冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―

唯 さらら

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第六章 呼吸する象徴

14 免罪の灯

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── 第一施療院・廊下 ──

硝子窓から射す陽が、石床に細い影を描いていた。
王女は部屋を覗いては、視線の止まったものや脳裏に浮かんだことを紙片に書き留める。

(これは命令……私はそれに従うだけ)

その思いを胸の底に据えると、不思議なほど呼吸が整った。

ダリオスの言葉が耳の奥で蘇る。
――『お前はお前の持つもの全てを、この帝国のために差し出せ』
――『それを裏切りだと感じるなら、己の無力を嘆け』

(……今の私は、拒む力を持たない。ただ、それだけのこと)

自分を許すための言葉。
けれど、その免罪こそが、再び手を動かす力となっていた。



── 翌日 帝城・政務補室 ──

天井近くの小窓から、淡い光が机の上に落ちていた。
その光の中で、王女は一歩前に進み、手にした書類を差し出して報告する。

「……以上が、第一施療院の現況です」

声は静かだったが、以前のように掠れてはいない。
紙の端が揺れ、指先の動きにわずかな力が戻っている。

セヴランは受け取った書類を軽く目で追い、無言のうちに頷いた。

その動作に、ほんの一瞬の間を置いて――王女が続ける。
「あと……こちらに、いくつか提案も添えております」

差し出された紙片には、施療院の備品管理や衛生改善に関する細やかな記録が並んでいた。

セヴランは目を上げ、静かに言う。
「わかりました。後ほど、確認しておきます」

短い言葉。
けれど、その口元には、わずかに微笑が浮かんでいた。

王女は深く一礼し、静かにその場を辞した。

セヴランはしばし机上の書類を見つめたのち、小さく息を吐いた。
光の粒が舞う中で、紙の白がやわらかくきらめいていた。



── 翌週・夕刻 第一施療院・前庭 ──

炊き出しの鍋から立ちのぼる蒸気が、黄昏の光を柔らかく包んでいた。
列に並ぶ人々の頬が、火の赤で染まっている。

「姫さま、今日もありがとうございます!」
「おかげで、うちの倅も元気に――」

差し出される声に、王女は笑みを返した。
前と同じ言葉、同じ光景。
けれど今度は、胸の奥で冷たい波が立たなかった。

「それは――皆さんがよく働いたおかげです」
微笑とともに返した声は、穏やかで、自分のものとして響いた。

人々が少し驚き、そして嬉しそうに笑った。
その笑い声が風に混じる。

少し前なら胸の奥で凍りついたその響きが、今日は温かく胸に落ちていく。

(これは帝国のための行い。けれど、その命令のもとに生まれる温もりを、否定しなくていい)

胸の奥で、自分を縛っていた何かがひとつ、ほどけた気がした。

「お元気になられたようで、よかったです」

声をかけられて振り向くと、湯気の向こうにユリオがいた。
彼はいつものように、木椀を並べながら穏やかに笑っている。

「……え?」

思わず聞き返す王女に、ユリオは少し慌てたように手を振った。
「いえ、その……しばらく、元気がなかったようでしたので」

胸の奥がひやりとする。
自分の迷いが、思っていたよりも人の目に映っていたことに、頬がわずかに熱を帯びた。

「殿下が来てくださると、ここが少し明るくなるんです」
ユリオの声は、湯気の合間にやわらかく響く。
「もちろん、無理して笑っていただく必要はないですが――殿下の笑顔が見られると、自分も皆も嬉しいのですよ」

その言葉に、胸の奥がふっと温かくほどけた。
風が火の煙を運び、空は茜から藍へと変わりかけている。

(……この人たちと共にあることを、自分の居場所だと定められたら、きっと心は安らかだろう)

けれど、その思いの直後に、胸の奥で小さな痛みが芽生える。

(けれど――そう定めることを、私自身が許せない)

木椀を手にしたまま、視線を落とす。
目の前の湯気が、淡い光の膜となって揺れた。

(……今の私は、拒む力を持たないから、ここにいるだけ)

胸の奥で、静かにその言葉を唱える。
それはあの男の声に縋る、自己欺瞞だと分かっている。
けれど同時に、それは今の自分を、少しでも許すための祈りでもあった。

火の音が、風に混じってぱちぱちと鳴る。
王女はそっと木杓子を鍋に戻し、微笑をひとつ残した。

(――この祈りが、明日も私を動かすなら)

その胸に、ゆるやかな温度が灯っていた。



 * * *



鍋の火が小さくなり、人々の列も次第に途絶えはじめていた。
片付けに入る手の音だけが、夜気の中に細く響く。

ユリオが空の木椀を重ねながら、ふと思い出したように口を開いた。
「……そういえば、殿下。来月の叙勲祭の話はお聞きになりましたか?」

「えぇ……」
王女はうなずきながら、セヴランから聞かされた話を思い出した。

── 数日前、政務補室でセヴランが淡々と告げた。

「毎年、秋の叙勲祭では功績ある者に勲章や功労賞が授与されます。そして今年は、施療院の運営に携わった者たちがその功労賞を受けることになりました。……授与式では、殿下が代表として受章なさることになります」

口調は平板で、連絡としての温度しかない。
だが、その裏に帝国の意図――“象徴としての演出”が潜んでいることを、王女は感じ取っていた。

「……あなた方へ送られる賞を、私が代表として受章するというのは、おかしいと思うのですが」

木椀を拭っていた手が止まり、ユリオは穏やかに笑った。

「いいんですよ。功労賞が与えられること、そしてそれを殿下が代表として受章されることで、陛下がこの施療院の取り組みに重きを置いておられると、皆に伝わりますから」

その言葉に、王女は小さく息をのんだ。

(……ユリオまで、同じことを言うのね)

政務補室で同じことをセヴランに言った時、彼も全く同じ理屈を返した。
けれど、ユリオの声には打算よりも素朴な喜びが混じっていた。

(現場の者がそう思うのなら……)

自分が代表として立つことにまだ抵抗はある。
だが、それでこの人たちの努力が正しく届くのなら、その役をきちんと果たそう――そう思えた。

ユリオは重ねた木椀を抱え、照れくさそうに笑う。
「それにね、殿下。俺たちの代表を殿下がつとめてくださるんだぜって、結構、鼻高々に自慢してるんですよ、施療院の連中」

思わず王女の口元が緩んだ。
湯気の消えた空に、秋の気配を帯びた風が吹き抜ける。

「……そう、なのですか」

「はい。だから、当日は胸を張ってください。みんな、殿下の姿を見るのを楽しみにしてますから」

王女は小さく頷いた。

風が通り過ぎ、空の高みで星が瞬いた。
その光の先に、まだ見ぬ秋の祭の喧噪が、かすかに揺らめいていた。
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