75 / 75
第七章 帝国の象徴〈転〉
15 立つ者
しおりを挟む
── 夜 帝城・王女の居室 ──
夜の静けさが、石壁を染めるように深く満ちていた。
蝋燭の灯りが一つ、卓上で小さく揺れている。
王女がその薄明かりのもと、湯の冷めた茶器に指を触れていたとき――
扉が、重たく開いた。
ゆっくりと現れた黒衣の影。
その威容に見慣れたはずの心が、わずかにざわめく。
ダリオスは部屋の奥まで進み、立ったまま告げた。
「――旧都へ行け。静養だ」
王女の目が見開かれる。
ダリオスの声は低く、迷いなく続いた。
「準備はすでに整えてある。二日後には発て」
王女は息を呑んだ。
旧都――帝都から馬車で六日。
深い森と古い街並みに囲まれていると聞く、遠い地。
王女は言葉を探しながら、ようやく口を開いた。
「……どうして、そのような遠い地へ?」
問いは、抑えた声で漏れた。
その胸には、帝都を離れることへの戸惑いと、
まだ何かを試されているような不安が、静かに渦巻いていた。
ダリオスは窓の方へと視線を向けて、淡々と言葉を継いだ。
「帝都は、今回の件で……しばらくお前には騒がしいだろう」
その声に、怒りも憐れみもなかった。ただ事実としての温度だけがあった。
「静養のためには、空気を変えた方がいい。
旧都なら――帝都よりも、お前の故国の空気に近い。きっと、心も落ち着くはずだ」
王女は、しばらく何も言えなかった。
胸の奥に、冷たい石が落ちるような感覚だけが広がる。
目の前の男は、それに気づいていながら、まるで何も感じていないようだった。
王女は目を伏せた。
(……この男は、きっと気遣ってくれているのだろう)
頭では、そう理解できていた。
彼の言葉のひとつひとつに、悪意はなかった。
むしろ――その奥に、優しさのようなものすら感じてしまう。
けれど、胸の奥に沈んでいたものが、ざらりと蠢いた。
目を逸らしても、押し込めても、かすかな濁流のように浮かび上がる。
なぜ、だろう……。
なぜ、こんなにも――腹が立つのだろう。
押しとどめてきた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
ゆるやかに、だが抗えない勢いで。
なぜ、勝手に決められるのだろう。
なぜ、私の気持ちを確かめもせず、すべてが「最善」として整えられてゆくのだろう。
旧都の方が落ち着く――確かに、そうかもしれない。
けれど、それは「私が選んだ」わけではない。
問われることもなく、手配され、「二日後には発て」と、当然のように告げられる。
(……この人は、いつだってそう)
――『あれはお前の責ではない。全て、俺の判断が招いたことだ』
あのときも、きっと私を思っての言葉だったのだろう。
私の心を軽くしようと――
だけど。
なぜ、それで私の心が軽くなると思えるのか。
なぜ、私の中にある“責”を、問わずして奪おうとするのか。
その瞬間、胸の奥にこみ上げてきたものが、言葉になった。
「……なぜですか?」
ダリオスの眉が、わずかに動く。
王女は一歩踏み出し、まっすぐに彼を見上げた。
「なぜ、勝手に決めつけるのですか?」
* * *
「なぜ、勝手に決めつけるのですか?」
その問いが放たれた瞬間、室内の空気がわずかに揺れた。
言葉よりも先に、視線がぶつかる。
ダリオスは黙したまま、王女を見つめ返す。
怒りとも、戸惑いともつかぬ――しかし、確かに抗う意志を宿した眼差し。
押し殺してきた感情が、理を突き破って顔を上げたような光。
その瞳の奥には、久しく見失われていた“生の色”が灯っていた。
ふと、遠い日の姿が脳裏によみがえる。
――『あの日々は陛下に与えられた幻ではなく、私が自分で選び取った現実です。……あの空気も、あの時間も。すべて、私自身の選択の証です』
目の前の女は、自分の歩みを他人の手の内に収められることに苛立つ。
まるで、自分の手綱を取り戻そうとするかのように。
(この女の怒りは、自分を取り戻そうとする証だ――)
ダリオスの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「決めつけたつもりはない」
静かにそう言ってから、一拍置く。
「……だが、いまのお前に“決める力”があるとは、俺には思えなかった」
言葉は鋭かった。
だが、それ以上に真っ直ぐで――彼女の中の何かを試すようだった。
「だから俺が決めた。それだけの話だ」
その視線は、王女の動揺すら逃さず、正面から受け止めていた。
まるで、「受けてみろ」と言わんばかりに。
* * *
ダリオスの言葉は、正論だった。
いつものように、隙がなく、否定の余地もない。
(……けれど)
王女は、静かに息を吸った。
心の奥に残っていた迷いに、輪郭ができていく。
視線を逸らさず、彼の目をまっすぐに見上げる。
「お気遣いくださり、痛み入ります」
言葉は静かだった。
けれど、その芯は揺れていなかった。
「お陰様で――だいぶ、回復いたしました」
一歩、言葉で距離を詰める。
そして、はっきりと口にする。
「ですから……私は、旧都には参りません」
ダリオスの瞳が、わずかに細められる。
「この帝都に、私の仕事があります」
脳裏に浮かぶ、施療院の光景。
自らが初めて役に立てたと感じたあの日の感触。
「そして――私が引き受けるべき罪があります」
口にした途端、その言葉の重みが胸の奥で静かに形を持った。
自らの選びが誰かの運命を変え、命の行方さえも左右したこと。
それでもなお、自分を信じ、託してくれた者たちがいるということ。
そのすべてを――この身に引き受けて、生きていくのだと。
「だから、私はこの帝都で、それらと向き合います」
最後の言葉を口にしたとき、
自分の中の何かが、確かに静かに結ばれていくのを感じた。
* * *
その瞬間、室内の空気が変わった。
ダリオスは、目の前の女を見つめる。
その姿には、もう翳りはなかった。沈んでいた光が、ふたたび輪郭を取り戻している。
(……戻ってきたか)
ゆるやかに放たれた声は、震えも迷いもなく、
細いながらも芯の通った剣のようだった。
淡々とした響きの中に、確かな熱がある。
それは“従う”ための言葉ではない。“自ら選び、立つ”ための言葉だった。
かつてただ飾られていた女が、
今、確かな意志を伴ってこの場に立っている。
ダリオスは、その変化を静かに見届けていた。
「……そうか」
ダリオスは短く言った。
「ならば、二日後に発つ馬車は無駄足ということだな」
その声音に皮肉はなかった。
ただ、何かを測るような静けさと、
ほんのわずかな――諦めとも、安堵ともつかぬ、陰りがあった。
(……この覚悟が本物かどうか、いずれ、世界が答えを引き出すだろう)
そして、自分もまた。
この手で、それを試すことになる。
彼は視線を戻し、王女の瞳を見据えた。
「その代わり――逃げるなよ」
それは命令ではなかった。
ただ一つの、試すような念押し。
王女は、まっすぐに頷いた。
逃げない――そう口にする代わりに、その目がすべてを語っていた。
沈黙が落ちる。
それでも、互いの視線だけは逸れなかった。
秋の夜は静かに深まり、
窓の外では、帝都の灯が、ひとつ、またひとつと消えていく。
新たな季節の気配が、まだ見ぬ風の中に、ひそやかに潜んでいた。
―― 第二幕・了 ――
夜の静けさが、石壁を染めるように深く満ちていた。
蝋燭の灯りが一つ、卓上で小さく揺れている。
王女がその薄明かりのもと、湯の冷めた茶器に指を触れていたとき――
扉が、重たく開いた。
ゆっくりと現れた黒衣の影。
その威容に見慣れたはずの心が、わずかにざわめく。
ダリオスは部屋の奥まで進み、立ったまま告げた。
「――旧都へ行け。静養だ」
王女の目が見開かれる。
ダリオスの声は低く、迷いなく続いた。
「準備はすでに整えてある。二日後には発て」
王女は息を呑んだ。
旧都――帝都から馬車で六日。
深い森と古い街並みに囲まれていると聞く、遠い地。
王女は言葉を探しながら、ようやく口を開いた。
「……どうして、そのような遠い地へ?」
問いは、抑えた声で漏れた。
その胸には、帝都を離れることへの戸惑いと、
まだ何かを試されているような不安が、静かに渦巻いていた。
ダリオスは窓の方へと視線を向けて、淡々と言葉を継いだ。
「帝都は、今回の件で……しばらくお前には騒がしいだろう」
その声に、怒りも憐れみもなかった。ただ事実としての温度だけがあった。
「静養のためには、空気を変えた方がいい。
旧都なら――帝都よりも、お前の故国の空気に近い。きっと、心も落ち着くはずだ」
王女は、しばらく何も言えなかった。
胸の奥に、冷たい石が落ちるような感覚だけが広がる。
目の前の男は、それに気づいていながら、まるで何も感じていないようだった。
王女は目を伏せた。
(……この男は、きっと気遣ってくれているのだろう)
頭では、そう理解できていた。
彼の言葉のひとつひとつに、悪意はなかった。
むしろ――その奥に、優しさのようなものすら感じてしまう。
けれど、胸の奥に沈んでいたものが、ざらりと蠢いた。
目を逸らしても、押し込めても、かすかな濁流のように浮かび上がる。
なぜ、だろう……。
なぜ、こんなにも――腹が立つのだろう。
押しとどめてきた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
ゆるやかに、だが抗えない勢いで。
なぜ、勝手に決められるのだろう。
なぜ、私の気持ちを確かめもせず、すべてが「最善」として整えられてゆくのだろう。
旧都の方が落ち着く――確かに、そうかもしれない。
けれど、それは「私が選んだ」わけではない。
問われることもなく、手配され、「二日後には発て」と、当然のように告げられる。
(……この人は、いつだってそう)
――『あれはお前の責ではない。全て、俺の判断が招いたことだ』
あのときも、きっと私を思っての言葉だったのだろう。
私の心を軽くしようと――
だけど。
なぜ、それで私の心が軽くなると思えるのか。
なぜ、私の中にある“責”を、問わずして奪おうとするのか。
その瞬間、胸の奥にこみ上げてきたものが、言葉になった。
「……なぜですか?」
ダリオスの眉が、わずかに動く。
王女は一歩踏み出し、まっすぐに彼を見上げた。
「なぜ、勝手に決めつけるのですか?」
* * *
「なぜ、勝手に決めつけるのですか?」
その問いが放たれた瞬間、室内の空気がわずかに揺れた。
言葉よりも先に、視線がぶつかる。
ダリオスは黙したまま、王女を見つめ返す。
怒りとも、戸惑いともつかぬ――しかし、確かに抗う意志を宿した眼差し。
押し殺してきた感情が、理を突き破って顔を上げたような光。
その瞳の奥には、久しく見失われていた“生の色”が灯っていた。
ふと、遠い日の姿が脳裏によみがえる。
――『あの日々は陛下に与えられた幻ではなく、私が自分で選び取った現実です。……あの空気も、あの時間も。すべて、私自身の選択の証です』
目の前の女は、自分の歩みを他人の手の内に収められることに苛立つ。
まるで、自分の手綱を取り戻そうとするかのように。
(この女の怒りは、自分を取り戻そうとする証だ――)
ダリオスの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「決めつけたつもりはない」
静かにそう言ってから、一拍置く。
「……だが、いまのお前に“決める力”があるとは、俺には思えなかった」
言葉は鋭かった。
だが、それ以上に真っ直ぐで――彼女の中の何かを試すようだった。
「だから俺が決めた。それだけの話だ」
その視線は、王女の動揺すら逃さず、正面から受け止めていた。
まるで、「受けてみろ」と言わんばかりに。
* * *
ダリオスの言葉は、正論だった。
いつものように、隙がなく、否定の余地もない。
(……けれど)
王女は、静かに息を吸った。
心の奥に残っていた迷いに、輪郭ができていく。
視線を逸らさず、彼の目をまっすぐに見上げる。
「お気遣いくださり、痛み入ります」
言葉は静かだった。
けれど、その芯は揺れていなかった。
「お陰様で――だいぶ、回復いたしました」
一歩、言葉で距離を詰める。
そして、はっきりと口にする。
「ですから……私は、旧都には参りません」
ダリオスの瞳が、わずかに細められる。
「この帝都に、私の仕事があります」
脳裏に浮かぶ、施療院の光景。
自らが初めて役に立てたと感じたあの日の感触。
「そして――私が引き受けるべき罪があります」
口にした途端、その言葉の重みが胸の奥で静かに形を持った。
自らの選びが誰かの運命を変え、命の行方さえも左右したこと。
それでもなお、自分を信じ、託してくれた者たちがいるということ。
そのすべてを――この身に引き受けて、生きていくのだと。
「だから、私はこの帝都で、それらと向き合います」
最後の言葉を口にしたとき、
自分の中の何かが、確かに静かに結ばれていくのを感じた。
* * *
その瞬間、室内の空気が変わった。
ダリオスは、目の前の女を見つめる。
その姿には、もう翳りはなかった。沈んでいた光が、ふたたび輪郭を取り戻している。
(……戻ってきたか)
ゆるやかに放たれた声は、震えも迷いもなく、
細いながらも芯の通った剣のようだった。
淡々とした響きの中に、確かな熱がある。
それは“従う”ための言葉ではない。“自ら選び、立つ”ための言葉だった。
かつてただ飾られていた女が、
今、確かな意志を伴ってこの場に立っている。
ダリオスは、その変化を静かに見届けていた。
「……そうか」
ダリオスは短く言った。
「ならば、二日後に発つ馬車は無駄足ということだな」
その声音に皮肉はなかった。
ただ、何かを測るような静けさと、
ほんのわずかな――諦めとも、安堵ともつかぬ、陰りがあった。
(……この覚悟が本物かどうか、いずれ、世界が答えを引き出すだろう)
そして、自分もまた。
この手で、それを試すことになる。
彼は視線を戻し、王女の瞳を見据えた。
「その代わり――逃げるなよ」
それは命令ではなかった。
ただ一つの、試すような念押し。
王女は、まっすぐに頷いた。
逃げない――そう口にする代わりに、その目がすべてを語っていた。
沈黙が落ちる。
それでも、互いの視線だけは逸れなかった。
秋の夜は静かに深まり、
窓の外では、帝都の灯が、ひとつ、またひとつと消えていく。
新たな季節の気配が、まだ見ぬ風の中に、ひそやかに潜んでいた。
―― 第二幕・了 ――
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
転生後はゆっくりと
衣更月
ファンタジー
貧しい集落で生まれたリリは、生まれた瞬間から前世の記憶があった。
日本人特有の”配慮”に徹した赤ん坊を演じていたことで、両親から距離を置かれた挙句、村人からも「不気味な子」として敬遠されることに…。
そして、5才の誕生日に遠くの町に捨てられた。
でも、リリは悲観しない。
前世の知識チートは出来ないけど、大人メンタルで堅実に。
目指すは憧れのスローライフが出来るほど、ほどほどの守銭奴としてリリは異世界人として順応していく。
全25話(予定)
モブ転生とはこんなもの
詩森さよ(さよ吉)
恋愛
あたしはナナ。貧乏伯爵令嬢で転生者です。
乙女ゲームのプロローグで死んじゃうモブに転生したけど、奇跡的に助かったおかげで現在元気で幸せです。
今ゲームのラスト近くの婚約破棄の現場にいるんだけど、なんだか様子がおかしいの。
いったいどうしたらいいのかしら……。
現在筆者の時間的かつ体力的に感想などを受け付けない設定にしております。
どうぞよろしくお願いいたします。
他サイトでも公開しています。
王様の恥かきっ娘
青の雀
恋愛
恥かきっ子とは、親が年老いてから子供ができること。
本当は、元気でおめでたいことだけど、照れ隠しで、その年齢まで夫婦の営みがあったことを物語り世間様に向けての恥をいう。
孫と同い年の王女殿下が生まれたことで巻き起こる騒動を書きます
物語は、卒業記念パーティで婚約者から婚約破棄されたところから始まります
これもショートショートで書く予定です。
英雄の番が名乗るまで
長野 雪
恋愛
突然発生した魔物の大侵攻。西の果てから始まったそれは、いくつもの集落どころか国すら飲みこみ、世界中の国々が人種・宗教を越えて協力し、とうとう終息を迎えた。魔物の駆逐・殲滅に目覚ましい活躍を見せた5人は吟遊詩人によって「五英傑」と謳われ、これから彼らの活躍は英雄譚として広く知られていくのであろう。
大侵攻の終息を祝う宴の最中、己の番《つがい》の気配を感じた五英傑の一人、竜人フィルは見つけ出した途端、気を失ってしまった彼女に対し、番の誓約を行おうとするが失敗に終わる。番と己の寿命を等しくするため、何より番を手元に置き続けるためにフィルにとっては重要な誓約がどうして失敗したのか分からないものの、とにかく庇護したいフィルと、ぐいぐい溺愛モードに入ろうとする彼に一歩距離を置いてしまう番の女性との一進一退のおはなし。
※小説家になろうにも投稿
生きるために逃げだした。幸せになりたい。
白水緑
ファンタジー
屋敷内に軟禁状態だったリリアは、宝物を取り戻したことをきっかけに屋敷から逃げ出した。幸せになるために。体力も力もない。成り行きに身を任せる結果になっても、自分の道は自分で選びたい。
2020/9/19 第一章終了
続きが書け次第また連載再開します。
2021/2/14 第二章開幕
2021/2/28 完結
走馬灯に君はいない
優未
恋愛
リーンには前世の記憶がある。それは、愛を誓い合ったはずの恋人の真実を知り、命を落とすというもの。今世は1人で生きていくのもいいと思っていたところ、急に婚約話が浮上する。その相手は前世の恋人で―――。
三年の想いは小瓶の中に
月山 歩
恋愛
結婚三周年の記念日だと、邸の者達がお膳立てしてくれた二人だけのお祝いなのに、その中心で一人夫が帰らない現実を受け入れる。もう彼を諦める潮時かもしれない。だったらこれからは自分の人生を大切にしよう。アレシアは離縁も覚悟し、邸を出る。
※こちらの作品は契約上、内容の変更は不可であることを、ご理解ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる