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36話
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「すぐ戻るぞ」
そう言い残して、アパートの階段を駆け上がった。
家の扉を開け、部屋の中を見回す。
誰もいなかった。ハンガーにかけられているはずのトリエステの制服もない。鞄もない。もちろん靴もなかった。
つまり、既に登校しているということだ。杏の弟も一緒に出たに違いない。
一言もかけずに家を出るなんて、ぎりぎりまで俺たちを寝かしてやろうという優しさだろうか。
それとも何か裏の思惑がある可能性も。
「……考えすぎか」
階段を降りたところで杏と鉢合わせた。彼女の不安そうな顔は様々な心情を物語っていた。
「まさか自転車でいくつもり?」
俺はそうだと言って、彼女の手を取り、駐輪場の方へ向かった。
その途中、彼女は強引に俺の手を振りほどいた。
「やだ私、鍵忘れちゃった!」
「戻る必要ない!」
杏の自転車の錠を手で壊した。人外にしてみれば、指先でぴんと弾けば容易く破壊できる。
「ちょっと!」
「後で修理するから。さぁ、後ろに」
「まさか二人乗りするの?」
「うちの自転車は妹が乗っていった。それに俺が漕いだ方が早いだろ」
「なにその自信……」
「遅刻してもいいのか?」
自転車に跨がり、顎でしゃくると、すぐに後ろに体重が加わるのがわかった。
「しっかり身体に掴まれって」
「掴まってるってば!」
「それは服の裾をツマムって言うんだよ」
「……ほら、これでいいでしょ」
つんと言い放つ杏。
全然だめだった。それではせいぜい裾をしっかりと握っている程度だ。
試しに勢いよく自転車を発進させると、ぐんと杏の身体が仰け反った。そのまま後ろに倒れていく杏の手首を咄嗟に掴んで引き戻す。
彼女の腕を俺の身体に巻きつけるようにすると、彼女はそれきり文句を言う素振りは見せなかった。
自転車を飛ばし、ようやく住み慣れはじめた住宅街を走り抜ける。
流れに乗りはじめたところで俺は、
「余計な時間を食ってしまったな」
「私が悪いっての?」
突っかかるように言ってきた杏だった。俺がむすっとして、しばらく黙っていると、彼女はくすくす笑いだした。
「なんで私、いつも怒ってるんだろうね」
「委員長だから、だろ? らしくていいじゃないか」
「なのに私、悪いことしてるね」
「遅刻ぐらい大したことじゃないだろ? それとも俺の課題のこと?」
「二人乗りの話だって。ねぇ、誰かに見られたらどうしよう」
「人が働いてる時に休むってのは気分がいいもんだ。このまま遠出してみるのも悪くないかもな」
「バカ言わないでよ」
俺も自然と笑いを溢していた。出会って最初のうちは、彼女が神経を尖らす度にやり返してやりたい気持ちに駆られていた。
今ではきつい彼女の口調が心地よく感じられていた。
「ねえ、もっと飛ばせないの?」と、杏は挑発するように言った。
「よし、しっかり捕まってろよ」
背中から回された腕に力が込められる。
俺はペダルに乗せた足を強く踏み込んだ。
「すごい」杏はため息を漏らすように言った。「こんなに早く走れるんだ」
自転車は勢いよく風を切っていた。
住宅街を抜ければ、大通りにぶつかる。そのまま速度を落とさず角を曲がると、「ひゃっ」と杏が小さな悲鳴を上げた。杏の回した腕が強く俺の腰を締め付ける。
遥か遠くに街中を走る電車が見えていた。待ち時間や電車に乗り降りする時間を考えれば、僅差でこちらに分がある。
少なくとも電車より早く走れればの話だが、今の俺には無理な事ではない。
俺は腰をかすかに浮かせ、体重をペダルに乗せた。
並走する自動車を追い越していく。
蒸し暑くて嫌な気分しかしなかった残暑が、今は爽快な風に変わっていた。
「この調子なら時間に間に合いそうだな」
そう言って額の汗を握った時だった。
「ねぇ、ちょっと止まって」
声を殺した杏が俺の肩を激しく叩いた。
「水をさす気か」俺はさらにペダルを踏み込んだ。「せっかく風に乗れて来たんだ」
「いや、ちょっとまずいかも……」
声まで青ざめているようだった。ただならぬ気配を感じ取り、一寸振り返る。
視界の端にパトカーが映った。助手席に乗っている警官が俺たちに目配せをしていた。
「そこの自転車」と、拡声器を通した声で呼び止められる。
そう言い残して、アパートの階段を駆け上がった。
家の扉を開け、部屋の中を見回す。
誰もいなかった。ハンガーにかけられているはずのトリエステの制服もない。鞄もない。もちろん靴もなかった。
つまり、既に登校しているということだ。杏の弟も一緒に出たに違いない。
一言もかけずに家を出るなんて、ぎりぎりまで俺たちを寝かしてやろうという優しさだろうか。
それとも何か裏の思惑がある可能性も。
「……考えすぎか」
階段を降りたところで杏と鉢合わせた。彼女の不安そうな顔は様々な心情を物語っていた。
「まさか自転車でいくつもり?」
俺はそうだと言って、彼女の手を取り、駐輪場の方へ向かった。
その途中、彼女は強引に俺の手を振りほどいた。
「やだ私、鍵忘れちゃった!」
「戻る必要ない!」
杏の自転車の錠を手で壊した。人外にしてみれば、指先でぴんと弾けば容易く破壊できる。
「ちょっと!」
「後で修理するから。さぁ、後ろに」
「まさか二人乗りするの?」
「うちの自転車は妹が乗っていった。それに俺が漕いだ方が早いだろ」
「なにその自信……」
「遅刻してもいいのか?」
自転車に跨がり、顎でしゃくると、すぐに後ろに体重が加わるのがわかった。
「しっかり身体に掴まれって」
「掴まってるってば!」
「それは服の裾をツマムって言うんだよ」
「……ほら、これでいいでしょ」
つんと言い放つ杏。
全然だめだった。それではせいぜい裾をしっかりと握っている程度だ。
試しに勢いよく自転車を発進させると、ぐんと杏の身体が仰け反った。そのまま後ろに倒れていく杏の手首を咄嗟に掴んで引き戻す。
彼女の腕を俺の身体に巻きつけるようにすると、彼女はそれきり文句を言う素振りは見せなかった。
自転車を飛ばし、ようやく住み慣れはじめた住宅街を走り抜ける。
流れに乗りはじめたところで俺は、
「余計な時間を食ってしまったな」
「私が悪いっての?」
突っかかるように言ってきた杏だった。俺がむすっとして、しばらく黙っていると、彼女はくすくす笑いだした。
「なんで私、いつも怒ってるんだろうね」
「委員長だから、だろ? らしくていいじゃないか」
「なのに私、悪いことしてるね」
「遅刻ぐらい大したことじゃないだろ? それとも俺の課題のこと?」
「二人乗りの話だって。ねぇ、誰かに見られたらどうしよう」
「人が働いてる時に休むってのは気分がいいもんだ。このまま遠出してみるのも悪くないかもな」
「バカ言わないでよ」
俺も自然と笑いを溢していた。出会って最初のうちは、彼女が神経を尖らす度にやり返してやりたい気持ちに駆られていた。
今ではきつい彼女の口調が心地よく感じられていた。
「ねえ、もっと飛ばせないの?」と、杏は挑発するように言った。
「よし、しっかり捕まってろよ」
背中から回された腕に力が込められる。
俺はペダルに乗せた足を強く踏み込んだ。
「すごい」杏はため息を漏らすように言った。「こんなに早く走れるんだ」
自転車は勢いよく風を切っていた。
住宅街を抜ければ、大通りにぶつかる。そのまま速度を落とさず角を曲がると、「ひゃっ」と杏が小さな悲鳴を上げた。杏の回した腕が強く俺の腰を締め付ける。
遥か遠くに街中を走る電車が見えていた。待ち時間や電車に乗り降りする時間を考えれば、僅差でこちらに分がある。
少なくとも電車より早く走れればの話だが、今の俺には無理な事ではない。
俺は腰をかすかに浮かせ、体重をペダルに乗せた。
並走する自動車を追い越していく。
蒸し暑くて嫌な気分しかしなかった残暑が、今は爽快な風に変わっていた。
「この調子なら時間に間に合いそうだな」
そう言って額の汗を握った時だった。
「ねぇ、ちょっと止まって」
声を殺した杏が俺の肩を激しく叩いた。
「水をさす気か」俺はさらにペダルを踏み込んだ。「せっかく風に乗れて来たんだ」
「いや、ちょっとまずいかも……」
声まで青ざめているようだった。ただならぬ気配を感じ取り、一寸振り返る。
視界の端にパトカーが映った。助手席に乗っている警官が俺たちに目配せをしていた。
「そこの自転車」と、拡声器を通した声で呼び止められる。
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