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第七章 帝国の象徴〈転〉
3 凶星の夜
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秋の祭礼が、帝都の空気を浮き立たせていた。
初穂を神に捧げる静かな祈祷に始まり、続く市場祭では、香辛料と果実酒の匂い、楽師の音と歓声が大通りを満たす。
やがて豊穣祭となれば、供物の煙が天へと昇り、神々への感謝が街全体を包む。
人々の熱は、しだいに儀礼の頂へと向かう。
――神への感謝から皇への忠誠へ。
そして、いよいよ明日はその締めくくり。
豊穣の恵みを“人の功”として讃える叙勲祭。
神と皇がひとつに在るこの節目に、帝都の呼吸は静かに高鳴っていた。
── 叙勲祭前夜 大神殿・屋上 ──
秋の風が、祭礼の香を運んでいた。
神殿の尖塔の上では、冷えた空気の中、二人の影が星図を広げている。
「……見誤りではないか?」
「……見間違いではありません、神官長。赤い星が、東の空に」
若い神官が、震える指で指し示す。
東の空、蒼黒の雲の切れ間に、一瞬、血のような光が滲んだ。
老神官長は無言で頷き、夜空を仰いだ。
「凶星……。記録にある。かつて戦乱の前夜、あるいは主上の座が揺らぐ時にのみ現れる、と」
若い神官は息を呑む。
「明日は叙勲祭です。帝都中が祝宴に沸くというのに……まさか――」
屋上の縁に吹き込む風が、星図をはためかせた。
祭りの太鼓が遠くに響く。
街の灯はまだ絶えず、賑わいの余韻が夜気の底を流れている。
「陛下に、お知らせすべきでしょうか」
若者の声は震えていた。
大神官長は星図を巻き取り、ゆっくりと立ち上がる。
「陛下は星読みを好まれぬ。だが、それでも……知らせねばならぬ」
「不興を買うかもしれません」
「構わぬ。天の警めを黙して迎えることのほうが、罪が深い」
言って、大神官長は階へ向かう。
若い神官が慌てて後を追う。
「ですが、夜も更けています!」
「時を争うのだ」
屋上を下りる足音が、石段に反響した。彼の背に、風が吹きすさぶ。
「星は、遅れを許さぬと告げている……陛下のもとへ向かう」
── 祭の灯が遠ざかる。
夜空の凶星だけが、なお赤く脈打っていた。
── 数刻後 帝城・皇帝の私室 ──
廊の明かりは抑えられ、壁に掛けられた燭がわずかに揺れていた。
遠くの庭から、祭りの余韻の笛の音がかすかに届く。
「……大神官長が目通りを願っています」
報告の声に、執務卓の影がわずかに動いた。
「この時刻に?」
「はい。星に凶兆が現れたとか」
セヴランの言葉に、ダリオスは小さく息を吐いた。
面倒げに額へ手を当て、椅子の背に凭れる。
「まったく……神々はいつも、儀の前に口を挟むな」
しばしの沈黙ののち、彼は片手を上げた。
「いい。控えの間で短く済ませよう」
── 控えの間 ──
冷たい大理石の床に、大神官長の杖が軽く触れた。
老神官は深く頭を垂れ、沈痛な面持ちで言葉を選ぶ。
「陛下……天に凶星が現れました。古き記録によれば、それは“秩序の均衡”が乱れる前にのみ姿を見せると――」
「星が、秩序を量れるとでも?」
ダリオスの声は静かだったが、冷たい諧謔が滲んでいた。
「天はただ巡るだけだ。乱すのも整えるのも、人の手だろう」
短く息を吐き、肘掛に片手を乗せる。
「式典の前に、そんな話を吹聴すれば、民の心を乱すだけだ。不安は伝染し、やがて災いを呼ぶ。それが“人災”というものだろう」
大神官長が顔を上げる。
「……しかし、陛下。星が示すのはまさに“人”の手による災いにございます。天は、備えを促して――」
「備えなら既にしている」
ダリオスはゆっくりと背凭れに身を預け、視線を逸らさずに言い放った。
「天災も人災も、起こるときは起こる。大事なのは、それを最小に抑える仕組みを築くことだ。迷信で人心を煽ることではない」
それで終わりだというように、片手を軽く振った。
退室の合図だった。
だが、大神官長は動かなかった。
杖を握る手に力がこもり、老いた声が再び響く。
「……陛下。凶星は東の空にございます」
「東?」
ダリオスの指が、肘掛の縁で止まった。
「はい。かの方角は――」
大神官長は一拍置いて、言葉を選ぶ。
「王女殿下の御故国の在りし地。古き伝えにございます、凶星はその昇る方角に“災いの理”を示すと。つまり、星が告げる禍は……殿下に連なるものかもしれませぬ」
室内の空気が、一瞬にして張りつめた。
ダリオスは鋭く大神官長を見据える。しかし大神官長は怯みつつも言葉を続けた。
「せめて――明日の式典には殿下の御出席をお控えに、と」
「もうよい」
低い声が、刃のように遮った。
ダリオスの瞳には、淡い光が宿っていた。冷たく、しかしどこか押し殺したような色。
「星の方角で、人の行いを決めるというのか。神殿はいつからそのような解釈を許した?」
老神官は慌てて頭を垂れた。
「……不敬の意図ではございませぬ。ただ、兆しをお伝えせねばと――」
「兆しを語るなら、己の言葉で語れ。星のせいにするな」
冷ややかに言い放つと、再度片手を振り、退室を促した。
大神官長は唇を結び、やがて杖を握りしめて頭を垂れた。
「……御意」
扉が閉じ、大神官長の足音が遠ざかる。
しばしの沈黙。
その静けさを破ったのは、控えていたセヴランの低い声だった。
「……計画を、変更なさいますか」
ダリオスは椅子の背にもたれ、短く笑った。
「お前までそんなことを言うのか」
脇卓に置かれていた杯を手に取り、銀の水差しから静かに水を注ぐ。
杯に水の注がれる音が一瞬だけ響き、やがて彼はそれをゆるく傾けた。
「ふん。こうやって人の心を惑わせるのが“星読み”というやつだ。一度でも耳にすれば、理を持つ者まで囚われる」
「……ですが、凶星が東に昇るというのは――ただの偶然でしょうか」
「偶然だ」
杯の縁がわずかに揺れ、沈黙がひと呼吸置かれた。
視線を窓の外へ向ける。雲間にかすかな赤光が滲んでいた。
「偶然であっても、人はそれを因果に仕立てる。だが――星に動かされるような皇帝なら、とうに滅んでいる」
セヴランはそれ以上何も言わず、ただ静かに頭を下げた。
その横顔に、言葉にならぬ憂いが影のように落ちる。
ダリオスは杯を口に運び、微かに笑んだ。
「明日は予定どおりだ。――天が何を示そうと、俺は俺の秩序を示す」
杯が脇卓に触れ、鈍い音を立てた。
その響きが、静まり返った部屋に長く残った。
── 数刻後 女侯爵邸 ──
香油の灯が揺れる応接間。
織物の幕に映る金糸の影が、何かの祈りを描くように壁を這っていた。
「……凶星、ですって?」
女侯爵は紅茶の杯を持ったまま、目を見開いた。
「まぁ、それは大変!」
大神官長は疲れた顔で頷く。
「陛下にはお伝えいたしましたが……お叱りを受け、何も果たせませなんだ。我らが軽々しく口を開くべきではないと……」
「まぁ……」
女侯爵は椅子の背にもたれ、顔を曇らせた。
「お気持ちはよくわかりますわ。陛下に信仰の言葉を届けるのは、どなたにとっても難しいこと」
大神官長は胸の前で杖を抱き締め、沈痛に頭を下げた。
「せめて、あなた様の方で……民を守るために、何かできることがあれば」
「もちろんですわ」
女侯爵は穏やかに微笑んだ。
「神々の慈しみを、民の手に届く形にいたしましょう。どうぞご安心を」
老神官は深く礼をして立ち上がった。
扉が閉まり、足音が廊を遠ざかっていく。
静寂。
女侯爵は椅子を離れ、ゆるやかに窓辺へ歩み寄った。
白い階段を下る大神官長の背が、月明かりの中に小さく揺れていた。
その小さな背を見下ろす彼女の唇に、うっとりとした笑みが浮かんだ。
「“秩序の均衡”が乱れる時……やはり殿下が殉教者になられるのですね」
その声は甘く、祈りのようであった。
「信仰を軽んじる者にも啓示を与えてくださる神々は、なんと慈悲深いのでしょう。……けれど、信仰を軽んじる者はその啓示を受け取らない――運命とは、なんと皮肉なものかしらね。陛下」
香炉の煙が細く揺れ、星明りとともに夜へと溶けていった。
初穂を神に捧げる静かな祈祷に始まり、続く市場祭では、香辛料と果実酒の匂い、楽師の音と歓声が大通りを満たす。
やがて豊穣祭となれば、供物の煙が天へと昇り、神々への感謝が街全体を包む。
人々の熱は、しだいに儀礼の頂へと向かう。
――神への感謝から皇への忠誠へ。
そして、いよいよ明日はその締めくくり。
豊穣の恵みを“人の功”として讃える叙勲祭。
神と皇がひとつに在るこの節目に、帝都の呼吸は静かに高鳴っていた。
── 叙勲祭前夜 大神殿・屋上 ──
秋の風が、祭礼の香を運んでいた。
神殿の尖塔の上では、冷えた空気の中、二人の影が星図を広げている。
「……見誤りではないか?」
「……見間違いではありません、神官長。赤い星が、東の空に」
若い神官が、震える指で指し示す。
東の空、蒼黒の雲の切れ間に、一瞬、血のような光が滲んだ。
老神官長は無言で頷き、夜空を仰いだ。
「凶星……。記録にある。かつて戦乱の前夜、あるいは主上の座が揺らぐ時にのみ現れる、と」
若い神官は息を呑む。
「明日は叙勲祭です。帝都中が祝宴に沸くというのに……まさか――」
屋上の縁に吹き込む風が、星図をはためかせた。
祭りの太鼓が遠くに響く。
街の灯はまだ絶えず、賑わいの余韻が夜気の底を流れている。
「陛下に、お知らせすべきでしょうか」
若者の声は震えていた。
大神官長は星図を巻き取り、ゆっくりと立ち上がる。
「陛下は星読みを好まれぬ。だが、それでも……知らせねばならぬ」
「不興を買うかもしれません」
「構わぬ。天の警めを黙して迎えることのほうが、罪が深い」
言って、大神官長は階へ向かう。
若い神官が慌てて後を追う。
「ですが、夜も更けています!」
「時を争うのだ」
屋上を下りる足音が、石段に反響した。彼の背に、風が吹きすさぶ。
「星は、遅れを許さぬと告げている……陛下のもとへ向かう」
── 祭の灯が遠ざかる。
夜空の凶星だけが、なお赤く脈打っていた。
── 数刻後 帝城・皇帝の私室 ──
廊の明かりは抑えられ、壁に掛けられた燭がわずかに揺れていた。
遠くの庭から、祭りの余韻の笛の音がかすかに届く。
「……大神官長が目通りを願っています」
報告の声に、執務卓の影がわずかに動いた。
「この時刻に?」
「はい。星に凶兆が現れたとか」
セヴランの言葉に、ダリオスは小さく息を吐いた。
面倒げに額へ手を当て、椅子の背に凭れる。
「まったく……神々はいつも、儀の前に口を挟むな」
しばしの沈黙ののち、彼は片手を上げた。
「いい。控えの間で短く済ませよう」
── 控えの間 ──
冷たい大理石の床に、大神官長の杖が軽く触れた。
老神官は深く頭を垂れ、沈痛な面持ちで言葉を選ぶ。
「陛下……天に凶星が現れました。古き記録によれば、それは“秩序の均衡”が乱れる前にのみ姿を見せると――」
「星が、秩序を量れるとでも?」
ダリオスの声は静かだったが、冷たい諧謔が滲んでいた。
「天はただ巡るだけだ。乱すのも整えるのも、人の手だろう」
短く息を吐き、肘掛に片手を乗せる。
「式典の前に、そんな話を吹聴すれば、民の心を乱すだけだ。不安は伝染し、やがて災いを呼ぶ。それが“人災”というものだろう」
大神官長が顔を上げる。
「……しかし、陛下。星が示すのはまさに“人”の手による災いにございます。天は、備えを促して――」
「備えなら既にしている」
ダリオスはゆっくりと背凭れに身を預け、視線を逸らさずに言い放った。
「天災も人災も、起こるときは起こる。大事なのは、それを最小に抑える仕組みを築くことだ。迷信で人心を煽ることではない」
それで終わりだというように、片手を軽く振った。
退室の合図だった。
だが、大神官長は動かなかった。
杖を握る手に力がこもり、老いた声が再び響く。
「……陛下。凶星は東の空にございます」
「東?」
ダリオスの指が、肘掛の縁で止まった。
「はい。かの方角は――」
大神官長は一拍置いて、言葉を選ぶ。
「王女殿下の御故国の在りし地。古き伝えにございます、凶星はその昇る方角に“災いの理”を示すと。つまり、星が告げる禍は……殿下に連なるものかもしれませぬ」
室内の空気が、一瞬にして張りつめた。
ダリオスは鋭く大神官長を見据える。しかし大神官長は怯みつつも言葉を続けた。
「せめて――明日の式典には殿下の御出席をお控えに、と」
「もうよい」
低い声が、刃のように遮った。
ダリオスの瞳には、淡い光が宿っていた。冷たく、しかしどこか押し殺したような色。
「星の方角で、人の行いを決めるというのか。神殿はいつからそのような解釈を許した?」
老神官は慌てて頭を垂れた。
「……不敬の意図ではございませぬ。ただ、兆しをお伝えせねばと――」
「兆しを語るなら、己の言葉で語れ。星のせいにするな」
冷ややかに言い放つと、再度片手を振り、退室を促した。
大神官長は唇を結び、やがて杖を握りしめて頭を垂れた。
「……御意」
扉が閉じ、大神官長の足音が遠ざかる。
しばしの沈黙。
その静けさを破ったのは、控えていたセヴランの低い声だった。
「……計画を、変更なさいますか」
ダリオスは椅子の背にもたれ、短く笑った。
「お前までそんなことを言うのか」
脇卓に置かれていた杯を手に取り、銀の水差しから静かに水を注ぐ。
杯に水の注がれる音が一瞬だけ響き、やがて彼はそれをゆるく傾けた。
「ふん。こうやって人の心を惑わせるのが“星読み”というやつだ。一度でも耳にすれば、理を持つ者まで囚われる」
「……ですが、凶星が東に昇るというのは――ただの偶然でしょうか」
「偶然だ」
杯の縁がわずかに揺れ、沈黙がひと呼吸置かれた。
視線を窓の外へ向ける。雲間にかすかな赤光が滲んでいた。
「偶然であっても、人はそれを因果に仕立てる。だが――星に動かされるような皇帝なら、とうに滅んでいる」
セヴランはそれ以上何も言わず、ただ静かに頭を下げた。
その横顔に、言葉にならぬ憂いが影のように落ちる。
ダリオスは杯を口に運び、微かに笑んだ。
「明日は予定どおりだ。――天が何を示そうと、俺は俺の秩序を示す」
杯が脇卓に触れ、鈍い音を立てた。
その響きが、静まり返った部屋に長く残った。
── 数刻後 女侯爵邸 ──
香油の灯が揺れる応接間。
織物の幕に映る金糸の影が、何かの祈りを描くように壁を這っていた。
「……凶星、ですって?」
女侯爵は紅茶の杯を持ったまま、目を見開いた。
「まぁ、それは大変!」
大神官長は疲れた顔で頷く。
「陛下にはお伝えいたしましたが……お叱りを受け、何も果たせませなんだ。我らが軽々しく口を開くべきではないと……」
「まぁ……」
女侯爵は椅子の背にもたれ、顔を曇らせた。
「お気持ちはよくわかりますわ。陛下に信仰の言葉を届けるのは、どなたにとっても難しいこと」
大神官長は胸の前で杖を抱き締め、沈痛に頭を下げた。
「せめて、あなた様の方で……民を守るために、何かできることがあれば」
「もちろんですわ」
女侯爵は穏やかに微笑んだ。
「神々の慈しみを、民の手に届く形にいたしましょう。どうぞご安心を」
老神官は深く礼をして立ち上がった。
扉が閉まり、足音が廊を遠ざかっていく。
静寂。
女侯爵は椅子を離れ、ゆるやかに窓辺へ歩み寄った。
白い階段を下る大神官長の背が、月明かりの中に小さく揺れていた。
その小さな背を見下ろす彼女の唇に、うっとりとした笑みが浮かんだ。
「“秩序の均衡”が乱れる時……やはり殿下が殉教者になられるのですね」
その声は甘く、祈りのようであった。
「信仰を軽んじる者にも啓示を与えてくださる神々は、なんと慈悲深いのでしょう。……けれど、信仰を軽んじる者はその啓示を受け取らない――運命とは、なんと皮肉なものかしらね。陛下」
香炉の煙が細く揺れ、星明りとともに夜へと溶けていった。
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