられたもの。
“忠義を受け取った”印として、天へ返す白い皮。
王女は香炉の残り火へと近づき、皮をそっと投じた。
ぱちりと小さく弾け、細い煙がまっすぐに空へ昇っていく。
その煙を見上げながら、王女は目を閉じて祈った。
滅亡と共に逝った人々の安息を。
そして、今も故国の地に生きる人々の安寧を。
彼女の姿を、ふたつの影が見守っていた。
ひとつは、屋上の片隅に控える侍女――ミレイユ。
もうひとつは、神殿近くの通りの陰に身を潜め、王女と同じように煙を見上げる影――ルデク。
細く立ち昇った煙は、やがて青い昼空に溶け、静かに消えていった。
── 帝都の外れ、廃屋にて ──
軋む梁の下、粗末な卓を囲んで複数の影が集っていた。
薄暗い油灯が揺れる中、地図や木片が広げられ、帝都の路地の名が囁かれる。
「買い出しは不定期だが、月の市だけは必ず外に出ると聞いている」
「神殿の労役も週一で続いているようだ」
「動くならそのどちらか……だが、神殿は警備が厚い」
「市の方が紛れ込みやすいかもしれん。群衆がいれば盾にもなる」
「だが、市で騒ぎを起こせば、帝都中に追っ手が出る。逃げ場がない」
言葉が交差し、灯火の下で影が揺れる。
その中心に座るルデクは、卓に肘をつき、組んだ指を額に当てていた。
灯火に照らされたその横顔には、沈黙の重さだけが宿っていた。
(時間がない――)
迫る刻限が、喉の奥に重く張りついていた。
進むべき路は見えている。
(導くことはできる。無理にでも、立たせて、走らせることは)
だが――
(それでは意味がない)
手を取って引きずり出すだけでは、またどこかで崩れる。
(“進む”と、王女に決めていただいた一歩でなければ。――それだけが、折れない)
わずかに、卓上の木片が揺れた。
油灯の芯が跳ね、影が壁を這う。
そのとき。
扉が軋み、軽やかな足音が入り込んだ。
「おやおや、真面目すぎる顔ぶれだな。ここで説教でも始めるつもり?」
飄々とした声に、空気がざわめく。
現れたのは茶の髪を束ねた若者。
人懐っこい笑みを浮かべながらも、その瞳だけは氷のように冷たい。
ルデクは眉をひそめ、短く言った。
「……遅かったな」
「風の噂でさ、面白そうな舞台があるってんで寄り道しちまった」
軽口を叩きつつ、若者は懐から小さな包みを取り出す。
「はい、小道具のお届け。中身は見てのお楽しみ」
受け取ったルデクは、油灯の下で封を裂いた。
羊皮紙に走る文字を目で追い、眉間に刻まれた皺が深くなる。
――姫は帝国の象徴とされた。民の目に真実を見せるなら、今しかない。
周辺諸国は帝国を見誤り始めている。
好機を逸すれば、我らの計画も霧散する。
ひと月のうちに事を起こせ。
指先に力がこもり、紙が鳴った。
ルデクは心を鎮めるために目を閉じた。
昼間見た景色が瞼裏によみがえる。
遠く屋上に立ち昇る、細い煙。
白く細く、空へと伸びてゆくその軌跡が、いまも脳裏に焼きついている。
火にくべられる白樺の皮――
忠義を受け取り、空へ返す、故国の儀式。
……あの方の手が、祈りと共に煙を上げたのなら。
(……そこに賭けるしかない)
仲間たちが視線を交わし見守る中、ルデクは静かに目を開き、低く息を整えた。
「……決行に備える。猶予はない」
緊張が部屋を包んだ。
若者がくすりと笑う。
「へえ、誠実な騎士様がやっと剣を抜く気になったのか。拍手でもする?」
軽口のように言いながらも、目だけは笑っていない。
「ただね――そういう真っ直ぐな奴ってさ、舞台の幕が下りるのが早いんだよな。……でも、嫌いじゃないぜ」
それは、あざけるでも見下すでもない――ただ、皮肉と距離感の混ざった、奇妙な親近感の気配だった。
ルデクは答えず、ただ拳を固く握りしめていた。
若者は肩をすくめ、ひらりと手を振る。
「じゃあ、俺は幕の裏に消えるとしよう」
軽やかな足取りで扉へ向かい、薄闇へと消える。
残されたのは、ざわめきと油灯の炎。
ルデクは羊皮紙を見下ろし、深く息を吐いた。
石畳のざわめきに包まれ、王女は籠を抱えて歩いていた。
今日は月に一度の市――帝都中から商人と客が集まり、露店が路地の奥まで続いている。
胸の内で、ためらいが渦を巻く。
言えば妙に思われるかもしれない――そう思いながらも、どうしても唇が動いた。
「リシェル。……前に食べた、蜂蜜入りのパン。あれを、もう一度買いたいの」
言った途端、胸の奥で鼓動が跳ねる。
傍らのミレイユが、無表情のまま一瞬こちらに目を向けた。
その視線に背筋が冷える。
「本当? 気に入ったのね! 嬉しいな、行きましょう!」
リシェルは王女の不安など気づきもせず、ただ無邪気に言った。
そして二人は、そのままあの露店の軒先へと向かった。
けれど――。
店先に立っていたのは、見知らぬ若者だった。
赤くかじかんだ手でパンを袋に詰め、客に愛想よく声をかけている。
――ルデクの姿はなかった。
リシェルは気づかぬ様子で、楽しげにパンを受け取る。
王女はその横顔を見つめながら、そっと目を伏せた。
(……もう、蜂蜜飴は……もらえないのね)
焼きたての香りが胸を満たすのに、心の奥には小さな寂しさが沈んでいった。
── 神殿・屋上 ──
定例の奉仕活動で、王女は神殿の屋上に立っていた。
石柵の上をなぞるように布を滑らせ、積もった塵を静かに拭い取っていく。
ここは神官たちが星を観測し、祈祷の煙を天へと捧げるための場所。
冷たい風の底に、わずかに柔らかな匂いが混じっていた。
澄んだ昼の空気の中、街並みを越えて東の地平まで見渡せる。
その地平の先に――かつて故国があった。
磨く手は止まり、視線が東へと吸い寄せられる。
白い陽光の下、あの一夜の記憶が唐突に胸を突き破った。
赤く燃え上がる夜空。
崩れ落ちる城壁。
逃げ惑う声と、焦げた風の匂い。
(……あの夜……)
吐息が乱れ、胸が締めつけられる。
膝が折れそうになるのを堪え、王女は胸元に手を伸ばした。
白樺の皮に包まれた、最後の蜂蜜飴。
恐る恐る口に含む。
陽光に照らされる屋上に、甘やかな香りがわずかに漂った。
幼き日の声が甦る――『甘いものは勇気をくれる』
(……もう、蓋をしない……)
王女はまぶたを閉じ、震える心を抱きしめる。
滅亡の現実を押し込めるのではなく、痛みと共に受け止めながら。
掌には白樺の皮が残されていた。
かつて祭の広場で、民が王家に差し出し、最後に王の手で火へとくべられたもの。
“忠義を受け取った”印として、天へ返す白い皮。
王女は香炉の残り火へと近づき、皮をそっと投じた。
ぱちりと小さく弾け、細い煙がまっすぐに空へ昇っていく。
その煙を見上げながら、王女は目を閉じて祈った。
滅亡と共に逝った人々の安息を。
そして、今も故国の地に生きる人々の安寧を。
彼女の姿を、ふたつの影が見守っていた。
ひとつは、屋上の片隅に控える侍女――ミレイユ。
もうひとつは、神殿近くの通りの陰に身を潜め、王女と同じように煙を見上げる影――ルデク。
細く立ち昇った煙は、やがて青い昼空に溶け、静かに消えていった。
── 帝都の外れ、廃屋にて ──
軋む梁の下、粗末な卓を囲んで複数の影が集っていた。
薄暗い油灯が揺れる中、地図や木片が広げられ、帝都の路地の名が囁かれる。
「買い出しは不定期だが、月の市だけは必ず外に出ると聞いている」
「神殿の労役も週一で続いているようだ」
「動くならそのどちらか……だが、神殿は警備が厚い」
「市の方が紛れ込みやすいかもしれん。群衆がいれば盾にもなる」
「だが、市で騒ぎを起こせば、帝都中に追っ手が出る。逃げ場がない」
言葉が交差し、灯火の下で影が揺れる。
その中心に座るルデクは、卓に肘をつき、組んだ指を額に当てていた。
灯火に照らされたその横顔には、沈黙の重さだけが宿っていた。
(時間がない――)
迫る刻限が、喉の奥に重く張りついていた。
進むべき路は見えている。
(導くことはできる。無理にでも、立たせて、走らせることは)
だが――
(それでは意味がない)
手を取って引きずり出すだけでは、またどこかで崩れる。
(“進む”と、王女に決めていただいた一歩でなければ。――それだけが、折れない)
わずかに、卓上の木片が揺れた。
油灯の芯が跳ね、影が壁を這う。
そのとき。
扉が軋み、軽やかな足音が入り込んだ。
「おやおや、真面目すぎる顔ぶれだな。ここで説教でも始めるつもり?」
飄々とした声に、空気がざわめく。
現れたのは茶の髪を束ねた若者。
人懐っこい笑みを浮かべながらも、その瞳だけは氷のように冷たい。
ルデクは眉をひそめ、短く言った。
「……遅かったな」
「風の噂でさ、面白そうな舞台があるってんで寄り道しちまった」
軽口を叩きつつ、若者は懐から小さな包みを取り出す。
「はい、小道具のお届け。中身は見てのお楽しみ」
受け取ったルデクは、油灯の下で封を裂いた。
羊皮紙に走る文字を目で追い、眉間に刻まれた皺が深くなる。
――姫は帝国の象徴とされた。民の目に真実を見せるなら、今しかない。
周辺諸国は帝国を見誤り始めている。
好機を逸すれば、我らの計画も霧散する。
ひと月のうちに事を起こせ。
指先に力がこもり、紙が鳴った。
ルデクは心を鎮めるために目を閉じた。
昼間見た景色が瞼裏によみがえる。
遠く屋上に立ち昇る、細い煙。
白く細く、空へと伸びてゆくその軌跡が、いまも脳裏に焼きついている。
火にくべられる白樺の皮――
忠義を受け取り、空へ返す、故国の儀式。
……あの方の手が、祈りと共に煙を上げたのなら。
(……そこに賭けるしかない)
仲間たちが視線を交わし見守る中、ルデクは静かに目を開き、低く息を整えた。
「……決行に備える。猶予はない」
緊張が部屋を包んだ。
若者がくすりと笑う。
「へえ、誠実な騎士様がやっと剣を抜く気になったのか。拍手でもする?」
軽口のように言いながらも、目だけは笑っていない。
「ただね――そういう真っ直ぐな奴ってさ、舞台の幕が下りるのが早いんだよな。……でも、嫌いじゃないぜ」
それは、あざけるでも見下すでもない――ただ、皮肉と距離感の混ざった、奇妙な親近感の気配だった。
ルデクは答えず、ただ拳を固く握りしめていた。
若者は肩をすくめ、ひらりと手を振る。
「じゃあ、俺は幕の裏に消えるとしよう」
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