冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―

唯 さらら

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第六章 呼吸する象徴

1 新たなる務め

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── 帝城・執務室 ──

厚い扉の前に立つと、回廊の空気が一段と冷たくなった。
王女は深く息を吸い、胸の奥で鼓動を押さえつける。

背後に控えるミレイユが、一歩前へ出て扉を叩いた。
「……王女殿下をお連れしました」

わずかな間。
中から響くのは、低く短い声。
「入れ」

ミレイユが静かに取手を引くと、重い蝶番が軋み、扉の隙間から冷ややかな光が流れ込んだ。

王女は一歩、足を踏み入れた。
背後でミレイユが扉を閉め、影のように後に従った。

南向きの窓から、昼の光がまっすぐ差し込んでいる。
机上に積まれた書簡や地図の端が、眩しいほどに照らされていた。
灰の絨毯は足音を吸い、空気のわずかな動きまでも止めていた。

窓を背に、皇帝ダリオスが座している。
逆光に縁どられた黒の輪郭が、机越しに長く影を落とす。
脇には、セヴランの静かな姿。

(……ここが……陛下の執務の間)

初めて見るその空間は、謁見の間とはまるで異なっていた。
天井は低く、装飾もなく、冷えた理性だけが漂っている。

王女は一歩進み、深く一礼した。
「お呼びと伺いました」

筆を走らせていたダリオスが手を止め、ゆるやかに顔を上げる。
逆光の中、瞳だけが鋭く光を返した。
「来たな」

その声は、謁見の間の響きとは違う。
威圧よりも、私語のような低さを帯びていた。

王女は立ったまま、答えを待つ。
セヴランが視線を一瞬だけ交わし、やがて淡々と口を開いた。

「姫君には、これより新たな務めを担っていただきます」

セヴランの声は、石壁の静寂に溶けていく。
王女はセヴランの方を向き、息を詰めて次の言葉を待った。

「……施療院制度の運営に関わっていただきたいのです」

「施療院……?」
王女の眉がかすかに動く。

セヴランは一歩進み、手にした書類に目を落とした。
「帝都および各州に建設が進められている施設群です。貧民や負傷者に治療と薬を無償で与える――陛下の新たな政策の一環」

「無償で……?」

「ええ。ただし、回復後には一定期間、労役地にて奉仕を行う義務が課せられます。『感謝と回復の証としての貢献』という名目のもとに」

セヴランは淡々と続ける。

「奉仕の内容は、開拓、道路整備、建築補助など。帝国の土台を築くための労役です」

「……“慈悲”と“罰”が、ひとつになっているのですね」
王女の唇から、低い声が漏れた。

セヴランはかすかな苦笑を浮かべた。

そのとき、机の向こうでダリオスが筆を置いた。軽い音が響く。
「罰ではない」

静かな声が、空気を切る。
「傷ついた者に生を与え、再び帝国の一部として立たせる。それを“罰”と呼ぶなら、世界の秩序そのものが罰だ」

王女は声の方を向いた。逆光の中で、その瞳だけが光を帯びている。

セヴランが静かに口を開いた。
「……姫君のように感じられる方は、まだ多いでしょう。
 弱き者への手差しは、見返りなき慈善であるべき――そう信じられてきた歴史がありますから」

柔らかな口調の奥に、冷静な現実がのぞく。
「ですが、陛下はお考えです。与えるだけの慈悲では、民は依存し、やがて腐る。
 自ら立ち上がる機会を与えることこそ、真の救済だと」

その言葉に、王女はわずかに息をのんだ。
セヴランの視線が机上の書簡に落ち、淡々と続けられる。

「もっとも――その考えを、善意を拠りどころとする者たちへ伝えるのは容易ではありません。理に適っていても、それだけでは人の心は動かない。
 だからこそ陛下はお考えなのです。“古い慈悲”を知る者を、橋として置くのがよい、と」

セヴランの言葉に、王女はわずかに目を伏せた。
沈黙が一つ、流れたあと――

「……私が、その橋に?」

「ええ。民の情と、陛下の考え。そのあいだに立つのに、姫君は適任です」

静かな声が、昼の光に溶けていった。

だが、その言葉に王女はわずかに息を詰めた。戸惑いに近い感情が胸をよぎる。
「なぜ、私が――」

その問いの途中で、机の向こうの男が口を開いた。
「市場での件だ」

低く、平板な声だった。
ダリオスの指先が、机の端を軽く叩く。

「“勇気ある王女”、“皇帝をも動かした王女”、“故国の者たちのために命をかけた慈悲深い王女”」
淡々と並べられた言葉は、まるで報告書の文面を読むようだった。
「これが今、帝都――いや、帝国の隅々にまで広がっているお前の呼び名だ」

王女の胸が強張る。

逆光の中、ダリオスの瞳はどこまでも冷たく澄んで王女を見つめる。

「どれも勝手な言葉だが……この人気は利用できる。
 お前が携わるならば、人々は帝国の政策に正しさを見出すだろう」

王女は息を呑んだ。
その表情を見透かしたように、ダリオスは淡々と続ける。

「――故国の者たちの命を助けろというお前の交渉に乗った理由のひとつは、そこにこの価値を見たからだ」

静寂が落ちた。王女の唇がわずかに震える。

「……価値、ですか」

「そうだ」
ダリオスの声には、わずかな笑みの響きさえあった。
「お前の涙も、命も――帝国を動かす駒としてなら、悪くない」

その言葉は刃のように静かで滑らかだった。

王女はしばし沈黙したのち、うつむきがちに口を開いた。
「……もし、実際に携わってみて――この制度に疑問を感じたら、どうすればよいのでしょう。それでも私は、推し進めねばならないのですか?」

問いながら、自分でもわかっていた。
どうせ「考えるな、従え」と言われるのだろう。そういう場所に、自分は立たされているのだから。

だが、ダリオスはわずかに眉を動かして言った。
「疑念点を見つけたら、報告しろ」

「……報告、を?」
王女は思わず顔を上げた。

「納得できる理由があるなら、こちらだって対処は検討する。我々には言えないことも、お前相手なら口にできる連中もいるだろう」

短く笑う。
「なんたって、お前は“皇帝をも動かした王女”らしいからな」

言葉の端に、わずかな揶揄が混じる。
その奥に、計算の気配がかすかに滲んでいた。

「そういった声を拾い上げるのも、お前の務めだ。橋としての仕事の一部だ」

そして一拍の間を置き、冷たく言い添える。
「――もちろん、くだらない内容は却下するがな」

静けさが再び室内に降りた。
窓から射す白光が、机上の書簡を照らしている。その光の中で、王女はわずかに息を吸った。

王女の胸に、戸惑いが広がった。
気づけば、そのまま表情に滲んでいたのだろう。

「……どうした?」
ダリオスがわずかに眉を寄せる。
「まだ、わからないことがあるか?」

王女は息を整え、言葉を探した。
「いいえ……ただ、少し驚いております。私に、このような実務を――お与えになるとは思わず」

「驚いた?」

「はい。私は、ただ“象徴”として何も考えずに立つことだけを命じられるのだと……そう思っておりました」

机の向こうで、ダリオスの唇がかすかに動く。
「もちろん、式典や祭典の際には、これからも象徴として立ってもらう」

淡々と告げたあと、一拍の沈黙。
それから、ゆるやかに声が低く落ちた。

「だが言っただろう。――『象徴は玉座に飾る人形ではない』と」

その言葉に、王女の心が微かに震えた。
(あれは……囮として使うための方便ではなかったの……?)

思わず胸の奥で呟く。
だが、目の前の男の表情には、皮肉も芝居も見当たらなかった。ただ、理に裏打ちされた確信だけが静かに漂っている。

心の奥で、何かが微かに形を変えていくのを感じた。
それが希望か、あるいは別の何かなのかは――まだ、わからなかった。
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