北風の賦

第一話 北風の夫婦

「あんた、どこ行くんよ」
　妻の於福おふくときたら、すっかり眠り込んだとばかり思っていたのに、とんだ狸寝入りじゃないか。
　のっそりと筵むしろから起き上がる気配がして、暗がりの向こうで声がしたものだから、北風荘左衛門そうざえもんは途端にビクつき、土間の簀子すのこのところでハタと動きを止めた。
　思わず目を落とすと、着流した小袖の裾から、おのれの痩せた毛脛が覗いている。
「どこにも行きゃあせんわ」
「行きゃあせんたって、あんた、草履を履こうとしとうやんか」
「ちょっと厠まで小用」
「ウソ。今まで裏の厠まで行くのんに、わざわざ草履を履いたことなんかないやんか」
　荘左衛門がソロソロと振り返ると、夜暗よやみの中で、腸はらわたの出た魚を狙う猫のような両目が光っていた。
　於福は、熊野から国巡りをしていた絵解比丘尼えときびくにの娘だった。
　十二の年に、母とともにここ兵庫津へやってきて、荘左衛門の子を孕んだので夫婦めおとになった。
　夫より十も年下で、「赤子が赤子を生む」ような有様だったが、意外にも丸々としてよく泣く男の子を産み落とした。
　それから二十有余年、息子はとっくに家を飛び出していって帰らない。堺やら室津やら、牛窓やら塩飽しわくやら、文字通りに津々浦々をふらつき回っているらしい。ごくたまに、思い出したように人伝で便りが来る。
「あんた、またウソをついたね」
「おれがいつ、ウソをついたっちうんや」
「わかっとうんやから。あんたのすることなんか、全部お見通しなんや。ただ、こっちで気がつかんふりをしたっとうだけなんや」
　この言い分に、荘左衛門はさすがにムッとした。
　於福の一番憎ッたらしいところだ。ウソをついたと言って、それが一体何なのかを問い詰めたところで答えない。言いっ放しの、言ったもん勝ちである。
　ただ胸の奥に、伝家の宝刀らしきものを後生大事に祀って、それでもっていつでも斬りかかれるのだぞと、隠し持っているテイである。得物の正体がわからないから、こちらもおいそれとは動けない。
　そういった力でもって、亭主を縛りつけようとする。荘右衛門はそこまでわかっているから、なおさらこの女房が憎い。
「ちょっとばかし、人と会ってくるだけやんか」
「あっそ。女やね」
「女やない。女やないとなれば、男なんはわかりきったことよ」
「あっそ。そうやって、またウソをつくんやね」
「誰がウソをついたことがある。ええ、オイッ。なんなら、お前も一緒に来たかてええんやぞ」
　こんな荘左衛門の言いようには、少しばかり勝ち誇ったところがある。
　来られれば困る。困るには困るが、そこまで言ってしまえば、この女房、決して一緒には来やしないことがわかりきっているからだ。
　人をウソつきだと責め立てておいて、その実際を検あらためようとは絶えてしない。あたかも、相手をウソつきだと決めつける切り札を、取り上げられてしまうのが怖いかのようだ。
　そうなれば、もはやコトはウソだウソでないという場合ではなくなる。ただ相手をやり込めて、心の中で踏みつけられるかどうかだけのところに落ち着いてしまう。真実は、春の陽かげんの霜のごとく、消えてなくなってしまうというわけだ。
「髪も洗ってもうたし、今から寒い夜道へ出ていけるわけないやんか。それがわかってて、あんたも強く出とうんやろ。はあー、なんちゅうヤな野郎や」
「ほしたら行ってくるからな」
「待たんかい。ここまで言われて、夜半の家に女房一人残して、出ていくやつがおるかい」
「すぐ帰ってくるわ。男同士の大事な話し合いがあるんや」
「大事な話し合いっちゅうんは、前もって女房にも話されへんようなことなんかい」
「お前を案じせたくなかったから、そおっと抜け出そうとしとったんやろうが。エエッ。ほとほと、心遣いのわからんやっちゃな。行ってくるから、よう戸締まりしとけよ」
「戸締まりなんかするかい。あんたが帰ってきたかて、うちはとっくに高鼾や。もう、何でもかんでも好き勝手にしい。どうせうちは、他に行くとこもない、捨て猫みたいな女なんやから」
　於福はプイと背中を向けると、まるまるした尻を衾ふすまへ隠すように身じろぎした。