冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―

唯 さらら

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第七章 帝国の象徴〈転〉

1 沈黙の狩人

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── 半月前 帝城・執務室 ──

午後の光が低く傾き、南窓の硝子越しに差す陽が灰の絨毯を鈍く照らしていた。
石壁の冷気が残る室内に、紙を繰る音と羽根筆の擦過だけが微かに響く。

ダリオスは報告書を閉じ、指先で机を一度、静かに叩いた。
「――影の気配は途絶えたままか」

脇机に控えるセヴランが静かに頷く。
「はい。施療院での一件を除いて、王女殿下を狙う動きは確認されておりません。周囲に配置した監視も、異常なし。……不気味なほどに、静かです」

窓からの光を背に受けながら、ダリオスはわずかに目を細める。
その表情には、長く張り詰めた思考の影があった。

「――残党どもに計画を急かしておきながら、今度は、まるで息を潜めたように動かぬ。あれからもう半年。……不自然だと思わないか」

一拍の間を置き、セヴランが低く言葉を添える。
「“動かない”ことが、逆に兆しのようにも思えます。まるで、何かを待っているような……」

言葉は石壁に吸い込まれ、重く沈む。

「暗殺者を匿っていると思われる貴族も絞れていますが、証がない……。動かぬ者を討てば、内乱の火種となりますし」

セヴランがふぅとため息をつく。

「“あれ”からの連絡は?」

低い問いかけに、セヴランはわずかに眉を寄せる。
「難航しているようです。動きがないものを掴むのが難しい、と」

ダリオスは軽く息を吐き、椅子の背にもたれた。
「……動かぬ相手を待つほど、退屈なこともないな」

光を受けた横顔に、苛立ちではなく、どこか試すような気配が宿る。

「守りを固めているうちは、主導権を奪われているのと同じだ。影は、こちらが動かぬほど、深く潜るものだ」

セヴランの眉がわずかに動いた。
「……お考えが?」

ダリオスはしばし視線を落とし、机上の地図をなぞる。
「秋の叙勲祭だ」
地図上の帝都中央――大円堂を指先で叩く。

「施療院の功を称える式で、王女を代表として立たせる。民も貴族も集う。あれ以上、目立つ舞台はない」

セヴランは一瞬目を伏せてから、顔を上げる。声には渋さが混じっていた。
「……おびき寄せるおつもりですか」

「そうだ」
あっさりと告げる声の奥に、淡い熱が滲んだ。

「沈黙する獣を狩るには、まず餌を見せねばならん。こちらが動かねば、いつまでも夜は明けん」

セヴランの声に硬さが混じる。
「陛下、それは王女殿下の御身を明確に危険に晒す策です。――象徴を危険に置くことは、帝国の顔を賭けることに等しい。民情の揺らぎ、貴族の憤激、国外の思惑。あらゆる波紋が陛下のもとに返ってきます」

「そのくらいの賭けでなければ、牙は出ぬ」
ダリオスは笑うとも吐くともつかぬ息を洩らし、窓外に視線を移した。
「守るだけでは、獣の息づかいすら掴めん。動くのは、こちらだ」

セヴランは言葉を探し、低く押し出す。
「……王女殿下は既にただの駒ではありません。少なからぬ民が、彼女に親しみと希望を見始めている。もし万一の事があれば、帝国の正当性そのものが揺らぎます」

「万一の事?」
ダリオスの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「危険を恐れて手を打たぬ者が、次に何を守れる?」

ダリオスの言に負けず、セヴランはさらに踏み込む。
「――叙勲祭の場では、王女殿下だけではない。陛下ご自身も標的になります。二人が同じ場に立てば、暗殺者は“どちらでもよい”。最悪、同時に狙われる」

ダリオスはわずかに眉を上げた。そして、ゆるやかに唇を動かす。
「ならば、なおのこと都合がいい」

「……陛下」

「俺の目の前に現れてくれるなら、これほど楽な狩り場はない。影に追わせるより、この手で仕留める方が確実だ」

椅子の背から身を起こし、ダリオスはゆるやかに立ち上がる。その黒衣が、硝子越しの光を遮って長い影を床に落とした。

「それに――命を狙われるくらいの緊張がなければ、式典というものは退屈だろう?」
その声音には、底知れぬ余裕が漂っていた。

セヴランは額に手を当て、小さく首を振った。
「……正気を疑いたくなります」

「それは褒め言葉と受け取ろう」
ふっとダリオスが不敵に笑う。

だがセヴランの声は、まだ固い。
「――私は、帝国の象徴と皇帝が同時に傷つくような策に、同意するわけにはいきません」

一拍の間を置いて、セヴランは息を吐いた。

「せめて、動線を工夫してください。王女殿下と陛下が、同時に標的となり得ないような配置を。どちらかに何かあったとしても、もう一方が無傷でいられるように。……それが最低限の条件です」

ダリオスはしばし黙し、やがて、短く頷いた。
「いいだろう」

彼は窓の外を見やりながら、指先で軽く地図を叩く。
「式の導線は再設計させる。俺が動くときは、舞台ごと動かすのが常だからな」

その言葉に、セヴランの肩がわずかに弛む。筆記台の上に紙を戻し、静かに座し直した。

しばし沈黙。
羽根筆の先に残った墨が、かすかに光を帯びる。

それを見つめたまま、セヴランは低く息を吐き、ようやく口を開いた。
「……ならば、準備にかかります。……姫君に意図を知られるわけにはいきませんね」

「当然だ。囮は自分の役を知らぬ方がよく動く」

ダリオスは再び椅子に腰を下ろし、淡く笑んだ。
その笑みは愉悦とも退屈ともつかぬ色を帯び、室内の空気をわずかに震わせる。

「牙がこちらに向けられる瞬間ほど――面白いものはないな」

セヴランは小さく首を振り、筆記台の端に手を置いた。その仕草は、もはや諦めにも似た静かな嘆息だった。
「……まったく、陛下らしいお言葉です」

窓の外では、秋の陽がゆるやかに傾き、石壁を染めていた。
冷えはじめた風が硝子を震わせ、嵐の前のような静けさに包まれていた。
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