冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―

唯 さらら

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第四章 帝国の象徴〈承〉

10 哀願と試練

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── 帝城・謁見の間 ──

高い天窓から射す光が、冷たい大理石の床を白く切り取っていた。
石柱に囲まれた広間は、音を飲み込んで静まり返っている。
深紅の絨毯が、玉座へと至る道をまっすぐに貫いていた。

王女は衛兵に導かれ、重々しい扉をくぐる。
その足取りは、わずかに震えながらも確かだった。

「これは陛下の特別のご許可によるものであることを、お忘れなきよう」
玉座の脇に控えたセヴランが、静かに言い放った。

この場に呼ばれるのは常に皇帝の意志。
囚われの身の王女が、自らの望みでここに立つなど――本来なら決して許されぬこと。

王女は深く息を吸い込み、膝を床につけた。
「……この身が鎖に繋がれていること、重々承知しております」
声は震えながらも、確かに響いた。
「それでもなお――お願いがあり、この場に参りました」

玉座の上で皇帝の影が動く。
刃のような眼差しが王女を捕らえたのち、広間に降ったのは儀礼につきあうような声。冷ややかでありながら、どこか芝居を愉しむ響きがあった。

「――では、そなたの望みを聞こう。
 その口より、正しく言葉を尽くして申してみよ」

大理石に額が映るほど深く頭を垂れて、王女は震える声を押し出す。

「……どうか、我が故国の者たちを……罠にかけるのは、おやめください」

謁見の間に、冷たい沈黙が降りる。
やがて、玉座の影がふっと肩を揺らした。

「罠?」
軽く笑むような響き。
「そなたは何を言っている。
 帝国の治安は平穏そのもの――いったい誰を、何を指しているのだ」

王女の背に、嘲りとも憐れみともつかぬ声音が降り注いだ。

王女は唇を強く噛み、顔を上げる。
どうせここに来た時点で、自分はダリオスの慈悲にすがろうとしている――その覚悟を、いま形にするしかなかった。

「……我が故国の者たちが、私を奪い返そうとしている計画のことです」

言葉を吐き出した瞬間、謁見の間に鋭い緊張が走る。
だが王女は怯まず、玉座を見上げて声を重ねた。

「彼らの命だけは……どうか、助けていただきたい」

言って、再び深く頭を垂れる。
大理石の床に落ちる声は震えていたが、その震えを支えているのは、確かな意志だった。

玉座の上で、ダリオスがふっと口元を歪めた。
笑い声は低く、謁見の間の静けさを嘲るように響く。

「囮にされたと分かっていながら、その罠の主に助けを乞うしかない。……それでこそ囚われの姫だ。哀れなものだな」

瞳の奥に愉悦の光を宿し、さらに言葉を重ねる。

「それにしても――お前は奴らにとって、よほど美味い餌だったらしい。
 忠義だの誇りだのと吠え立てて……飢えた獣が肉に群がるように食いついてきた」

王女の胸に、鋭い棘が突き立つようだった。
わかっていた。こうして縋ることが、どれほどの屈辱を招くかは。
震えが止まらない。けれど、頭を垂れたまま耐えた。

ダリオスは、耐える王女の姿をしばし眺めていたが、
やがて、退屈を切り裂くように低い声が落ちた。

「命を助けるかどうかは――俺が決めることだ。
 お前の懇願など、せいぜい判断を愉しむための肴にすぎん」

冷笑を滲ませた声が、広い謁見の間に響き渡る。

王女は顔を上げぬまま、必死に声を絞り出した。

「……まだ、計画は実行に移されてはおりません。
 私は決して、彼らの企てに乗るつもりはございません。
 陛下の戯れの罠さえなければ――本来、彼らは何の罪もなかったはずなのです。
 どうか……どうか、その命だけは……」

声は掠れて震え、胸の奥で焼けるような羞恥と恐怖に押し潰されそうだった。

「罪もない、だと?」
玉座の上から落ちる声は、冷たく乾いていた。
「芽吹いた反乱は、それだけで毒だ。罪を問うまでもなく、摘み取るに限る」

王女の胸に、冷水を浴びせられたような戦慄が走る。
言葉を尽くしても、理を重ねても、この男の前ではすべて無に帰す――。

王女の沈黙を愉しむように、玉座の男はしばし瞳を細めた。
そして、声の調子を変える。

「それとも……引き換えに、何かお前に差し出せるものがあるのか?」

ダリオスは唇の端をわずかに吊り上げる。
「帝国の利益に資するものを、亡国の王女が持ち得るというのなら――聞いてやってもいい」

その声は、柔らかくさえ響くのに、鋭い刃を含んでいた。
王女は息を呑む。

(……何を……差し出せば……)

すでに自分の身は、この男に捧げられている。
名も、国も、誇りさえ、すべてを奪われて。
これ以上、何を差し出せば彼を動かせるのか――その答えが、どうしても浮かばなかった。

静まり返った謁見の間に、王女の沈黙が重く垂れ込める。

時が止まったような間が続き――
やがて、玉座から低い吐息が落ちた。

「……話にならんな」

ダリオスの声音は、冷ややかに切り捨てるようだった。
「忘れるな。お前の価値は――帝国の覇を示す証にすぎない」

その言葉は、石壁よりも重く響き、王女の胸を押し潰した。
血の通う存在としてではなく、ただ印としてのみ価値を認められる。
それが、彼の下にある自分の真実なのだ。

王女は為すすべなく、胸の奥の震えを押し殺すしかなかった。
言葉も涙も出てこない。

そんな彼女を見下ろし、玉座の男は低く告げた。

「最後の最後まで――囮の役を遂行せよ」

声は冷徹で、微塵の揺らぎもなかった。

「お前を“叛乱の旗印”として罰するつもりはない。
 選べる道は二つだけだ。
 一つ――何も知らぬまま、ただ利用され、囮となり果てる哀れな王女。
 もう一つ――帝国への忠誠を示し、自ら囮の役を引き受けたと胸を張る王女」

王女の胸に、重い鉄鎖のような言葉が絡みついていく。

(……どうすればいい……?)

必死に思考を巡らせる。
せめて、自分が外へ出なければ。
自分が現れなければ、ルデクたちは異変に気づき、計画を取りやめて逃げてくれるかもしれない。

その一縷の望みに縋るように、王女は口を開いた。

「……嫌です」

声はかすれて震えた。
けれど、唇は必死に言葉を紡ぐ。

「囮だとわかった以上、私は――城を出ません」

否が通じる相手ではないとわかっている。
それでも、この胸に押し寄せる恐怖と焦燥の中で、黙っていることはできなかった。

ダリオスが玉座からゆっくりと立ち上がった。
石床に落ちるその影は長く、歩みはまるで儀式の一部のように静かだった。ゆっくりと王女の方へと歩を進める。

王女は膝をついたまま動けなかった。
玉座から降りてくる彼が、なぜこれほどまでに恐ろしいのか。
理屈では説明できない。ただ、本能が危機を告げていた。

ダリオスはすぐ目の前まで来ると、腰をかがめ、王女の耳元に低くささやいた。

「囮を続けたくないというのなら……」

微笑を含んだ声音のまま、唇がさらに近づく。

「城の外で――他の男と逢引きした咎で、牢に繋がれるか?」

息が止まる。
それが誰のことを指しているのか、すぐにわかった。

「その場合、相手の男も当然捕らえねばなるまいな」
ダリオスは、王女の反応を愉しむように、ゆっくりと立ち上がる。

「そして尋問するうちに、裏にあるものが――芋づる式に露わになるかもしれん」

その声音には、心の底からこの展開を楽しむ者だけが持つ、残酷な愉悦が滲んでいた。

「さて、どうする? 囮を拒み、牢に繋がれるか。
 それとも、黙って囮の役目を果たし続けるか――」

王女の目の前に突きつけられたのは、選択肢などではなかった。
どちらも地獄。守りたい者たちを犠牲にする未来だった――



「陛下。刻限でございます」

セヴランの声が静かに告げられた。
時間を知らせる一言が、謁見の間の空気をさらに冷たく凍らせる。

ダリオスは、わずかに鼻先を鳴らし、
「……下がれ」
軽く手を払うように王女に示すと、背を翻して玉座へ戻っていった。

衛兵が進み出る。
王女の傍らに立ち、退出を促す。

だが――
「待って!」

反射のように、王女は声を張り上げていた。
腕を掴まれるより早く、数歩、前へ踏み出す。

「どうか……聞いてください! 彼らは、私の民です!
 国を奪われても、名を失っても――それでも、あの人たちは、私の……!」

声が震え、喉が焼ける。
言葉が追いつかないほどの焦燥と怒りと、どうしようもない祈り。

「私が、守らなければ……!」

その叫びが、石壁にぶつかって跳ね返り、
静まり返った謁見の間に、刺すような空気が走った。

セヴランが一歩、前へ出る。
冷たい声が容赦なく王女を切り裂く。
「姫。感情に任せた言動は、陛下の御前の礼を欠く。退出されよ。これ以上の発言は許されぬ」

衛兵の手が伸び、王女の腕を強く掴む。
彼女はなおも何かを叫ぼうとしたが、引かれる力に従うしかなかった。

玉座の男――
ダリオスは、玉座に身を預けたまま、静かに笑っていた。
その笑みが、王女の胸を凍りつかせる。

重い扉へと連れていかれる途中、王女は振り返り、しがみつくように言葉を絞り出した。

「……どうか……どうか、命だけは……」

その声が届いたかどうかはわからない。
閉じられた扉が重々しい音を響かせ、
謁見の間には、再び沈黙だけが満ちていた。



 * * *



重い扉が閉じ、謁見の間に再び静寂が落ちた。
残されたのは、玉座に座す皇帝と、その傍らに控えるセヴランだけ。

セヴランはしばし沈黙を保ち、やがて低く口を開いた。

「……以前も申し上げましたが」
視線は伏せたまま、声音にはかすかな憂いが混じる。
「あまりに酷な扱いが過ぎれば、人というのは折れるものでございますよ」

ダリオスは玉座の肘掛けに身を預け、片手で顎を支えた。
「……承知の上だ」

低く、揺らぎのない声。

「折れればそれまでのこと。所詮は亡国の姫だ」

命を秤にかける支配者の言葉だった。
そこには、弱きものの限界を見極める冷たさがあった。

一瞬の沈黙。
やがて、ダリオスの唇にかすかな息が漏れる。

「……けれど、あの火はまだ消えていない。燃えるか、掻き消えるか――見届けてやるさ」

その声には、ほんのわずかに柔らかさが滲んでいた。
冷徹な理の奥に、名もなき願いのようなものが灯る。

高窓から射す光が、石床にゆるやかに揺れていた。
ダリオスは静かに王女の去った扉の方へ視線を向けた。
冷たさも、微笑もない――ただ、燃え残る小さな光を確かめるように。
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