日照雨

春想亭 桜木春緒

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 年が明けた。
 逸は十七歳になり、新兵衛は三三歳になった。

 師走の頃に、藤崎と結託していた港町の商人の島屋と大森屋が闕所に処された。藩内で産出された生糸や楮などの作物の価格操作によって不当な利益を得ていたということが罪状である。
 藤崎にもちかけられたものかも知れず、それを断りきれなかったものであるかもしれないが、そのために儲けたものも甚大であったのだろう。断らなかったことも、その不正に対して沈黙していたことも罪は罪である。大目付の鳥越にしても、実際に闕所とした両商人の家に財物を押さえに向かった畑野にしても、彼らの申し開きを聞き入れることは一切無かった。両家の財は藩に没収された。
 しかしながら、藩が、というより藤崎がと言ったほうが正しかっただろうが、彼らに借り入れた金について、その債権をすべて無効としたことは、いささか悪辣なことであったかもしれない。彼ら以外の商人達にもそのことは不評であった。
 年が明けて、この国から撤退するという商人が二・三はあるという。
 
 年が改まって、鳥越が家老の列に加わった。
 笹生は江戸家老を拝命し、雪が解ければ江戸へ旅立つ。
 そして畑野も江戸詰めと決まった。役職名は御側御用取次役兼留守居役添役と長い。二百石の役料が加わるいう。畑野が役に就いている間は、三百五十石の収入となる。

 「連れて行ってください」
と、畑野の江戸行きが決まったとき、直ぐに月子が申し出た。
 畑野は快く頷いた。元よりそのつもりであった。月子は国を出たがっている。その理由は口には出さないが皆わかっている。
「逸も参ると良い」
それで、逸も江戸へともに行くことに決まった。
 月子と同様、逸を国に置いておきたくないと畑野は思っている。畑野の家が貧しかった頃にあった悲しい出来事が彼女達に被っている。月子は城下で身を売りさらには宿場に売られた経験があり、逸は端下女として働いていたという経歴がある。
 いかに禄高が以前は三百石で現在は百五十石であるとしても、その間の貧しい時期に糊口を凌ぐために二人の娘がそうせざるを得なかった様々のことが、同様の身分の他家から見れば、哀れな穢れであり瑕疵であるように見えるらしい。
 そういう情け容赦の無い視線を持った城下の人々の中の誰かに、娘達を嫁がせることを、畑野は嫌った。
 江戸の屋敷には、国許ほど濃厚に娘達のことは届いてはいないだろう。そのような些事に構っていられるほどに江戸という町は悠長ではない。
 逸と月子のほかに、跡取りの志郎が江戸に行くことに決まった。志郎は江戸で留学をすることとなる。
 現在、彼らが暮らしている法華町の屋敷には、畑野の妻の幸枝と末子の睦郎がこのまま住み続けることになる。

 昨年の末ごろに、ようやく人を雇い、家事の負担が減って逸も楽になった。逸が母の看病を専一にすることを得て、その頃から薄紙を剥ぐようにめきめきと幸枝は快復を見せていた。
 年が明けた頃には、家族とともに正月の膳を囲むことを得ている。
 血色も良くなり、その顔に明るい輝きが点る。逸だけではなく、父も、子供達の全ても、その幸枝の笑みをどれほど嬉しく見たことだろう。

 一月の半ばに、仙之介雅義の処遇が決まった。
 藩主戸沢家の菩提寺である報国寺に預けられることとなった。

 加恵は、まだ生きている。
 外出を禁じられ、二の丸の屋敷に閉じ込められたままの二六歳の仙之介は、その旺盛な精力を発散させるところが無い。もう仙之介の身の回りには加恵しか居ない。加恵を求める以外に、仙之介に為すべきことはない。
 前年の暮に仙之介の所に連れて来られてからほぼひと月、加恵は昼夜を分かたぬ仙之介の求めにひたすら応じ続けている。
 日々、加恵はいつ仙之介に首を絞められるだろうかと怖れ、怯え続けている。その一方で、縊られる前にこのまま死んでしまうのではないだろうかと思うこともある。

 仙之介の烈しさに加恵はときどき息が絶えそうになる。そのことの最中に意識を失うことも一度や二度ではなかった。
 その分、山芋や卵など滋養のあるものを与えられてはいる。仙之介の為の疲労は過度だが、家に居たときよりも飢えることがなくなり、加恵は肌身に艶が現れたことを感じた。
 また、加恵に老女が傅くように世話をしてくれている。湯殿で背を流してくれたり、淡い化粧を施してくれたりもする。
 身に付ける物も贅沢になった。美しい染や縫い取りのある着物を纏い、きゅっと良い音のなる絹の帯を巻きつけている。肌着さえ、滑らかな肌触りの紅絹であった。襦袢も、それは仙之介の好みなのだろうが、艶やかな紅色の綸子である。
 絹というものが、軽く暖かなものであるということを、加恵はここに、仙之介の元に来たために知り得た。そうでなければ一生知らなかったかもしれない。
 髪も贅沢だ。時刻に構わず加恵に手を伸べる仙之介のために、髷は結えないが、良い香りの髪油で梳かれ、凶器となりうる簪は与えられないものの、美しい蒔絵の櫛を髪に挿している。
 そのような装いは、自らにそぐわぬものではないかと、加恵はおののきを覚える。
 それでもやはり、美しく着飾る嬉しさは、それを忘れかけていた加恵の娘心を充分に浮き立たせた。

 本来ならば仙之介は胸や腰に量感のある女が好みである。加恵の滋養の行き渡らぬ肉の薄い身体にさほどの魅力を覚えてはいない。
 今は、それでも加恵しか居ない。加恵に万一の事があったら次は無いと用人に言われている。藤崎という後ろ盾を失った痛手がわかる仙之介には、その用人の言葉が真実であるということを知った。
 誰も、もう仙之介を自侭にさせてくれるものは居ないのだ。
 時折、加恵の首に手を伸ばしそうになるのを堪え、仙之介に比べて余りにも脆弱な加恵が気を失うようなことがあれば眼が覚めるまで待ち、加恵の身を傷めぬように触れる。
 もろい玩具を壊さぬようにするような気遣いで、仙之介は加恵を扱う。
 仙之介の屋敷に留め置かれて三日目には、加恵は、縊り殺されるのではという疑い以外には、彼を怖いと思わなくなった。
 
 彼よりずっと惨い真似をする客に遭遇したことなど何度もある。
 常に、そのような男に遭うことを怖れながら、僅かな対価で身を売ることを思えば、ひたすら仙之介とのみ交わるだけの立場など、さほど辛いこととは感じられない。疲労してもそれを回復できるだけの食餌と、暖かな寝床を与えられてもいる。
 惨い客に虐げられた後にも身を養う物も口に入らず、寒い筵の上で横たわっていた頃と比べれば、今の境涯のほうがずっと加恵には幸せに感じられるのだ。

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