冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―

唯 さらら

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第四章 帝国の象徴〈承〉

6 誇りの所在

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── 神殿 昼下がり ──

白い石段を磨く王女の手元に、ふと影が差した。
振り向けば、ミレイユが控えていた。

「姫様。所用で一刻ほど、この場を離れます」

淡々とした声に、王女は思わず目を瞬く。

「……私ひとりで?」

「神殿の入口には衛兵がいます。危険はありません」

短く告げて踵を返す。
その背が石の回廊に消えると、その場に残されたのは王女ひとり。
胸にかすかなざわめきが広がった。

(……監視が……離れた……?)

水桶に布を浸しながらも、王女は落ち着かない息を整える。
祈りの声が遠くの祭壇から響く中、背後で衣擦れの音がした。

「……姫さま」

低く穏やかな声。
顔を上げた瞬間、王女は息をのむ。
そこに立っていたのは、祈りを装い、長衣の裾をまとった影――ルデクだった。
人々の目には神官の一人にしか映らぬ仕立て。

「……あなた……」

声は震え、指先が布を握りしめる。

彼はすぐ隣に膝をつき、祭壇の方へと顔を向ける。
両手を胸に組み、祈りを捧げるふりをしながら、低く囁いた。

「あの夜、何があったのか――小さき姫にも知る権利がある」

淡々とした口ぶりに、鋭い痛みが潜んでいた。

「我らは帝国の剣にのみ斬られたのではありません。
 旧き幹はすでに脆く、内より腐っていた。

 帝国軍が一夜で王城と神殿を制圧できたのは――
 門を開き、伝令を偽った内通者たちの裏切りがあったからです」

石畳に落ちる声が、冷たく響く。

「民は巻き込まれなかった。翌朝には秩序が整えられていた。
 だから抵抗は広がらなかったのです」

王女の喉が震える。
あの夜に見た炎と叫びが、改めて現実の輪郭を帯びて迫ってくる。

(……そうだ。帝都へ護送されるあの朝……)

馬車の窓から見えた景色は、ただ穏やかだった。
畑には人が出て、子供が追いかけっこをし、煙突からは炊事の煙がのぼっていた。
どこにも戦の爪痕はなく、血の気配もなかった。

まるで、戦など初めからなかったかのように。

(……だからこそ、あの一夜が……夢のように思えた)

だが今、ルデクの言葉が、その記憶と噛み合っていく。
炎に包まれた王城と、朝の穏やかな景色。
相反するふたつが繋がり、国が「一夜にして声を失った」現実が胸に突き刺さった。

ルデクが王女を見た。
その眼差しには痛みと、それを超える決意があった。

「……民は、静かに日々を生きています。
 帝国の統治のもとで、飢えることもなく、争うこともない。
 けれど……その安穏の中で、かつての誇りは、誰の手からも零れ落ちていきました」

目を伏せたルデクの声は低く、それでも確かな熱を帯びていた。

「旗を持つ者を失い、声を呑み込み……ただ、日々をこなすことが正しいのだと、信じようとしている。
 それが“生き延びること”だと――」

そして、ふと王女を見つめる。

「……ですが、私は、思ってしまうのです。
 それは本当に、人としての在り方なのか。
 安穏な日々と引き換えに、大切なものを置き去りにしていないか――と」

短く息を吸い、彼は告げた。

「……本来なら、選んでいただきたかった。
 貴女の意志を、我らの旗として仰ぎたかった」

わずかに目を伏せたルデクの声音には、抑えきれない無念が滲んでいた。

「だが――時間は、もう残されていない。
 このままでは、貴女を奪い返すことすら叶わなくなる」

その言葉に、王女の胸が強く跳ねた。

(……奪い返す? 私を……?)

思わず息が詰まり、喉が凍りつく。

ルデクは、ゆるやかに顔を上げて、王女を見つめる。
その瞳には、迷いも打算もなく、ただ切実な願いだけが宿っていた。

「それでも、姫さま。
 今この瞬間だけは……どうか、貴女の心がどこにあるのか、それだけは教えてほしい。我らの忠義が、独りよがりで終わらぬように」

王女は言葉を失ったまま、その視線を受け止めるしかなかった。

「我らには備えがある。……姫さまが望むなら、我らは命を賭ける」

その言葉は誓いの刃のように、静かに胸に突き刺さる。

「今はすべてを明かす時ではない。――だが必ず、その時は来る」

ルデクの瞳が、王女をまっすぐに捉えた。
祈りを装う静寂の中で、二人だけの時が止まる。

王女は唇を開きかけ、しかし声を結べなかった。
胸の奥では、何かが応えようと必死に手を伸ばしていた。

(……けれど、今の私には……)

あまりにも大きな言葉。
あまりにも重い忠義。
それを受け止める力を、今の自分は持っていない。

ただ、心を揺さぶる熱だけが残り、喉を震わせた。

(……応えなければ……でも……)

石畳の静けさの中で、王女はただ拳を握りしめることしかできなかった。

ルデクの瞳が、ふっと、かすかに笑んだ。
それは、どこか寂しげで、静かな痛みを湛えた微笑だった。

何も言わず、彼は身を翻し、
祈る者のふりをして神殿の奥を離れ、静かに扉のほうへと向かっていく。

石畳を渡る足音はすぐに静けさに吸い込まれ、
やがて扉が音もなく閉じた。

残されたのは、王女の胸に残る飴の甘さと、言葉にならなかった想いだけだった。




「……姫様? どうかされましたか?」

はっとして振り返ると、そこには、いつもと変わらぬ無表情を湛えたミレイユの姿。
手には帳簿のようなものを抱えていた。

一刻ほど所用で外すと告げた彼女が、ちょうど戻ってきたのだろう。
王女は何気ないふりで首を横に振った。

「……いいえ、なんでもないわ」

だが胸の奥では、ついさきほどまで交わされた言葉が、火のように燻っていた。
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