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35話
しおりを挟む意識の奥底で物音がした。どしんと何やら重い物が落下したような音だった。
うつらうつらと目を開ける。
一瞬、自分がどこにいるのか判然としなかった。部屋の中は白く清潔な光に包まれていて、まだ夢の中にいるような感覚だ。
部屋の外ですずめが鳴いていた。
どうやら気絶したまま寝てしまったようだ。
身体を起こすと、杏が隣にいた。机に突っ伏して気持ち良さそうに寝ている。
机に目を落とす。どうやら、杏が代わりに俺の課題をやってくれたらしい。
課題は自分でやらないと意味がないとか言いそうなタイプなのに、さすがに責任を感じたのだろうか。
「借りを返したつもりかよ……」
俺はふっと笑って、頭をかいた。
その瞬間、嫌な予感が駆け巡った。
こんなだらしのない俺だが、ここ最近は早起きを心がけていた。
無論、学校へ行くために他ならないが、それなりに規則正しい生活を送れていたのだ。
だから窓から入り込む日差しの具合でおおよその時間がわかるほどになっていた。
そこから推察するに、どうも太陽の位置が普段よりも高い気がした。
時計を探そうと、部屋の中を見回す。
そこで俺はまた別のあることに気がついた。
玄関で何者かが寝ている。
いや、それはおよそ寝ているとは言い難い。顔から床に大胆に倒れ込んで、そのまま気絶したと表現すべきだろう。
派手な服装。きらびやかなアクセサリー。きつい色合いのメイクは遠目に見ても目が痛むほどだ。
それにしても酷い寝相だ。
半分だけ脱いだ靴は背中に乗っかっている。もう片方の靴はまだ足に装着されたままだった。
これが杏の母親か。
理解はしたものの不思議な気持ちだ。
母親と娘の寝顔に挟まれているのだ。少し丸めの顔という共通点はあるものの、化粧気のない杏とはあまりに対照的だ。
杏母は年歳のわりに若々しく美人には違いなかったが、やはりけばけばしい。
仕事柄仕方ないことなのかもしれない。しかし同じ屋根の下で暮らしている様子がどうにも想像できなかった。
なんて悠長なことを考えている場合ではない。俺は杏の肩を揺すった。
「起きろ、朝だ! 時間見てみろ」
杏はむにゃむにゃと口を鳴らしていた。
その間に、杏の母親の元へ駆け寄る。
「起きてください。玄関で寝ると風邪引きますよ」
俺が母親の面倒まで見るのはおかしいだろうか。
そんなことを考えていると、母親の方には明らかな反応があった。
「ふぁあ、ただいま……」
母親はゆらゆらと身体を起き上がらせると、寝ぼけ眼のまま俺を見つめていた。
煙草のにおいが鼻をつく。
「なんだ、いたんだ……」
何を勘違いしているのか、母親は嬉しそうに少し笑うと、俺の首に腕を回して、抱きついてきた。
「はやくぅ、おやすみのキスしてよぉ」
「ふぇぇ⁉」
甘えた声でとんでもない要求をされた俺は、驚いて大きく仰け反った。同時に母親も飛び込むように覆いかぶさってきた。
杏とやることが同じだ。
変な寝ぼけぐせとでもいおうか。
「ねえ、はやくぅ」
紅い唇を突き出す母親。
酒臭い息が顔にかかる。
「ちょ、やめてくださいよ……」
抵抗虚しく、酒臭い息によって俺の口は塞がれた。身体を動かして抜け出そうとするが、杏母は意外にも強い力で俺を抱き込み、俺を離そうとはしてくれない。
「えーっ⁉ ちょ、ちょっと!」
ちょうどその時、部屋の方から杏の叫び声が聞こえてきた。アパートの全住人が目覚めかねない程の馬鹿でかい声、悲鳴混じりの声だった。
「えっえっ、うそでしょ⁉ うちの母親になんてことしてくれてんのよ⁉」
覆いかぶさられているのは俺だ。
どこからどう見ても犠牲になっているのは俺の方だと、必死に訴えようとしたが、声が出ない。
みっちりと口を塞がれるどころか、恐ろしいほどの吸引力で俺の唇は(物理的に)奪われていた。
「変態! いつまでそうしてるの! いい加減離れなさいよ!」
杏はばたばたと駆け寄ってきて、俺の頭をぽかぽか殴ったり、髪を引っ張ったりしている。
しかし効果がないと悟ると、強引に杏母の身体を俺から引き剥がしにかかった。
「もうヘンタイ! サイテイ! やっぱり女なら誰でもいいんだ!」
「その話は後だ!」俺はごしごしと顔の口紅を拭いながら、「時計を見ろって」
はっとした表情をした杏。
家の置き時計に視線を走らせ、その顔が青ざめたのがわかった。
「たかしはっ?」
杏が最初に発した言葉はそれだった。
俺が口をもごもごさせて返答に窮していると、杏はすぐに、
「うちの弟だってば!」
「あ、あぁ……」俺は玄関の靴を見た。「まだ帰ってないみたいだ」
「でもランドセルもないし」
話しながら杏は、再び寝息を立て始めた母親の身体を居間の方へ引きずっていた。慣れた動作だった。毎朝そんなことを繰り返しているのかもしれない。
「古路里くん、自宅を確かめてきて」
「自宅……?」
「私はその間に布団敷いて、出る準備してるから。戻ってきたらすぐに出発。わかった?」
「わ、わかった」
俺は勢いに押されるように刻々と頷いていた。
頷いたはいいものの。正直、始業ベルに間に合うかも怪しかった。
日頃の俺なら諦めているところだ。実際、遅刻の言い訳を考え始めているぐらいだった。
だがあくまでも彼女は諦めたり、腹をくくるつもりはないらしい。
「まったく諦めの悪いやつだな」
「あんたにはそう見える?」
「すべてを諦めた男から見ればな」
靴に足を滑り込ませる。
その時芽生えた感情は、自分でも不思議で新鮮に感じた。要するに俺は心の底から彼女を応援したいと思ったのだ。
トリエステには笑われるかもしれない。
でも如月杏という人間の人生を支えたい。
そんな気持ちが胸にあるのを自覚した。
何一つ成し遂げたことのない俺が彼女に何かを思うなど、おこがましいことなのかもしれない。
それでも彼女が笑顔になるなら良いと思えたのだ。そしてその顔を未来永劫、眺めていたい。俺はその一瞬確かに思ったのだ。
この先、永遠に生きるであろう俺が、永遠を誓えるかはわからない。
だがその一瞬の永遠は本物だと思う。
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