32 / 75
第四章 帝国の象徴〈承〉
11 絶望の先に
しおりを挟む
── 帝城・回廊 ──
重い扉が背後で閉ざされる。
その音は、謁見の間に残した声が二度と届かぬことを告げる鐘のようだった。
厚い扉の向こうからは、何の気配も返ってこない。
石造りの回廊に、衛兵の靴音だけが乾いた響きを残す。
王女はその音を聞きながら、胸の奥で何かが静かに崩れていくのを感じていた。
(……届かなかった……)
── 王女の居室 ──
衛兵に導かれ、王女は重い足取りで回廊を進んだ。
やがて自室の扉の前に立たされると、無言のまま中へ押し入れられる。
足がもつれ、思わずよろめいた。
背後で扉が閉ざされる音だけが、冷たく響く。
その瞬間、全身から力が抜けた。
支えを失った身体は、糸の切れた人形のように床へ崩れ落ちる。
冷たい石の感触が手のひらを刺し、息が浅く漏れた。
胸の奥は空洞のように虚しく、喉は乾ききって声も出ない。
謁見の間での叫びは、石壁に吸い込まれただけだった。
誇りも羞恥も投げ捨て、頭を垂れ、声を枯らしても――
皇帝は冷たい笑みを浮かべて、ただ退けた。
胸が焼けるように痛んだ。
けれど涙は出なかった。
涙を流せば、それは彼の与えた絶望を受け入れることになる気がした。
床にうずくまり、王女は顔を上げることもできない。
胸の奥に残っているのは、謁見の間で退けられた言葉の余韻だった。
――囮を続けるか、牢に繋がれるか。
その一節だけが、他をかき消すように何度も脳裏で反響していた。
そのとき、扉の金具が音を立てた。
銀盆を抱えたミレイユが静かに入ってくる。
無言のまま、水差しと杯を机に置き、部屋を一巡して点検する。
すべて、いつもと変わらぬ仕草のはずだった。
けれど、王女の胸には、堪えきれぬ熱が渦巻いていた。
――『城外で他の男と逢引きした咎で、牢に繋がれるか――』
ダリオスの冷たい声が、耳奥に焼きついて離れない。
(……露店で私とルデクを見ていたのも、この人……)
(神殿で会話できたのも、彼女が“たまたま”場を離れていたから……)
ダリオスの罠だと気づいた時点で、わかっていた。
ミレイユがわざとあの場を離れ、会話の機会を作ったのだと。
それがすべて、ダリオスの命令に従った行動であることも理解していた。
……理解はしていた。
だが今、絶望に押し潰されそうな胸の奥で、
その理解は、理屈では収まりきらない怒りへと変わっていた。
「……どうして……」
掠れた声がこぼれた。
ミレイユの手が一瞬、止まる。
王女は立ち上がり、堰を切ったように叫んでいた。
「どうして、そんなことができるの……!
露店での私たちを、陛下に報告して……
神殿で、わざとその場を離れて……罠を仕掛けて……!
命じられたからって――どうして、そんなふうに人を追い詰めることができるの?
それが誰かの命を奪うかもしれないって、分かっていたでしょう!?」
震える声が、石壁に跳ね返って部屋を満たす。
ミレイユはただ黙って王女を見つめていた。
その瞳には揺らぎがなく、王女の激情だけが空気を震わせ続けていた。
「それが私の仕事だからです」
淡々とした答え。
短い沈黙ののち、ミレイユは少し首をかしげてから、重ねた。
「命じられたことを果たすのは、当たり前のことです。
陛下に仕えると決めているのだから、それが当然ではありませんか」
素朴な声音。
それは怒りを受け止めるでも、反論するでもない。
ただ、王女には理解できない冷たさで胸を突いてきた。
「……っ」
喉の奥までせり上がっていた言葉が、そこで途切れる。
怒りはなお燃えているのに、目の前の相手は熱を受け止めない。
その虚しさが、かえって力を削いでいった。
王女は唇を噛み、視線を逸らすしかなかった。
やがて、静かな足音が扉の方へ向かう。
出ていく直前、ミレイユは振り返らずに言い置いた。
「姫様は――姫様の“やる”と決められたことを、なさればいいのではありませんか?」
それは慰めでも、叱責でもなかった。
ただ静かに放たれた問いかけだった。
次の瞬間、扉が閉まる音が響き、石壁に淡く余韻を残す。
王女はしばらく動けなかった。
胸の奥では、ミレイユの言葉が、何度も繰り返し響いていた。
――姫様は、姫様の“やる”と決められたことを。
(……私の“やると決めたこと”……)
それは、ルデクたちを救うこと。
彼らの命を――何としてでも、守り抜くと誓ったのだ。
必死の懇願は退けられ、
声も涙も、ただ石壁に吸い込まれていった。
けれど、それでも。
(私は、彼らを決して死なせはしないと決めた)
胸の奥に、ひそやかな灯がともる。
それは怒りでも、嘆きでもない。
ひとすじの意志だけが、暗闇の底で確かに息づいている。
ならば。
この手で――別の道を探せばいい。
ダリオスにすがるだけが、すべてではない。
この籠の中に囚われていても、まだ為せることがあるはずだ。
* * *
王女は、うずくまったまま両腕で自分を抱きしめていた。
胸の奥にともった小さな灯を守るように――。
けれど、どれほど考えても答えは見つからなかった。
思考は輪を描くだけで、時の砂が静かに落ちていく。
格子窓の外では、光が少しずつ傾いていく。
白く照らしていた石壁には、長い影が伸び、
やがて橙の色が部屋に沈むような陰を落とした。
(……やっぱり、別の方法なんてないの……?)
空の色が暮れへと移ろうように、
胸の中の灯も、かすかに揺らめいていた。
掴もうとした希望が、指の隙間から零れ落ちていく感覚――。
そのとき、不意にあの男の声が脳裏に浮かんだ。
――『お前の価値は、帝国の覇を示す証にすぎない』
冷たく突き刺さる声。
だが、なぜかその言葉が胸の奥にひっかかった。
「……私の、価値……」
思わず、唇から小さくこぼれた。
「……私は……『帝国の覇と慈悲を示す証』……」
幾度となく男に突きつけられてきた屈辱の言葉。
それを、そっと唇に乗せてみる。
声は沈みゆく部屋の空気に溶け、静かな波紋のように消えていった。
ふいに、夜会の光景が脳裏によみがえる。
並ぶ客人たちの前で、男が朗々と告げた言葉。
『覇を示す証。滅びの血統すら我が掌にあるという事実。
そして慈悲を示す証。処刑ではなく庇護の下に生かされ、こうして帝国に立つという姿。
ここにあるのは、帝国の覇と慈悲――その両方だ』
思考の奥で、何かが閃光のように弾けた。
胸の奥に、ひと筋の光が射し込む。
(……私の価値。それは――生きているからこそ……!)
息を呑み、王女は膝を抱いた姿勢のまま顔を上げた。
窓格子を透かして差し込む夕暮れの橙が、頬に淡い光を刻んだ――。
重い扉が背後で閉ざされる。
その音は、謁見の間に残した声が二度と届かぬことを告げる鐘のようだった。
厚い扉の向こうからは、何の気配も返ってこない。
石造りの回廊に、衛兵の靴音だけが乾いた響きを残す。
王女はその音を聞きながら、胸の奥で何かが静かに崩れていくのを感じていた。
(……届かなかった……)
── 王女の居室 ──
衛兵に導かれ、王女は重い足取りで回廊を進んだ。
やがて自室の扉の前に立たされると、無言のまま中へ押し入れられる。
足がもつれ、思わずよろめいた。
背後で扉が閉ざされる音だけが、冷たく響く。
その瞬間、全身から力が抜けた。
支えを失った身体は、糸の切れた人形のように床へ崩れ落ちる。
冷たい石の感触が手のひらを刺し、息が浅く漏れた。
胸の奥は空洞のように虚しく、喉は乾ききって声も出ない。
謁見の間での叫びは、石壁に吸い込まれただけだった。
誇りも羞恥も投げ捨て、頭を垂れ、声を枯らしても――
皇帝は冷たい笑みを浮かべて、ただ退けた。
胸が焼けるように痛んだ。
けれど涙は出なかった。
涙を流せば、それは彼の与えた絶望を受け入れることになる気がした。
床にうずくまり、王女は顔を上げることもできない。
胸の奥に残っているのは、謁見の間で退けられた言葉の余韻だった。
――囮を続けるか、牢に繋がれるか。
その一節だけが、他をかき消すように何度も脳裏で反響していた。
そのとき、扉の金具が音を立てた。
銀盆を抱えたミレイユが静かに入ってくる。
無言のまま、水差しと杯を机に置き、部屋を一巡して点検する。
すべて、いつもと変わらぬ仕草のはずだった。
けれど、王女の胸には、堪えきれぬ熱が渦巻いていた。
――『城外で他の男と逢引きした咎で、牢に繋がれるか――』
ダリオスの冷たい声が、耳奥に焼きついて離れない。
(……露店で私とルデクを見ていたのも、この人……)
(神殿で会話できたのも、彼女が“たまたま”場を離れていたから……)
ダリオスの罠だと気づいた時点で、わかっていた。
ミレイユがわざとあの場を離れ、会話の機会を作ったのだと。
それがすべて、ダリオスの命令に従った行動であることも理解していた。
……理解はしていた。
だが今、絶望に押し潰されそうな胸の奥で、
その理解は、理屈では収まりきらない怒りへと変わっていた。
「……どうして……」
掠れた声がこぼれた。
ミレイユの手が一瞬、止まる。
王女は立ち上がり、堰を切ったように叫んでいた。
「どうして、そんなことができるの……!
露店での私たちを、陛下に報告して……
神殿で、わざとその場を離れて……罠を仕掛けて……!
命じられたからって――どうして、そんなふうに人を追い詰めることができるの?
それが誰かの命を奪うかもしれないって、分かっていたでしょう!?」
震える声が、石壁に跳ね返って部屋を満たす。
ミレイユはただ黙って王女を見つめていた。
その瞳には揺らぎがなく、王女の激情だけが空気を震わせ続けていた。
「それが私の仕事だからです」
淡々とした答え。
短い沈黙ののち、ミレイユは少し首をかしげてから、重ねた。
「命じられたことを果たすのは、当たり前のことです。
陛下に仕えると決めているのだから、それが当然ではありませんか」
素朴な声音。
それは怒りを受け止めるでも、反論するでもない。
ただ、王女には理解できない冷たさで胸を突いてきた。
「……っ」
喉の奥までせり上がっていた言葉が、そこで途切れる。
怒りはなお燃えているのに、目の前の相手は熱を受け止めない。
その虚しさが、かえって力を削いでいった。
王女は唇を噛み、視線を逸らすしかなかった。
やがて、静かな足音が扉の方へ向かう。
出ていく直前、ミレイユは振り返らずに言い置いた。
「姫様は――姫様の“やる”と決められたことを、なさればいいのではありませんか?」
それは慰めでも、叱責でもなかった。
ただ静かに放たれた問いかけだった。
次の瞬間、扉が閉まる音が響き、石壁に淡く余韻を残す。
王女はしばらく動けなかった。
胸の奥では、ミレイユの言葉が、何度も繰り返し響いていた。
――姫様は、姫様の“やる”と決められたことを。
(……私の“やると決めたこと”……)
それは、ルデクたちを救うこと。
彼らの命を――何としてでも、守り抜くと誓ったのだ。
必死の懇願は退けられ、
声も涙も、ただ石壁に吸い込まれていった。
けれど、それでも。
(私は、彼らを決して死なせはしないと決めた)
胸の奥に、ひそやかな灯がともる。
それは怒りでも、嘆きでもない。
ひとすじの意志だけが、暗闇の底で確かに息づいている。
ならば。
この手で――別の道を探せばいい。
ダリオスにすがるだけが、すべてではない。
この籠の中に囚われていても、まだ為せることがあるはずだ。
* * *
王女は、うずくまったまま両腕で自分を抱きしめていた。
胸の奥にともった小さな灯を守るように――。
けれど、どれほど考えても答えは見つからなかった。
思考は輪を描くだけで、時の砂が静かに落ちていく。
格子窓の外では、光が少しずつ傾いていく。
白く照らしていた石壁には、長い影が伸び、
やがて橙の色が部屋に沈むような陰を落とした。
(……やっぱり、別の方法なんてないの……?)
空の色が暮れへと移ろうように、
胸の中の灯も、かすかに揺らめいていた。
掴もうとした希望が、指の隙間から零れ落ちていく感覚――。
そのとき、不意にあの男の声が脳裏に浮かんだ。
――『お前の価値は、帝国の覇を示す証にすぎない』
冷たく突き刺さる声。
だが、なぜかその言葉が胸の奥にひっかかった。
「……私の、価値……」
思わず、唇から小さくこぼれた。
「……私は……『帝国の覇と慈悲を示す証』……」
幾度となく男に突きつけられてきた屈辱の言葉。
それを、そっと唇に乗せてみる。
声は沈みゆく部屋の空気に溶け、静かな波紋のように消えていった。
ふいに、夜会の光景が脳裏によみがえる。
並ぶ客人たちの前で、男が朗々と告げた言葉。
『覇を示す証。滅びの血統すら我が掌にあるという事実。
そして慈悲を示す証。処刑ではなく庇護の下に生かされ、こうして帝国に立つという姿。
ここにあるのは、帝国の覇と慈悲――その両方だ』
思考の奥で、何かが閃光のように弾けた。
胸の奥に、ひと筋の光が射し込む。
(……私の価値。それは――生きているからこそ……!)
息を呑み、王女は膝を抱いた姿勢のまま顔を上げた。
窓格子を透かして差し込む夕暮れの橙が、頬に淡い光を刻んだ――。
0
あなたにおすすめの小説
転生後はゆっくりと
衣更月
ファンタジー
貧しい集落で生まれたリリは、生まれた瞬間から前世の記憶があった。
日本人特有の”配慮”に徹した赤ん坊を演じていたことで、両親から距離を置かれた挙句、村人からも「不気味な子」として敬遠されることに…。
そして、5才の誕生日に遠くの町に捨てられた。
でも、リリは悲観しない。
前世の知識チートは出来ないけど、大人メンタルで堅実に。
目指すは憧れのスローライフが出来るほど、ほどほどの守銭奴としてリリは異世界人として順応していく。
全25話(予定)
モブ転生とはこんなもの
詩森さよ(さよ吉)
恋愛
あたしはナナ。貧乏伯爵令嬢で転生者です。
乙女ゲームのプロローグで死んじゃうモブに転生したけど、奇跡的に助かったおかげで現在元気で幸せです。
今ゲームのラスト近くの婚約破棄の現場にいるんだけど、なんだか様子がおかしいの。
いったいどうしたらいいのかしら……。
現在筆者の時間的かつ体力的に感想などを受け付けない設定にしております。
どうぞよろしくお願いいたします。
他サイトでも公開しています。
王様の恥かきっ娘
青の雀
恋愛
恥かきっ子とは、親が年老いてから子供ができること。
本当は、元気でおめでたいことだけど、照れ隠しで、その年齢まで夫婦の営みがあったことを物語り世間様に向けての恥をいう。
孫と同い年の王女殿下が生まれたことで巻き起こる騒動を書きます
物語は、卒業記念パーティで婚約者から婚約破棄されたところから始まります
これもショートショートで書く予定です。
英雄の番が名乗るまで
長野 雪
恋愛
突然発生した魔物の大侵攻。西の果てから始まったそれは、いくつもの集落どころか国すら飲みこみ、世界中の国々が人種・宗教を越えて協力し、とうとう終息を迎えた。魔物の駆逐・殲滅に目覚ましい活躍を見せた5人は吟遊詩人によって「五英傑」と謳われ、これから彼らの活躍は英雄譚として広く知られていくのであろう。
大侵攻の終息を祝う宴の最中、己の番《つがい》の気配を感じた五英傑の一人、竜人フィルは見つけ出した途端、気を失ってしまった彼女に対し、番の誓約を行おうとするが失敗に終わる。番と己の寿命を等しくするため、何より番を手元に置き続けるためにフィルにとっては重要な誓約がどうして失敗したのか分からないものの、とにかく庇護したいフィルと、ぐいぐい溺愛モードに入ろうとする彼に一歩距離を置いてしまう番の女性との一進一退のおはなし。
※小説家になろうにも投稿
生きるために逃げだした。幸せになりたい。
白水緑
ファンタジー
屋敷内に軟禁状態だったリリアは、宝物を取り戻したことをきっかけに屋敷から逃げ出した。幸せになるために。体力も力もない。成り行きに身を任せる結果になっても、自分の道は自分で選びたい。
2020/9/19 第一章終了
続きが書け次第また連載再開します。
2021/2/14 第二章開幕
2021/2/28 完結
走馬灯に君はいない
優未
恋愛
リーンには前世の記憶がある。それは、愛を誓い合ったはずの恋人の真実を知り、命を落とすというもの。今世は1人で生きていくのもいいと思っていたところ、急に婚約話が浮上する。その相手は前世の恋人で―――。
三年の想いは小瓶の中に
月山 歩
恋愛
結婚三周年の記念日だと、邸の者達がお膳立てしてくれた二人だけのお祝いなのに、その中心で一人夫が帰らない現実を受け入れる。もう彼を諦める潮時かもしれない。だったらこれからは自分の人生を大切にしよう。アレシアは離縁も覚悟し、邸を出る。
※こちらの作品は契約上、内容の変更は不可であることを、ご理解ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる