冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―

唯 さらら

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第四章 帝国の象徴〈承〉

11 絶望の先に

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── 帝城・回廊 ──

重い扉が背後で閉ざされる。
その音は、謁見の間に残した声が二度と届かぬことを告げる鐘のようだった。

厚い扉の向こうからは、何の気配も返ってこない。
石造りの回廊に、衛兵の靴音だけが乾いた響きを残す。
王女はその音を聞きながら、胸の奥で何かが静かに崩れていくのを感じていた。

(……届かなかった……)



── 王女の居室 ──

衛兵に導かれ、王女は重い足取りで回廊を進んだ。
やがて自室の扉の前に立たされると、無言のまま中へ押し入れられる。

足がもつれ、思わずよろめいた。
背後で扉が閉ざされる音だけが、冷たく響く。

その瞬間、全身から力が抜けた。
支えを失った身体は、糸の切れた人形のように床へ崩れ落ちる。
冷たい石の感触が手のひらを刺し、息が浅く漏れた。

胸の奥は空洞のように虚しく、喉は乾ききって声も出ない。
謁見の間での叫びは、石壁に吸い込まれただけだった。
誇りも羞恥も投げ捨て、頭を垂れ、声を枯らしても――
皇帝は冷たい笑みを浮かべて、ただ退けた。

胸が焼けるように痛んだ。
けれど涙は出なかった。
涙を流せば、それは彼の与えた絶望を受け入れることになる気がした。

床にうずくまり、王女は顔を上げることもできない。
胸の奥に残っているのは、謁見の間で退けられた言葉の余韻だった。

――囮を続けるか、牢に繋がれるか。
その一節だけが、他をかき消すように何度も脳裏で反響していた。

そのとき、扉の金具が音を立てた。

銀盆を抱えたミレイユが静かに入ってくる。
無言のまま、水差しと杯を机に置き、部屋を一巡して点検する。
すべて、いつもと変わらぬ仕草のはずだった。

けれど、王女の胸には、堪えきれぬ熱が渦巻いていた。

――『城外で他の男と逢引きした咎で、牢に繋がれるか――』

ダリオスの冷たい声が、耳奥に焼きついて離れない。

(……露店で私とルデクを見ていたのも、この人……)
(神殿で会話できたのも、彼女が“たまたま”場を離れていたから……)

ダリオスの罠だと気づいた時点で、わかっていた。
ミレイユがわざとあの場を離れ、会話の機会を作ったのだと。
それがすべて、ダリオスの命令に従った行動であることも理解していた。

……理解はしていた。

だが今、絶望に押し潰されそうな胸の奥で、
その理解は、理屈では収まりきらない怒りへと変わっていた。

「……どうして……」

掠れた声がこぼれた。
ミレイユの手が一瞬、止まる。

王女は立ち上がり、堰を切ったように叫んでいた。

「どうして、そんなことができるの……!
 露店での私たちを、陛下に報告して……
 神殿で、わざとその場を離れて……罠を仕掛けて……!
 命じられたからって――どうして、そんなふうに人を追い詰めることができるの?
 それが誰かの命を奪うかもしれないって、分かっていたでしょう!?」

震える声が、石壁に跳ね返って部屋を満たす。

ミレイユはただ黙って王女を見つめていた。
その瞳には揺らぎがなく、王女の激情だけが空気を震わせ続けていた。

「それが私の仕事だからです」

淡々とした答え。
短い沈黙ののち、ミレイユは少し首をかしげてから、重ねた。

「命じられたことを果たすのは、当たり前のことです。
 陛下に仕えると決めているのだから、それが当然ではありませんか」

素朴な声音。
それは怒りを受け止めるでも、反論するでもない。
ただ、王女には理解できない冷たさで胸を突いてきた。

「……っ」

喉の奥までせり上がっていた言葉が、そこで途切れる。
怒りはなお燃えているのに、目の前の相手は熱を受け止めない。
その虚しさが、かえって力を削いでいった。

王女は唇を噛み、視線を逸らすしかなかった。

やがて、静かな足音が扉の方へ向かう。
出ていく直前、ミレイユは振り返らずに言い置いた。

「姫様は――姫様の“やる”と決められたことを、なさればいいのではありませんか?」

それは慰めでも、叱責でもなかった。
ただ静かに放たれた問いかけだった。

次の瞬間、扉が閉まる音が響き、石壁に淡く余韻を残す。

王女はしばらく動けなかった。
胸の奥では、ミレイユの言葉が、何度も繰り返し響いていた。

――姫様は、姫様の“やる”と決められたことを。

(……私の“やると決めたこと”……)

それは、ルデクたちを救うこと。
彼らの命を――何としてでも、守り抜くと誓ったのだ。

必死の懇願は退けられ、
声も涙も、ただ石壁に吸い込まれていった。
けれど、それでも。

(私は、彼らを決して死なせはしないと決めた)

胸の奥に、ひそやかな灯がともる。
それは怒りでも、嘆きでもない。
ひとすじの意志だけが、暗闇の底で確かに息づいている。

ならば。
この手で――別の道を探せばいい。

ダリオスにすがるだけが、すべてではない。
この籠の中に囚われていても、まだ為せることがあるはずだ。



 * * *



王女は、うずくまったまま両腕で自分を抱きしめていた。
胸の奥にともった小さな灯を守るように――。

けれど、どれほど考えても答えは見つからなかった。
思考は輪を描くだけで、時の砂が静かに落ちていく。

格子窓の外では、光が少しずつ傾いていく。
白く照らしていた石壁には、長い影が伸び、
やがて橙の色が部屋に沈むような陰を落とした。

(……やっぱり、別の方法なんてないの……?)

空の色が暮れへと移ろうように、
胸の中の灯も、かすかに揺らめいていた。
掴もうとした希望が、指の隙間から零れ落ちていく感覚――。

そのとき、不意にあの男の声が脳裏に浮かんだ。

――『お前の価値は、帝国の覇を示す証にすぎない』

冷たく突き刺さる声。
だが、なぜかその言葉が胸の奥にひっかかった。

「……私の、価値……」

思わず、唇から小さくこぼれた。

「……私は……『帝国の覇と慈悲を示す証』……」

幾度となく男に突きつけられてきた屈辱の言葉。
それを、そっと唇に乗せてみる。
声は沈みゆく部屋の空気に溶け、静かな波紋のように消えていった。

ふいに、夜会の光景が脳裏によみがえる。
並ぶ客人たちの前で、男が朗々と告げた言葉。

『覇を示す証。滅びの血統すら我が掌にあるという事実。
 そして慈悲を示す証。処刑ではなく庇護の下に生かされ、こうして帝国に立つという姿。
 ここにあるのは、帝国の覇と慈悲――その両方だ』

思考の奥で、何かが閃光のように弾けた。
胸の奥に、ひと筋の光が射し込む。

(……私の価値。それは――生きているからこそ……!)

息を呑み、王女は膝を抱いた姿勢のまま顔を上げた。
窓格子を透かして差し込む夕暮れの橙が、頬に淡い光を刻んだ――。
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