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第七章 帝国の象徴〈転〉
8 囁きの導線
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── 翌日 帝城・執務室 ──
朝の光がまだ低く、長い影を床に落としていた。
分厚いカーテンが半ばだけ開かれ、外の喧騒を薄く遮っている。硝子窓の向こうでは、遠くの鐘が、昨日の余韻を引きずるようにゆるやかに鳴っていた。
机上には地図と報告書の山。
「――大円堂周辺、昨夕に封鎖完了。外郭の門と港にも検問を設けました」
セヴランが報告を読み上げる。声は落ち着いていたが、その手の甲には血管が浮いていた。
「市の混乱は?」
「初動は騒然としていましたが、今は沈静しています。市場は通常通り開きました。帝国の警備が“機能している”姿を見せるのが、今は最も効果的かと」
ダリオスは頷き、机上の地図に視線を落とした。帝都を中心に描かれた線が、何重にも重なっている。封鎖線、検問、宿泊地、関所、船着き場――それぞれに赤い印。
「船着き場と城門の出入りは絞ったか」
「はい。昼は通行許可証、夜は刻印と名簿。荷船は入港のみ許可し、出港は保留。郵便と駅馬は停止中。……物の流れを絞れば、奴がまだ帝都に潜んでいるなら必ず痕が出ます」
ダリオスは椅子の背にもたれ、静かに息を吐く。陽光の端が机の上の銀の杯をかすめ、反射が彼の横顔を照らした。
「それでいい。街を閉ざせば不安が増す。“帝国は動いている”と見せろ。――止まったと思わせるな」
セヴランが短く頷いた。その表情にわずかな疲労が滲むが、眼差しだけは鋭い。
「暗殺者は……既に国外へ逃げた線もあります。隣国への照会はすでに発信済み。形式上は“礼儀の問い合わせ”という形で」
「うむ。名指しはするな。国外にいると悟らせてもいい。奴がどこで動こうと、“皇帝の目は届いている”と知らしめればいい」
短い沈黙。紙の端が風に揺れた。
セヴランが、懐から一枚の報告書を取り出した。
「――南州からです。標的のひとつに、網を張ったとの連絡がありました」
「ようやく、か」
ダリオスの指先が軽く机を叩く。
「はい。もし予想どおりなら、まもなく何かが掛かるでしょう」
静けさが一瞬だけ落ちた。
その隙間を縫うように、次の問いが鋭く落とされる。
「睨んでいた奴らから暗殺者を匿っていた痕跡は?」
セヴランはため息をつきながら答える。
「確たる証拠はまだ。昨夜、密かに彼らの邸宅を封鎖し、出入りを記録しています。文書の押収は“儀礼冒涜に関する参考人”という名目で」
「……よし」
ダリオスは机の端に指を置き、軽く叩いた。
「時間をかけるな。数日のうちに、“誰が糸を引いたか”を民に示す。証拠がなくとも、流れを作ればいい。真実は後から合わせればよい」
セヴランの眉がわずかに動く。その動きに、かすかな痛みと迷いが滲む。
「陛下、それは――」
「今は“正しさ”よりも“支配”だ」
ダリオスは冷ややかに続ける。
「恐怖は秩序を壊すが、怒りは秩序を支える。怒りの矛先を、俺の指の差す先に向ける」
その声には、一片の揺らぎもなかった。
セヴランはわずかに視線を伏せ、息を整える。
そして静かに気配を切り替えると、手元の報告書をめくり直した。
「……昨夜のうちに、遺族には保護使を派遣し、弔金の準備と支給手続きを済ませました。葬儀費はすべて帝庫から支出。あわせて、街の掲示にも“皇帝よりの哀悼”として布告を出しています」
「哀悼、か」
「……民は、怒りの行き先を求めますが、その前に、陛下の“哀しみ”を置くことが重要です。“皇帝は私たちを見ている”と、そう思えれば、怒りは陛下へではなく――“見えぬ敵”へ向かう」
セヴランの声が途切れたあと、執務室に短い沈黙が落ちた。
ダリオスは机に置いた指を軽く叩き、ふっと唇の端を歪めた。
「……本当は私に対して怒ってもいいんだがな」
低く、乾いた声音。
笑いとも吐息ともつかぬ響きが、書類の山の上に落ちた。
その目には揺らぎはなく――ただ、自らの驕りを見据える冷たさだけがあった。
セヴランは答えず、ただ静かに視線を落とした。
皇帝の言葉の裏にある重みを、誰よりも知っていたからだ。
しばしの沈黙の後、
「……もうひとつ、厄介な件がございます」
セヴランが口を開いた。
ダリオスが目を上げて続きを促す。
「凶星の件です。昨夜から“叙勲祭の前に凶星が昇っていた”という話が、民の間で広がり始めています。曰く――陛下がその兆しを無視し、神の警告を退けたから、この災いが起きた、というものです」
ダリオスの眉がわずかに動いた。
声はなく、ただ指先が机の上で一度だけ軽く鳴る。
「……誰が流した」
「大神官長本人ではありません。あの方は沈黙を守っています。おそらく女侯爵が流したと思われます。大神官長があの夜、帝城を辞した後、女侯爵の邸に立ち寄ったようですので」
セヴランは言葉を選びながら続けた。
「民の間では、災厄を神罰として結びつけるのは早い。このままでは、神殿の威光が“恐れ”の形で息を吹き返します。――放置すれば、陛下の威信を食う毒になる」
ダリオスは短く間を置き、低く命じる。
「凶星の噂は抑え込め。神殿には使者を出して、“真の信徒は沈黙をもって祈るもの”――と伝えろ」
短い沈黙が落ちた。
セヴランは報告書の束を閉じ、しかしそのまま口を閉ざした。何かを言おうとして、唇の端がわずかに動く。
ダリオスが視線を上げる。
「……言え」
促され、セヴランは静かに息を吸った。
「凶星の件ですが――それだけでは終わっておりません」
ダリオスの眉がわずかに動いて、続きを促す。
「凶星が東から昇った、という話が民の間で広まっております。つまり――」
セヴランは声を絞った。
「王女殿下を、“災いを呼ぶ存在”と結びつける囁きが、出始めております」
室内の音が消えた。
紙の擦れる音すら止まり、ただ呼吸の音だけが沈む。静寂が、石のように長く横たわる。
やがて、低い声がその静けさを割った。
「災いを呼ぶ存在、か。……便利な言葉だな」
ダリオスの唇が、わずかに歪む。
「人は恐怖に名を与えると、安心する。名を与えた恐怖は、飼いならせる」
ダリオスはしばし考えるように目を閉じ、それからゆるやかに息を吐いた。
「――言わせておけ」
セヴランが顔を上げた。
「陛下?」
「恐れがあるなら、それを秩序に変えればいい。天が告げた災いを、地上で鎮められるのは誰か――その答えを、民の目に刻むだけのことだ」
ゆるやかに立ち上がる。
窓辺の光を背に受け、その影が机の上を覆う。
「星がどの方角から昇ろうと、俺がそれを見下ろしている。
――そう示せばいい」
セヴランの胸に、わずかな戦慄が走った。
だがその瞳には、確かな理解の色も浮かんでいる。
「……つまり、噂を封じるのではなく、“支配する”のですね」
「そうだ」
ダリオスは短く応じ、机上の書簡をひとつ取り上げた。
「姫が呼んだ災いを、帝国の手で鎮める――それが物語になる。天に怯える民も、神に縋る貴族も、皆その劇の観客にすぎん」
その声は低く、どこまでも静かだった。
だが、その静けさの底には、燃えるような熱がひそんでいた。
セヴランはしばし沈黙していたが、やがて視線を落としたまま問いを継いだ。
「……姫君は、いかがなさっておられますか」
「眠っている。薬でな」
セヴランの眉がわずかに動く。
「……強制的に、ですか」
「医官の判断だ。今はそれが最善だ」
ダリオスの声は平板だったが、その奥にわずかな重みがあった。
セヴランの顔に、何かを押し殺すような陰が射す。
「……“災いを呼ぶ姫”などという噂が立っている今、民の目に晒すのは危うい。しばらくは、静養という名目でお休みいただいた方がよろしいでしょう」
ダリオスは短く肯いた。
その瞳に、一瞬だけ鋭い光が閃く。
「“災い”を舞台の中央に置くには早すぎる。今はまだ、沈黙と陰影の中に伏せておくのがいい」
窓の外では、祝祭の余熱を冷ますように鐘が鳴っていた。
その音は、遠ざかる歓声の名残と、沈んだ祈りの気配とを、ひとつに溶かしていた。
朝の光がまだ低く、長い影を床に落としていた。
分厚いカーテンが半ばだけ開かれ、外の喧騒を薄く遮っている。硝子窓の向こうでは、遠くの鐘が、昨日の余韻を引きずるようにゆるやかに鳴っていた。
机上には地図と報告書の山。
「――大円堂周辺、昨夕に封鎖完了。外郭の門と港にも検問を設けました」
セヴランが報告を読み上げる。声は落ち着いていたが、その手の甲には血管が浮いていた。
「市の混乱は?」
「初動は騒然としていましたが、今は沈静しています。市場は通常通り開きました。帝国の警備が“機能している”姿を見せるのが、今は最も効果的かと」
ダリオスは頷き、机上の地図に視線を落とした。帝都を中心に描かれた線が、何重にも重なっている。封鎖線、検問、宿泊地、関所、船着き場――それぞれに赤い印。
「船着き場と城門の出入りは絞ったか」
「はい。昼は通行許可証、夜は刻印と名簿。荷船は入港のみ許可し、出港は保留。郵便と駅馬は停止中。……物の流れを絞れば、奴がまだ帝都に潜んでいるなら必ず痕が出ます」
ダリオスは椅子の背にもたれ、静かに息を吐く。陽光の端が机の上の銀の杯をかすめ、反射が彼の横顔を照らした。
「それでいい。街を閉ざせば不安が増す。“帝国は動いている”と見せろ。――止まったと思わせるな」
セヴランが短く頷いた。その表情にわずかな疲労が滲むが、眼差しだけは鋭い。
「暗殺者は……既に国外へ逃げた線もあります。隣国への照会はすでに発信済み。形式上は“礼儀の問い合わせ”という形で」
「うむ。名指しはするな。国外にいると悟らせてもいい。奴がどこで動こうと、“皇帝の目は届いている”と知らしめればいい」
短い沈黙。紙の端が風に揺れた。
セヴランが、懐から一枚の報告書を取り出した。
「――南州からです。標的のひとつに、網を張ったとの連絡がありました」
「ようやく、か」
ダリオスの指先が軽く机を叩く。
「はい。もし予想どおりなら、まもなく何かが掛かるでしょう」
静けさが一瞬だけ落ちた。
その隙間を縫うように、次の問いが鋭く落とされる。
「睨んでいた奴らから暗殺者を匿っていた痕跡は?」
セヴランはため息をつきながら答える。
「確たる証拠はまだ。昨夜、密かに彼らの邸宅を封鎖し、出入りを記録しています。文書の押収は“儀礼冒涜に関する参考人”という名目で」
「……よし」
ダリオスは机の端に指を置き、軽く叩いた。
「時間をかけるな。数日のうちに、“誰が糸を引いたか”を民に示す。証拠がなくとも、流れを作ればいい。真実は後から合わせればよい」
セヴランの眉がわずかに動く。その動きに、かすかな痛みと迷いが滲む。
「陛下、それは――」
「今は“正しさ”よりも“支配”だ」
ダリオスは冷ややかに続ける。
「恐怖は秩序を壊すが、怒りは秩序を支える。怒りの矛先を、俺の指の差す先に向ける」
その声には、一片の揺らぎもなかった。
セヴランはわずかに視線を伏せ、息を整える。
そして静かに気配を切り替えると、手元の報告書をめくり直した。
「……昨夜のうちに、遺族には保護使を派遣し、弔金の準備と支給手続きを済ませました。葬儀費はすべて帝庫から支出。あわせて、街の掲示にも“皇帝よりの哀悼”として布告を出しています」
「哀悼、か」
「……民は、怒りの行き先を求めますが、その前に、陛下の“哀しみ”を置くことが重要です。“皇帝は私たちを見ている”と、そう思えれば、怒りは陛下へではなく――“見えぬ敵”へ向かう」
セヴランの声が途切れたあと、執務室に短い沈黙が落ちた。
ダリオスは机に置いた指を軽く叩き、ふっと唇の端を歪めた。
「……本当は私に対して怒ってもいいんだがな」
低く、乾いた声音。
笑いとも吐息ともつかぬ響きが、書類の山の上に落ちた。
その目には揺らぎはなく――ただ、自らの驕りを見据える冷たさだけがあった。
セヴランは答えず、ただ静かに視線を落とした。
皇帝の言葉の裏にある重みを、誰よりも知っていたからだ。
しばしの沈黙の後、
「……もうひとつ、厄介な件がございます」
セヴランが口を開いた。
ダリオスが目を上げて続きを促す。
「凶星の件です。昨夜から“叙勲祭の前に凶星が昇っていた”という話が、民の間で広がり始めています。曰く――陛下がその兆しを無視し、神の警告を退けたから、この災いが起きた、というものです」
ダリオスの眉がわずかに動いた。
声はなく、ただ指先が机の上で一度だけ軽く鳴る。
「……誰が流した」
「大神官長本人ではありません。あの方は沈黙を守っています。おそらく女侯爵が流したと思われます。大神官長があの夜、帝城を辞した後、女侯爵の邸に立ち寄ったようですので」
セヴランは言葉を選びながら続けた。
「民の間では、災厄を神罰として結びつけるのは早い。このままでは、神殿の威光が“恐れ”の形で息を吹き返します。――放置すれば、陛下の威信を食う毒になる」
ダリオスは短く間を置き、低く命じる。
「凶星の噂は抑え込め。神殿には使者を出して、“真の信徒は沈黙をもって祈るもの”――と伝えろ」
短い沈黙が落ちた。
セヴランは報告書の束を閉じ、しかしそのまま口を閉ざした。何かを言おうとして、唇の端がわずかに動く。
ダリオスが視線を上げる。
「……言え」
促され、セヴランは静かに息を吸った。
「凶星の件ですが――それだけでは終わっておりません」
ダリオスの眉がわずかに動いて、続きを促す。
「凶星が東から昇った、という話が民の間で広まっております。つまり――」
セヴランは声を絞った。
「王女殿下を、“災いを呼ぶ存在”と結びつける囁きが、出始めております」
室内の音が消えた。
紙の擦れる音すら止まり、ただ呼吸の音だけが沈む。静寂が、石のように長く横たわる。
やがて、低い声がその静けさを割った。
「災いを呼ぶ存在、か。……便利な言葉だな」
ダリオスの唇が、わずかに歪む。
「人は恐怖に名を与えると、安心する。名を与えた恐怖は、飼いならせる」
ダリオスはしばし考えるように目を閉じ、それからゆるやかに息を吐いた。
「――言わせておけ」
セヴランが顔を上げた。
「陛下?」
「恐れがあるなら、それを秩序に変えればいい。天が告げた災いを、地上で鎮められるのは誰か――その答えを、民の目に刻むだけのことだ」
ゆるやかに立ち上がる。
窓辺の光を背に受け、その影が机の上を覆う。
「星がどの方角から昇ろうと、俺がそれを見下ろしている。
――そう示せばいい」
セヴランの胸に、わずかな戦慄が走った。
だがその瞳には、確かな理解の色も浮かんでいる。
「……つまり、噂を封じるのではなく、“支配する”のですね」
「そうだ」
ダリオスは短く応じ、机上の書簡をひとつ取り上げた。
「姫が呼んだ災いを、帝国の手で鎮める――それが物語になる。天に怯える民も、神に縋る貴族も、皆その劇の観客にすぎん」
その声は低く、どこまでも静かだった。
だが、その静けさの底には、燃えるような熱がひそんでいた。
セヴランはしばし沈黙していたが、やがて視線を落としたまま問いを継いだ。
「……姫君は、いかがなさっておられますか」
「眠っている。薬でな」
セヴランの眉がわずかに動く。
「……強制的に、ですか」
「医官の判断だ。今はそれが最善だ」
ダリオスの声は平板だったが、その奥にわずかな重みがあった。
セヴランの顔に、何かを押し殺すような陰が射す。
「……“災いを呼ぶ姫”などという噂が立っている今、民の目に晒すのは危うい。しばらくは、静養という名目でお休みいただいた方がよろしいでしょう」
ダリオスは短く肯いた。
その瞳に、一瞬だけ鋭い光が閃く。
「“災い”を舞台の中央に置くには早すぎる。今はまだ、沈黙と陰影の中に伏せておくのがいい」
窓の外では、祝祭の余熱を冷ますように鐘が鳴っていた。
その音は、遠ざかる歓声の名残と、沈んだ祈りの気配とを、ひとつに溶かしていた。
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