冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―

唯 さらら

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第六章 呼吸する象徴

2 象徴の呼吸

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── 帝城・執務室 ──

厚い沈黙が、執務室を満たした。
机の上では、再び筆の音が微かに走り出す。その音が、先ほどまでの対話の余韻を静かに断ち切っていた。

しばし沈黙が流れたのち、王女はためらいがちに口を開いた。
「……ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」

「なんだ」
ダリオスの声は相変わらず平板で、机上の書簡から目を上げもしない。

「先日の全州会議――あの場に、なぜ私を呼ばれたのですか」

言いながら、胸の奥が微かに締めつけられる。問いを発するだけで、息が詰まるほどの勇気が要った。

筆先が止まり、静かな間が落ちる。やがて、低い笑い声が響いた。
「面白そうだと思ったからだ」

王女は一瞬、言葉を失った。
「……面白そう、とは……」

ダリオスは口の端をわずかに上げる。
「お前の“立派な”うわさが独り歩きしているからな。総督たちに、その間抜け面の実体を一度見せておこうと思ってな」

あまりに軽い口調に、王女は反応すらできなかった。その沈黙を、ダリオスは少し楽しむように眺めていた。

やがて、微笑を収めると同時に声の調子を落とす。
「――お前は、あの場で何を感じた?」

光の中で、瞳だけがわずかに笑っていなかった。

王女はしばらく答えられなかった。
あの場所で感じたことを、うまく言葉にできる自信がなかった。

(怖かった――)
その言葉が喉元まで上がったが、あまりに幼い響きに思えて、飲み込んだ。
視線が自然と落ち、組んだ指先がかすかに震える。

それでもやがて、静かに息を吸って口を開いた。

「……自分の行いが、思っていた以上に大きな波を立てていたのだと、感じました。
 自分の想像の届かないところで、誰かの思惑に絡め取られて、どこか遠い場所で、誰かの秤にかけられている――そんな気がして」

ダリオスは黙っている。

「正直に申せば、怖かったです。何がどう動いているのかも、その輪の中で自分が何に見られ、何を求められているのかも、わからなくて」

ほんのわずか、声が震えた。
けれど、王女は言葉を止めなかった。

「でも……わからないままでいたら、私はまた、同じ選択を繰り返すでしょう。
 だから――知りたい、と思いました。
 この世界がどう動いているのか。自分の行いがどこへ繋がっていくのか。そして、何を選べるのかを」

彼女はゆっくりと顔を上げた。
その瞳に宿る光は、恐れよりも確かな意志の色に近かった。

「次は――もっと確かな選択ができるように」

沈黙。

ダリオスはわずかに身を乗り出し、机の上で指先を組んだ。
その仕草に嘲りの気配はなく、むしろ興味深そうな光が宿っている。

「……なるほどな」

短く吐き出された声が、執務室の静寂に沈んだ。
ダリオスはしばし王女を見つめていたが、やがてゆるやかに身を起こした。

「知りたいと言うなら、見てこい」

王女はまばたきをした。

「施療院の現場をだ。書で学ぶより、現実の方がよほど雄弁だろう。
 人の傷も、嘘も、そこにすべてある」

その声音は淡々としていた。
けれど、王女の胸には重い響きとして届く。

「見て、感じて、考えろ。
 そうして初めて――この世界がどう動いているのか、
 お前の行いがどこへ繋がっていくのか、
 そして、自分が何を選べるのかを知るだろう」

言葉が途切れたあと、王女はしばらく黙っていた。胸の奥に、熱と冷たさが入り混じる。

やがて、かすかな声が漏れた。
「……知って……知ろうとして、いいのですか?」

その問いは、恐る恐る放たれた。
まるで、それを許すかどうかが自分の存在の意味を決めるかのように。

ダリオスは短く息をつき、指をほどいた。
「知ることを恐れるなら、何も選べぬ。
 知らぬままに立つ象徴など、いずれ風に崩れるだけだ」

静かな声。
慰めではなく、命令でもなく――ただ、事実としての言葉だった。

「俺はお前のために世界を説明してやるつもりはない。
 見たものの意味は、自分で決めろ。
 それが“生きている象徴”ということだ」

言葉を終えると、ダリオスは机上の筆を取り、何事もなかったように書きつけを再開した。筆先が紙を滑る音が、再び静けさの中に満ちていった。

(“生きている象徴”……)

不意に、王女の脳裏に昨日の会議の光景がよみがえった。
総督たちの前で、ダリオスは確かに言ったのだ。
――『これが“象徴”だ。名でも理でもなく、血と呼吸をもつ存在としての』

あの、“象徴”と呼ばれた瞬間、再び自分が“ただの飾り”に戻されたような気がして、胸の奥が軋んだ。
けれど、その響きが、今になって別の意味を帯びて胸の奥に残る。

そして、さらに遠い日の声が蘇った。城に連れ戻されたあの日――
――『俺はお前を生かすと決めている』

静かに思い返しながら、王女はふと息を呑んだ。

ダリオスはずっと、同じことを言っていたのではないか。
“生きていい”と。
“生きろ”と。

言葉にすれば命令のように響くその裏で、
この男はなぜか誰よりも、自分を血の通った存在として扱ってきたのかもしれない。

(駒のように扱われながら、それでも……)

胸の奥に、形の定まらぬ熱が生まれる。
それが戸惑いなのか、痛みなのか、自分でもわからなかった。

静かに息を吸い、王女は膝を折る。
「……承知いたしました」

声は震えていなかった。むしろ、いつになく澄んでいた。

「詳細は追ってセヴランが指示する」
ダリオスは視線を上げぬまま言った。

「はい」
短く答えると、王女は一歩下がり、背後で控えるミレイユの気配を感じながら、扉の方へ向き直った。

そのとき、不意に声が飛ぶ。
「――ひとつだけ、言っておく」

足が止まる。

「独断で動くことは許さない。“橋”である以上、己の意志で流れを変えるな。お前が踏み外せば、その先にいる者たちごと沈む」

背中に、冷たい声が落ちる。

王女は振り返り、静かに頭を垂れた。
「心得ております」

ミレイユが静かに扉を引いた。
王女は背後の光を受けながら、一歩、また一歩と廊下へ出た。

扉が閉じる。
厚い木の向こうで、再び筆の音が響く。
それは、帝国の時を刻むように、規則正しく静かだった。
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